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小さなダオ花 29

日本政府の今後の難民・外国人戦略(後編)
終止符はうたれた
開会に当たって終わりという名の始まり
あかつきの村
閉会のご挨拶
Holy Ring Staff
これからのはじめ
あとがき



日本政府の今後の難民・外国人戦略(後編)
水上洋一郎
(財団法人日韓文化協会理事長、元東京入国管理局長、元内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局員・内閣審議官)

第1節 今、なぜ難民問題か
第2節 果たして日本の難民政策は「進化」しているのか 
第3節 何が問題か
 1.問題意識の不在
   2.問題を極小化する外務省
 3.リーダーシップのない横並びの政策決定=政策不決定
 4.歴史はくり返す
第4節 提言の説明
 1.「交流共生基本法」の制定と「交流共生庁」の設置
 2.予算と人員の確保
 (以上、前編(「小さなダオ花28号」掲載) 

(後編)
 3.優遇政策導入と永住・帰化業務の統一
 4.定住外国人等の問題の分析
 5.極めて少ない難民申請者、難民認定者
 6.危機管理
第5節 基本戦略、いくつかのポイント
 1.共生社会にコストがかかるか
 2.相互依存・補完と相互理解、そしてソフトな安全保障
 3.外国人犯罪問題と国際テロ対策
 4.「日本は移民受け入れ国ではないという神話」        

 3.優遇政策導入と永住・帰化業務の統一

 難民に対して優遇積極策(アファ-マティブ・アクション)をとる。 難民出身者を公共部門、準公共部門、公益団体に積極的に採用する。また難民の地位の安定、 日本社会との共生の観点から定住・永住・帰化(国籍取得)について、 一体化した政策に基づき同一の組織の下で行う。これまで難民に対する永住や帰化(国籍取得)について統一的な方針が明らかにされたことはない。
 難民が早期に自立し日本社会と共生できるようにするため初動段階ににおいて住居・日本語教育、職業訓練、学校教育、社会教育、雇用、社会保障等について優遇積極策(アファーマティブ・アクション)をとる。
 インドシナ難民対策の経験では、ようやく定住は認める。つまり安定した法的地位は与えると決定しながら、日本語教育、職業訓練等の施策が遅れて後から手当てされた。
 難民条約加入によって内外人平等が実現されたが、 インドシナ難民に対する施策を除き、内外人平等の実現を下から支える優遇積極的は皆無に近かった。ごく最近、難民対策連絡調整会議で条約難民に対して一定の措置を行うと決めた。
 中国残留孤児は、外国人ではないが、そのとりまく環境は難民の置かれた状況に類似している。現在、永住帰国した孤児の約7割が生活保護を受け、 その多くが国に対して定住・定着政策に欠陥・不備があったとして訴訟を提起し、国の自立策について深刻な問題を投げかけている。

 4、定住外国人等の問題の分析

 戦後60年間に経験した在日韓国・朝鮮人、台湾人の処遇、インドシナ難民の受け入れ、中国残留孤児、日系外国人問題について社会への定着、統合の観点から分析・評価する。 特に、問題発見、問題解決型の社会科学的なアプローチが必要とされる。その研究成果は外国人政策や難民政策の策定に活用する。
 在日韓国・朝鮮人については差別と偏見の中で日本社会において実業、芸術、芸能、スポーツ界等で多くの貢献をしてきたが、未だ外国籍のままという人々がいる状況である。
 地方参政権や帰化(国籍取得)の是非について問題を提起している。インドシナ難民の中の相当数は日本では「夢」がかなえられず、幸福感を感じていないという声もある。 未だ日本語にも不自由をしている人々もいる。中国から永住帰国した孤児、その子たちは日本人であるのに日本社会から疎外されている。 南米日系人を中心とするニューカマーと呼ばれる人々については地域社会との共生、教育、社会保障、少年非行等の問題が指摘されている。

