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小さなダオ花 28

日本政府の今後の難民・外国人戦略(前編)
ベトナムに散った人々
市場化進む いまでも素朴さ
ひと アラン・マッキーさん
アジアの街角
「自由化は大きな機会」
ご援助くださった方々
あとがき



日本政府の今後の難民・外国人戦略(前編)
水上洋一郎
(財団法人日韓文化協会理事長、元東京入国管理局長、元内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局員・内閣審議官)

第1節 今、なぜ難民問題か
第2節 果たして日本の難民政策は「進化」しているのか 
第3節 何が問題か
 1.問題意識の不在
   2.問題を極小化する外務省
 3.リーダーシップのない横並びの政策決定=政策不決定
 4.歴史はくり返す
第4節 提言の説明
 1.「交流共生基本法」の制定と「交流共生庁」の設置
 2.予算と人員の確保 (以下、後編) 
 3.優遇政策導入と永住・帰化業務の統一
 4.定住外国人等の問題の分析
 5.極めて少ない難民申請者、難民認定者
 6.危機管理
第5節 基本戦略、いくつかのポイント
 1.共生社会にコストがかかるか
 2.相互依存・補完と相互理解、そしてソフトな安全保障
 3.外国人犯罪問題と国際テロ対策
 4.「日本は移民受け入れ国ではないという神話」        


提言(掲載の都合上、後編の末尾に掲げさせていただきます-事務局)

第1節 今、なぜ難民問題か

 最近も北朝鮮から中国の北京にある日本人学校や各国の在外公使館などに脱北者が駆け込む事件が相次ぎ、社会の注目を浴びている。 特に3年ほど前の瀋陽総領事館事件が記憶に新しい。 2002年5月8日、瀋陽にある日本総領事館に脱北者5名が駆け込むが、中国の警察官に阻止され中国側に連行された 。この一部始終はテレビで放映され、現場で日本側の総領事館員が何の反応も示さないことが国民の目に焼きついた。 この何も反応しない対応が人道に反する。あるいは日本の主権が侵されたとして非難が国民の間で高まった。
 この事件は日中関係をはじめとして在外公館の不可侵権やその警備との関係、テロ等の侵入事件か亡命かという判別、危機管理体制等々様々な問題を提起した。 本稿とのかかわりでは我が国の難民政策の欠陥というものが国民の目にとまり、いわゆる「亡命者」対策の不在ということが露呈された。 ここでいう難民は難民条約によって定義される条約難民、インドシナ難民のような政策難民、さらには在外公館などに庇護を求める者を含む。 もちろん、脱北者が日本の領土内で北朝鮮の独裁・恐怖体制からあるいは飢餓状況から逃れてきたといえば、日本は難民条約に加入しているので直ちに審査をして保護する仕組みはある。
 この事件で我が国には在外公館等で亡命を求めた者については確固とした政策がなく、 したがって、亡命手続きについても確立したルール、手続きもないということがわかった。 国民の目には北朝鮮という迫害と圧制の国から、そして極度の飢餓状況から逃げてきた人々を、外国人だからといって突き放す。 そして中国に渡す。中国はこれらの人々を北朝鮮へ送還する。迫害や飢餓の待つ国、場合によっては極刑の待つ国に結果的に返してしまう、日本としては本当にこれでよいか、と。

第2節 果たして日本の難民政策は「進化」しているのか

 さて、日本政府はこの瀋陽総領事館事件で内外から強い批判、非難を受け、これをきっかけに重い腰を上げた。 それまで日本を目的地とする脱北者問題は皆無ではなかったが、秘密裏に扱われ、ごく少数の者しか知らされていなかった。
 政府は開店休業だったインドシナ難民対策連絡調整会議をほぼ同じ構成メンバーで難民対策連絡調整会議に名称替えをした。 難民制度全体の見直しを始めるかと思われたが、めぼしい成果もなく、結局、脱北者問題そのものについて踏み込んだ政策は打ち出さなかった。 
 この間、法務省においても、この事件を契機に法務大臣の第4次出入国管理政策懇談会に難民問題に関する専門部会を設け検討したが、 それまでの懸案事項であった法定の難民認定申請期間である60日ルールの廃止、仮滞在制度の新設、難民認定についての異議の申し立てに難民審査参与員の関与を認めるなどの法律改正をしたのみである。 在外公館等への駆け込みについての対応策はなかった。
 現在も脱北者、脱北日本人等について特別の法的救済の枠組みがない。せいぜい、生活保護の手続き、住居探しの手伝いをするという補助的な程度にとどまっている。つまり、羊頭狗肉ということである。

第3節 何が問題か

 1.問題意識の不在
 なぜ、内閣の難民対策連絡調整会議は脱北者対策を打ち出すことができないのか。 脱北者問題は難民問題とすら見られていないふしがある。 人道・人権問題に対する当事者意識の不在といってもよい。遠くの他人事である。 本間浩著『難民問題とは何か』(岩波書店)では、日本人の消極的な対難民観を取り上げ、 ジャーナリズムについてそれにメスを入れたり、難民に関する日本の制度全般の問題点を掘り下げるに至っていないと指摘しているが、政府機関でも事情は同じだ。

 2.問題を極小化する外務省
 瀋陽総領事館事件で危機意識を持ったのは外務省と官邸だけである。 外務省は中国に抗議するとともに危機管理、警備体制、情報収集に問題があるとし、関係者を処分した。 しかしながら、問題解決の方法は、依然として6か国協議、拉致問題解決への影響を懸念して中国、北朝鮮への配慮からか脱北者問題についてケース・バイ・ケースで、しかも、隠密主義に終始する。

 3.リーダーシップのない横並びの政策決定=政策不決定
 難民対策連絡調整会議は各省の局長クラスを構成員とする会議で必要に応じて召集される。 他の各種の会議と同じ方式である。縦割り行政の代表を一人ずつ対等に横に並ばせた連絡会議である。 そのような会議では、テーマが出身官庁の権限・権益に関係が薄ければ関心も非常に低くなる。 その場合、一、二の関係の深い役所の意見がその会議の決定事項となる。権益や利害関係が多くの省庁に及べばその権益・利害を平均化して決定がなされる。 調整も微調整である。新機軸が打ち出されることはない。 そして、特に、横並びの会議では、問題に手が負えないか権益がないとされるや、仕事のたらい回し、押しつけ、先のばしが始まる。消極的権限競合という。

 4.歴史はくり返す
 1975年5月、ベトナム難民が海上で救助され日本に到着した。 日本を目的地とする難民は、このボートピープルが始めて。30年前のことである。 受け入れとか受け入れないとか、そもそも考えていなかった。入国・上陸させたのはいいが、その後どうするかで困った。 どこかに入って食べていってもらわなければならない。 公の施設は様々あたったが、それは利用できないとされ民間のカリタス・ジャパンなどにお願いし、この状態が2年半も続いた。 消極的権限競合である。 難民を救助した船の国籍国や船主の国籍国に難民の引き取り保証を要求したり、引き取り保証がないからといって船が難民を乗せたまま日本の港を転々とすることもあった。 このような消極的な日本の姿勢がアメリカで報道され世論が高まり外圧となって返って来た。 対外イメージの悪化と問題を認識した外務省は解決に向けて前面に出てきた。 外務省は、今回の脱北者問題とは逆方向の積極的プレイヤーとなる。 かくして、日本に難民発生以来、2年半後に内閣にベトナム難民対策連絡会議が設置され、後にインドシナ難民対策連絡調整会議となった。 難民に定住を認めると決定したのは実に3年目で、数日後に日米首脳会談が控えていた。 また、当時はボート・ピープルの妊婦の上陸を報じてこれを特別なことのように「人道的」と称える新聞もあった。

第4節 提言の説明

 1.「交流共生基本法」の制定と「交流共生庁」の設置
 内閣又は内閣府に出入国管理、外国人の労働・雇用・厚生、留(就)学生、研修生、難民、移住、帰化(国籍取得)、社会への統合等について統一的、横断的に政策を策定し、 主導するために「交流共生庁」(又は「交流共生局」)を設置する。このため「交流共生基本法」を制定する。 難民問題の解決に当たっては現行の難民対策連絡調整会議を改組し充実させ、この機関の下に置く。

  ①外国人政策における基本理念
 国の目標は、平和と安全、自由と民主、民生、文化などいわれて久しく、外には国際協調、国際貢献とうたわれている。
 21世紀の日本が内に生き、発展・成熟し、外に発信して世界から信頼と尊敬を得るためには、これらの目標とともに今こそ人道・人権の旗を高く掲げ、 外国の人々と交流し、共生してゆくことを明らかにしなければならない。我が国はこの新たな目標を世界標準とする。 日本はアジアの大国として台頭している中国やインドなどとは一味二味も異なる国となる。
 今後の外国人戦略・政策は、これまでの国の目標に加え、人道・人権と交流・共生に基づいて策定しなければならない。