 5.極めて少ない難民申請者、難民認定者

 国際標準からみて先進国として難民申請者、難民認定者が極めて少ないことは憂慮すべきことである。 その原因を真摯に究明しなければならない。 日本の難民認定数は過去20年間で300人強で先進国の中で極めて少ない。
 難民制度導入時、どの省庁、どの部局に担当させるかについて議論があり、一種の消極的権限競合があった。
 当初から行政側において受身の姿勢が見られた。難民認定申請の窓口である全国の入管理局に難民に関する標示や案内が設けられたのはここ10年来のことである。難民業務担当者の数も少なく、専門性も低い。
 難民問題は国内問題であるが、対外イメージを重要視する外務省が前面にでる事が多い。難民行政を国内行政の中で優先順位の高いものとし、 リソース(人、金、物)を多く与えることが先ず必要である。難民受入れ国であることを効果的に広報する方策を検討することが重要である。 難民受け入れについてメディア、国民の側の意識の問題もある。なぜ、そもそも難民として日本で手あげる人がこのように少なのか。それほど魅力の国なのか。原因を突き止めなければならない。

 6.危機管理

 国境を越える人の移動、特に難民のように、一時的に大量に人が移動する事態は時には大変動を起こす。北朝鮮からの脱北者の状況から危機管理のシナリオを早急に作成する。
 1989年、当時ハンガリーはルーマニアから流出してきたハンガリー系ルーマニア人(国籍はルーマニア)をチャウシェスク独裁国家に追い返す事を避けるために難民条約に加入しこれらの人々を庇護した。 この結果、東独市民はハンガリーに行けば難民として扱われ東独に返されることはないとしてハンガリーに流入、 そしてオーストリア経由等で西独にたどり着き大量の人の移住が開始され、11月ベルリンの壁の崩壊につながった。 これが引き金となり、冷戦構造の崩壊、中・東欧の人の大移動、大再編をうながし、歴史の大転換となった。
 北朝鮮に置ける飢餓や脱北者状況から数万から10万人程度の危機管理プログラムを早急に策定しておく必要がある。 在日朝鮮人の帰還者は9万3000人(日本人配偶者1700人)といわれているおり、在日韓国・朝鮮人団体等に対しても予め対応を協議しておかなければならない。
 また、北東アジアから中東にかけての「不安定の弧」の中にある日本の北辺、南辺についても同様のシナリオが求められる。

第5節 基本戦略、いくつかのポイント

 1.共生社会にコストがかかるか

 確かに多様性を広く認め共生社会を成立させるためにはコストがかかり容易ではなさそうである。多様性を対立、敵対、分裂という方向に向かわないようにするため手間、ひまがかかりそうだ。 しかし、多様性、多元主義、多文化が個人や社会にとって活性化のもと、ダイナミズムの資産となり、結果的に統合化を強めるようになれば、帳尻が合い、むしろ黒字となる。 日本社会は先進諸国のうちでは閉鎖的で受容度が低そうに見え、内なる国際化ということが言われてきたが、深刻な民族・宗教対立はなく、差別・偏見の強度、顕在度においては比較的に優位な位置にいる。 難民問題だけをとってみても、例えばかつての西ドイツで1993年に年間30数万人の難民申請者が殺到し、日本円にして数千億円の費用を要した。
 このように比較優位の条件下にあるのだから政府の無駄なコストを削り、リソース(人、金、物)を投入すれば効果は大きい。 この新しい事業には政治の強いリーダーシップが求められる。そのためにも産・官・学の理解と協力、情報の共有が不可欠となる。

 2.相互依存・補完と相互理解、そしてソフトな安全保障

 現在、FTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)の締結が推進され、東アジア共同体が構想されようとしている。 また、観光立国の観点から韓国等間とので査証相互免除を取り決め、更に国際交流を促進しようとしている。
 経済の相互依存・補完関係の拡大・深化や人的交流活発化は、交流共生社会を方向づける大きな外枠である。それはまた、ソフトな安全保障の意味を持つ。
 他方、わが国には年間6~700万人の外国人が入国し、そのうちアジアからの人々は7割である。また、日本で生活する外国人は200万人でその7~8割はアジア人である。 これらの人々が交流共生社会の内枠を支えている。日本の内なるアジアー東アジアの連帯、交流共生なしでは東アジア共同体構想自体も実現しないであろう。 また、難民として庇護、保護を求める人々もほとんどアジアからの人々である。
 交流共生とは、実はアジア問題であり、課題としてのアジアである。