  ②難民政策は外国人政策の大きな柱の一つ
 難民・避難民の受け入れを考えるには広く日本の外国人受け入れについて考察し、その中で然るべき地位を与えなければならない。 外国人が海外から日本に、あるいは在外公館等に庇護・保護を求め避難してくると難民問題として顕在化する。 難民や避難民をどのように受け入れるかということは、日本に外国人をどのように受け入れるかという外国人政策全体のあり方と深くかかわっている。
 特に、冷戦構造の崩壊後、グローバリゼーションと地域紛争等の不安定性の中で、正規であれ不正規であれ、適法であれ違法であれ、 人の移動が大量に、時には短期的大量に行われている。難民・避難民はしばしば、大量の不規則移動として流出する。このような状況下においてはなおさらのことである。
 人の国境を越える移動やコントロールについて長期的な展望を持ち、新たな日本の展開を主導するための政策を打ち出すためには難民の質や量についても外国人政策全体の中で分析・評価する必要がある。 したがって難民政策についても外国人政策と一体的なものとして「交流共生庁」において策定させる。

  ③人口減少社会の挑戦
 日本は2006年をピークに人口減少社会に入る。少子・高齢社会の到来とともに深刻な労働力不足が予見されつつある現在、 日本人と外国人が交流、共生する観点から外国人政策を策定することは時宜にかなった要請である。このため外国人政策について統一的、一体的に主導する「交流共生庁」を速やかに設置しなければならない。
 「交流共生庁」の設置を実現するためには政治の高い見識、洞察力、特に強い意思とリーダーシップが要求される。

 2.予算と人員の確保
 世界の難民に対する支援は今後とも継続するが、国内においても人道を提唱し、人権擁護を推進するために難民関係業務に重点的に予算を配布し、人員を配置する。難民業務関係者の質的向上を図る。
 難民関係の対策的支援(ODA予算、外務省予算等)と国内支援との間で予算規模、人的貢献についてバランスを著しく欠いている。 対外的には、これまでルワンダ難民、東ティモール避難民、アフガニスタン難民、イラク難民等の救援のため自衛隊部隊を派遣するなど大規模な人権貢献を展開してきている。 
 同じ難民業務にもかかわらず、現状では国内での難民関連予算は主として法務省予算として確保されていて、難民の認定手続きに限定され小規模なものとなっている。 また、難民業務は法秩序の維持、刑事司法、民事行政、出入国管理などを主目的とする法務省の中で優先順位は低い。
 国内においても難民支援に必要な人員が十分、確保され現場で目に見える貢献が非常に重要である。 それは、また難民問題について国民への啓発にもなる。財務省等の予算の査定官庁は難民関連予算の全体像をよく見て配分する責任がある。
 (次号に続く)


ベトナムに散った人々
20世紀の瞬間
ラリー・バローズ  ロバート・キャパ写真展から
致命的な砲撃を受けたヘリコプターの機長とひん死のパイロット(南ベトナム1985年ⓒラリー・パローズ/MAGNUM)

 20世紀を代表する報道写真家ロバート・キャパ(1913~1954)の精神を継承する「ロバート・キャパ賞」の初の受賞者展「20世紀と人間」が、東京都写真美術館で始まった。 受賞者34人とキャパの作品約210点の中から、代表作5点を本社記者らが紹介する。
 写真からは絶望したくなる緊迫感が伝わってくる。9年間ベトナム戦争を撮影してきた英国人バローズは「最も勇敢で仕事にひたむきな男」といわれた。
 米国が北爆を停止した1968年末、私はベトナムに飛んだ。メコンデルタで取材中、ジャングルで銃撃戦が始まった。戦車の陰に身を潜め、カメラを構えた。背筋に戦りつが走った。
 どのくらいの時間がたっただろうか。血を流した少年を抱えた父母が現れた。米兵に手を合わせ、必死に子供の手当てを訴えるその目は、生涯忘れられない。 少年は息を引き取った。バローズも71年、ラオス上空で撃墜されなくなった。(元読売新聞写真部 池田利雄)