 3.外国人犯罪問題と国際テロ対策

 外国人との交流共生の構想するとき、外国人犯罪の急増、凶悪、組織化等のイメージが強く先行し過ぎると思考停止をさせかねない。 ここ数年の、外国人の出入国関係の法律改正も大半が規制強化、厳正化である。
 確かに、最近、都市の住宅地や郊外、そして地方都市において、空巣やひったくりなどが発生し体感では犯罪が増えているという面があるが、 外国人犯罪について言及するときは、日本における犯罪現象全体の中でとりあげ、分析しなければ均衡を欠くことになる。
 不法残留罪など外国人だけに科せられる罪についても一定の考慮が必要である。不法残留者は減少傾向にあることも注目してもよい。
 国際テロ対策はおろそかにできない緊急課題である。
 また、外国人の日本入国に当たって指紋採取や写真撮影が検討されているが、国境コントロールにおける不快さ、不便などや人権との関係でどこまで許されるか十分、議論の必要がある。 日本が外国人に対してこれらの手続きを求めるといずれ外国も相互主義により日本人に対しても同様の手続きを求めてくることになる。
 難民問題に関して国際テロリストが難民にまぎれて侵入するという議論があるが、難民は自ら手を挙げ申請等によって自身を明らかにして自己の来歴を述べる者である。 したがってテロリスト等として入国することはほとんど不可能である。テロリストは他の方法で潜入することとなる。

 4.「日本は移民受け入れ国ではないという神話」

 国境を越える人の移動は、各国の、そして国際間の経済の発展、更にグローバリゼーションの中で移民送り出し国が移民受け入れ国に変容したり、 一国が受け入れ国であるとともに送り出した国であるという現象も生じ、かつての移民やその子孫が母国にUターンをするということも生じている。 また、外国への出稼ぎ者が受け入れ国に定住、定着するということも顕著となっている。 したがって移民や外国人労働者に関して一国について移民受け入れ国、又は移民送り出し国として固定的な見方をすると真実が見えない。
 我が国にも毎年、外国人が数千人から1万人、在留特別許可として合法化され、4~5万人が永住許可され、1万数千人が帰化している。 また、日本人と外国人の国際結婚は3万数千組で、この人々の間から子供が生まれる。父母両系主義であるので、子供たちは日本国籍である。 以上、述べた人々は、既に日本で生活している在日韓国・朝鮮人・台湾人の特別永住者、永住者、定住者など、また日本に帰化した人々などとともに日本社会の正式な構成員である。
 第一次小泉内閣の当時、首相は日本の国柄について国会答弁で「世界から信頼される、日本に投資してみたいな、日本に行ってみたいな、あるいは日本で仕事をしてみたいなという国にする」と答えた。 <日本に永住したい、日本人になりたい>が欠落している。ここを本格的に考えないと日本は魅力のある国とならない。 来る者を温かく迎え、懐が深く、住みつく者には安らぎを与え、寛容であるような社会を構想することだ。
出典:「日本にとっての難民・避難民対策研究」プロジェクト編著
『東京財団研究報告書 日本の難民・避難民受け入れのあり方に関する研究』、東京財団研究推進部、2006年6月、32-49頁


終止符がうたれた時

 「どの道にも、それぞれの苦労がある。どれだけ歩いたか気にせず、愛をこめて歩め。」(作者不詳)
 最初に、この言葉の意味をかみしめながら「小さいダオ花」についての雑感を寄せたいと思います。
 「ベトナム人友好会」の活動に幕が引かれることになりました。今まで永年難民問題、 とくにインドシナ難民問題に積極的にかかわってこられた石川能也師、Sr.田中悦子のお二人の働きに神様が報いてくださることと信じています。 引き続き、違う形であっても今までの人間関係を生かし、更に発展されることを期待しております。
 厳しい状況の中で、日本の社会に順応しながら生活してこられたベトナムの皆様のご苦労は私たちの想像を越えるものがあると思います。 難民定住委員会の記録(1975年~2000年)によっても明らかなように、カトリック教会関係の意志は難民の皆様と共生するために特別な方針を掲げなければいうところから出発して、よい形で具体化されました。 もちろん、時間と共に変化していくことは当然で、お互いに試行錯誤を繰り返しながら、親密度も増す一方、難関である政府の方針との関係を理解するためにも、多くの人々の知識とエネルギーを必要としていました。 現在は、司祭として活躍していらっしゃる方々、日本の学校へお子さんたちを通わせて一生懸命教育し、一般企業、病院等多岐に亘って仕事を持って生活しておられる方々にも接することができ、 今までの歴史の重みを感じさせられています。
 世界の平和もなかなか実現しない現在、これまでの課題を再び見直して新しい風を吹き込む時がきているのかも知れません。 これからも、「今一番必要なことは何か」という問いかけに皆で応えていきたいと思います。漠然とした形であっても目指す方向が正しければ、 いつか目に見える活動になって、民族の違いを超越した平和な、そして共に生きていく世界が開けるのではないかと期待しています。
 [いかにささやかなものであれ、自分の役割を自覚する事ができたとき、われわれは、はじめて幸福になる]とサン・テグジュぺリが書いているように私たちも、 他者を受け入れ、その方々が役割を見いだして下さるように、力を注げば、理想に一歩近づくことはできるかも知れません。
 今まで、さまざまな方法でご協力いただいた方々とも、心を合わせて次の世代に期待をかけていきたいと思います。