(読売 新聞)②


市場化進むいまでも素朴さ
ベトナムと私
俳優  杉 良太郎さん

 「しっかり勉強しろよ。悩み事があれば、ちゃんというんだぞ」。6月ハノイにいる「子供たち」との食事の席で、語りかけた。 病気や事故などで両親を失った26人の孤児に、里親として教育や生活の費用を援助してきた。
 日本がバブルに踊っていた89年、ハノイで慈善公演を開いた。ベトナム経済にはまだ戦争の後遺症が残っていた。孤児院を訪ねると、 小さな干し魚と菜っ葉を煮たスープ、わずかなコメだけの食事だった。
俳優 杉 良太郎さん
 「ショックだった。生まれ育った神戸の風景が頭に浮かび、貧乏だった子供の頃の生活を思い出した。何とかしたい、勇気づけたいと思った。」と振り返る。
 以後、日本・ベトナム文化交流協会の設立や、日本語学校の建設、野球の普及などに携わった。 97年にはベトナム政府から外国人に贈る最高の「友誼勲章」を受け、05年から日・ベトナム親善大使を務める。
 ベトナムでは今年、市場経済化と対外開放を掲げたドイモイ(刷新)政策が始まって20年になる。
 「苦しかった時も、豊かになりつつある今も、庶民は何時も勤勉で素朴だ。詩や絵を楽しむ余裕もある。金もうけやぜいたくばかりが目に付く日本の方が殺伐としているように見える」という。
 いま、ベトナムと日本の若者による「映画選手権」を開く計画を進めている。日本政府の援助などで約3千台のビデオカメラをベトナムの子供たちに贈り、ドキュメンタリーなどの作品を募集。日本の子供たちと競ってもらう。
  「おたがいに文化や習慣の違いを認識できる場をつくりたい。そこから互いを敬う心が生まれるはず。究極の国際交流にしたい」 (矢野英樹)

杉 良太郎 65年デビュー。67年、「文五捕物絵図」主演で脚光を浴び、「塩山の金さん」などのテレビや舞台で活躍。 刑務所慰問などの福祉活動にも力を注ぐ。新曲「良太郎の君こそわが命」が発売中。62歳。
(朝日 新聞)③



Allan Mackey アラン・マッキ-さん(64)

 日本が難民条約に加入して25年。だが、欧米諸国などに比べて、けた違いに認定者が少ない。 「難民鎖国」状態が続く。ニュージーランドや英国の難民認定裁判所で判事を務めた経験を伝えようと、東大の大学院で4月から3ヶ月間、片言の日本語を交えて難民法を教えた。
 70~80年代、母国ニュージーランドに進出した日本の自動車会社の法務部長などを務め、常に「カイゼン」を追求する経営に触れた。それに較べ、日本の役所の仕事振りは「ヒコウリツ」と映る。
 難民認定すべき人を認定せず、裁判で覆る例も多い。
 「余計なコストがかかっている」。英国などでは、不法入国対策と難民審査は別部門が担当する。日本では共に「ニューカン」の管轄だ。
 5年前、東京地裁であった難民の不認定を巡る訴訟で原告側の証人に立った。
 「(入国からの申請期限を60日とする)形式にとらわれ過ぎては、条約の理念を生かせない」と指摘。処分は覆った。そんな訴訟の積み重ねがあり、昨年の法改正で「60日ルール」は撤廃された。
 「島国の条件は英国も日本も同じ。あるのは英語の壁。英語圏で蓄積されている難民保護に関する国際法や研究が十分に理解されていない」
 息子が日本人女性と結婚、孫2人も日本で暮らす。
 「『アサメシマエ』ではないが、開かれた国づくりを担う人材の育成を手伝いたい」 
文・写真 田井中雅人
(朝日 新聞)④


アジアの街角
ダラット③ <ベトナム>
バオダイ帝とともに

 市街地の南の丘陵に、フランス様式の大きな洋館がある。ベトナム最後の皇帝となったダオバイ帝が、50年代の半ばにフランスに出国するまで別荘として使っていた場所だ。
 今は一般公開されている屋敷にグエン・ドック・ホアさん(77)の姿があった。中部フエの王宮でバオダイ帝の母に仕え、49年から別荘でバオダイ帝の世話をするようになった。 食事の給仕や客の出迎えのほか、狩にも同行する。バルコニーから月を眺めるにもお供をした。 バオダイ帝の出国後もずっと近くに住み、この館を守り続けてきた。今も毎日やってきて、頼まれればガイドもする。息子も庭師としてここで働く道を選んだ。
 当時の服装でバオダイ帝の写真の前に立ってもらうと、顔が一段と引き締まった=写真。
 「だれに対しても物腰の柔らかな人だった。バオダイ帝は私の人生そのもの。死ぬまでこの仕事を続けたい」
(朝日 新聞)⑤


「自由化は大きな機会」
新体制のベトナム副首相

 【クアラルンプール=柴田真治】ベトナムに先月、新体制が発足した。クアラルンプールで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)の会議で外交デビューを飾ったベトナムのファム・ザー・キエム副首相兼外相に方針を聞いた。
 ベトナムでは5年ぶりの共産党大会を経て、6月にグエン・ミン・チェット大統領(国家主席)、グエン・タン・ズン首相が就任。 今秋には世界貿易機関(WTO)への加盟が認められる見通しだ。副首相は「加盟後に起きる自由化への対応が新政府の挑戦となる。国民にとっては試練であり、大きな機会でもある。 東アジア共同体への歩みと並び、地域統合への道は避けて通れない」と話した。
 東南アジアでは、経済援助や政権幹部の交流を通じて中国の影響力が急激に増大している。ベトナムの新首脳も、訪中歴の多さなどから「中国寄り」の指摘が出ているが、副首相は「全方位外交」を強調。 「ズン新首相の訪日も10月に予定されている。日本からの直接投資は増えており、FTAへ向けた話し合いも本格化するだろう」と対日関係の重要性を強調した。  
(読売 新聞)⑤


2006年度 ご援助くださった方々

 (敬称は略させていただきます)
聖心の布教姉妹会本部修道院、柳沼秀政、聖ヴィアンネ会、石館悦子、幼きイエス修道会、 上岡忠実、コングレガシオン・N・D修道院、聖ベネディクト女子修道会、トラピスト那須修道院、 聖クララ修道会(二宮)修道院、カルメル会東京修道院、カトリック志家教会、聖ヨハネ修道院(桜町)、東京第一修道院、堀田裕子、清水裕子、覚野諭、聖心の姉妹会烏山修道院、水上洋一郎、サレジアンシスターズ、 カトリック淳心会、折田地菊、トラピスチン西宮修道院、天使の聖母会修道院、村越みどり
資料
① 「日本にとっての難民・避難民対策研究」プロジェクト編著、 『東京財団研究報告書 日本の難民・避難民受け入れのあり方に関する研究』、 東京財団研究推進部、2005年6月、32-49頁
② 読売新聞 2001年4月1日
③ 朝日新聞 2006年11月8日
④ 朝日新聞 2006年7月7日
⑤ 朝日新聞 2006年11月15日
⑥ 朝日新聞 2006年7月30日


あとがき

 過ごしやすい季節になりました。年度末にあたり、仕事場や自室で大掃除や片付けをしている方もおられることでしょう。 いつのまにか溜まってしまうこまごまとした品々。 でも、手に取れば、それぞれに思い出も詰まっている品々。これからも大切に守っていこうと決めて保管するか、守るべきものは他にたくさんあると考えて思い切って捨てるか、 2つに1つの選択の中で頭を悩ましている方も多いのではないでしょうか。守るか、捨てるか。 この選択は、人が物を扱う場面でもしばしば大きな問題となりますが、もっと深刻な場面もあると思われます。それは、国が人を扱う場面です。
 日本が「先進工業国」と呼ばれる国になって久しいですが、その変化を遂げる以前にも、その過程でも、その変化の後でも、国として人を「捨てる」ということを少なからず行ってきたように思います。 特に戦後、人口過剰や失業によって農村でも都市でも行き場のない人びとがあふれていた時期、日本政府がとった次のような政策は、今なお強く非難されるべきことでしょう。 1つは、1957年のドミニカ移民の問題です。日本政府は、ドミニカ共和国を「肥沃な大地」と宣伝して移民を募集、実際には不毛の大地で苦心惨憺し、折からの政変にも巻き込まれて命の危険にさらされた人びとに対して、 未だ明確な補償を行ってはいません。もう1つは、1952年の朝鮮半島出身者の国籍剥奪の問題です。 それまで「日本国民」としていた人びとの国籍を、紙片一枚で一方的に剥奪、主権を奪い、社会保障の対象外とし、困窮と差別のただなかに置いてきました。これらは、まさに棄民―民を捨てる行為―であったといえます。
 本号の水上氏の論考も、この点を指摘したものでしょう。日本は、難民・亡命者・移住者などの受け入れ態勢の制度化を、結局のところ回避し続けています。 「日本は移民受け入れ国ではない」という「神話」を楯に、政治的・経済的に困窮する人びとをみすみす「捨てる」ことを続けているのです。
 物ならともかく、人という存在を取捨選択することがあってはなりません。しかし現実には、そのようなことはしばしば起こっています。 一部の人びとを守るために、他の人びとを捨てる。私たちのまわりに、いったいどのような事実があるのか。まずはそうした事実を見極めることから始めていきたいと思います。 
(山本直美)

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