中里昭子


閉会にあたってー終わりという名の始まりー

 私がベトナム難民と呼ばれる人びとの問題に関心を抱き始めたのは、1990年代半ばのことです。既に難民の定住をめぐる実務はほぼ終了しており、新しい問題群が挙がってきていたころでした。
   それから10余年。ベトナム出身の人びとの中には、一方で、高等教育を受けたリ管理職に昇進したりして専門な知識や技術を身につけて活躍するに至っている人びとがいます。 一見成功している人びとでさえ、「自分は何者であるか」という問いに常に悩まされることの負担は相当のものだといいます。 そうした状況の中、本会では、情報を集めて討議すること、個別の相談に対応すること、 それれの一部を配信して共有することなどを行ってきました。 本会は、たとえて言うならば、四つ角のような場であったと思います。困っている人、 少し余裕のある人、情報のほしい人、役立ちたいという気持ちのある人などが、それぞれに入ってきては、互いに見やったり、尋ねたり、知っていることを答えたり、 時には、しばしば話し込んだりする。そのようにしながら、互いの立ち居振舞いに接して、自分の歩みを見直す。
 私自身この四つ角の中で、行き交う方々のさまざまなお姿を拝見した、と感じています。 私自身はただぼんやりと突っ立てしまい、皆様のご通行のご迷なってしまったことも多かったように思い、反省しておりますが・・・。
 さて、このたび、この四つ角はなくなり、目の前に大通りが開通しました。 今後は、四つの角で経験してきたことを胸に、それぞれが自分の歩みを進めることになるのでしょう。 会は終わりますが、今から始めていきたいと思います、私自身の歩みを。 今後とも、お祈りで支え合っていくことができれば幸いです。 これまでのご指導とご支援、本当にありがとうございました。

山本直美


あかつきの村から
 新緑の候、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
 私は、約25年前に、ボートピーピルとして来日、帰化して現在群馬県前橋市にある「あかつきの村に」住んでいます。ベトナム人友好会のメンバーに参加できたことは私にとり嬉しいことでした。
 ベトナム人友好会が発足から5年の年月が経ちました。発足当初から石川神父と共に参加させていたただいていました。 友好会の隔月ごとに発行される小冊子「小さいダオ花」の編集、発行についても一緒に参加させていただきました事を今でもはっきり覚えています。 また、定例会にも参加させていただき、各方面の方々とお知り合いができました。この方々の暖かいご協力・ご支援がいただけましたことに、この場をかりて御礼申し上げます。
 毎月楽しみにしていた「小さいダオ花」がこれから読むことができないと思うとさびしくなります。本当にお疲れさまでした。
 また、機会がありましたらお声をかけてください。心から感謝しております。
(2007)年4月19日
石川 寧志(グエン・バン・ニン)


閉会のご挨拶

  日頃から本会をご支援くださり、ありかごうございます。実は、本会は、今号の発行をもって閉会することになりました。これまでのご厚情に感謝申し上げつつ、ご挨拶させていただきます。
 難民として滞日した人びとやその家族をめぐる大変難しい状況は、決して解決したわけではありません。むしろ、日々、かたちを変えているとも云えます。 本会では、その難しい状況に対応するため、さまざまな立場の人びとをつなぎコミュニケーションを促進しようとして活動を行ってきました。 一つには対面式の会の定期的開催を、もう一つには情報雑誌としての会誌を発行行ってきました。しかしながら、こうした本会のスタイルは、 そろそろ終焉を迎えたと思っております。スタッフは必ずしも体調が優れず、また遠方住居の者も多くなりました。 そしてここ数年、携帯電話やインターネットの利用がたいへん増えました。
 今後は、読者の皆様のお一人おひとりが、それぞれの場で、コミュニケーションを広げてゆくことが出来れば、と切に願っております。
 これまでにいただいた数多くのご支援、励ましは、私たちの糧として残っております。本当にありがとうございました。
石川 能也神父
(あかつきの村施設長)


Holy Ring Staff

 私どものサークル(Holy Ring Staff)がホームページ製作奉仕の機会を頂くようになりましたのは、日本カトリック司教協議会・難民定住委員会の時代にさかのぼります。
 すでに90年代から、ベトナム難民は過去のものという風潮が、国内はもちろんのこと、カトリック信者の中にもありました。
 しかし、ひとりひとりの難民は、定住とは認められたもののその生活には問題が山積し、世代が移行するにつれて新たな問題に直面しておりました。 この現状に目を向け続けて来られた、シスター田中を中心とするベトナム人友好会のスタッフの方々のお働きに、少しでもお役に立てればという気持ちで、隔月に発行される機関紙「小さなダオ花」のWEBに取り組んでまいりました。
 シスター田中は80年代に日本カトリック教会が難民へ取り組みを始めた当初からその中心でご活躍なさっておられますので、私どもはそのご活躍のほんの一時のお手伝いを許されたに過ぎません。 微力ながらも作業に携わることができましたことを誇りに思っております。
 難民の問題は終わる事はありません。
 平和の国に生まれた私たちが「海を渡ってきた仲間たち」の苦難を少しでも知り、共感し続けて行くこと、それがこの10年近く奉仕で学んだことです。 今後も違う形でベトナム人友好会の精神が生かされ続けて行くことを切に願っております。  
中嶋晶子


これからのはじめ

 難民についての十分でなかった1982年からインドシナ難民を主として数々の国の難民の援助の仕事をしてきました。
 当初はわからずとまどいながら働いておりましたが、少しずつ知識と経験をまし難題を突破する事ができました。
 今、色々の思い出す時、苦しかったことより楽しかった日々であったことを感謝しています。「初めがあれば終わりあり」・・・・・何事も終わる事があることは当然のことだと思います。
 「ベトナム人友好会」もこの5月で解散することになりました。 事務的な仕事、例えば機関紙として発行しておりました「小さなダオ花」も5月をもちまして終了することになりました。 これからは皆様の相談に応じたり、出向いて行って何か出来ることがあればご要望にお答えしたいと思っております。
 今まで私たちがこの仕事を続けられとのは皆様のおかげでございます。 多くの皆様の温かいご援助にこの場をかりて厚く御礼申し上げます。 これからも宜しくお願い申し上げます。   ありがとうございました。
田中悦子f.m.m.


あとがき

 花曇りの時期から夏に向かって、自然界の命は躍動し始めます。 中でも多くのことを語り教えてくれるのは、太陽の光を受けて輝いている草木の緑ではないかと思います。 雨にうたれ、風に靡いて生きている瞬間を通して、美しい旋律と命のかかわりを訴えかけているようです。
 私たちは、人びとや自然界とのかかわり合いの中で歩き始め、ある時点で踏み止どまり、 また新しい出発点に立って未来への動きを開始します。この会も今までの暖かい絆と友好関係を大事にしながら、未来の新しい必要性を模索する出発点に立っています。 そして、今までこの会を通して難民の方々へ直接間接的に協力、支援することによって相互の絆が強められたことを心から感謝しています。 善意が形となり、皆さま笑顔の中に思いやりの心と信頼が見えてくるとき、大きな安らぎの輪が広がっていくのを感じます。
 まず相互に語り合うことが大切なのだという思いは教会の共同体の中でも皆が痛感していることではないでしょうか。 それは、復活祭に読まれる福音にも示されています。 皆さまもよくご存知の「羊飼いと羊」のたとえの基づくものです。 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 わたしは彼らに永遠の命を与える」(ヨハネ10,27-28)と書かれています。
 単なる知識ではなく、一頭の羊のために命を捧げるほど深い交わりをもって下さる神様の「知」と「愛」の神秘と力強さの対して、 もっともっと人間として理解を深めていかなければと思う自分の反省を含め、今後の協力の在り方などを考えてみたいと思います。
 良い羊飼いは、「わたしたちを守り、憩いの水辺と青草の野原に導いてくださる」と信じて、 今までの歩みを大切にし、そこから得た力をもとに皆さまと一緒に、それぞれの目標を目指して新しい協力の場で努力していきたいと願っております。
(中里昭子)

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