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小さなダオ花 27

新年の挨拶
ベトナムの田舎へ
歌い継ぐ 反戦も愛も
主の平和
民主化へ 試練は続く
ベトナム戦争被害の3少女
あとがき



新年の挨拶


ベトナムの田舎へ
鷹尾伏 恵

 留学中、ベトナム南部にあるミトーという町に遊びに行きました。同じ大学で日本語を専攻している学生の遠足に便乗させてもらいました。総勢10人、5台のバイクに分かれて行きました。
 ミトーという町は、果物の産地として有名で、最近観光客にも、ホーチミン市からミトーへの日帰りツアーが、人気を集めています。 昼間はミトー市内から少し離れた島にある、友だちの親類の家にお呼ばれして、お昼ご飯(魚を揚げたものと野菜を包んだ生春巻き、ベトナム風ビーフシチュー、お粥、果物)をご馳走になり、 夜はメコンデルタの田舎で、友達の実家に一晩泊まらせて頂きました。 夜その家に向かったのですが、その家は田んぼのど真中にあり、 暗闇の中、細い細い田んぼのあぜ道を通るときには、周りが見えず、田んぼの中に落ちるのではないかと、本当に冷や冷やしました。 暗闇の中、家に到着すると、友達のお母さん、お父さん、お姉さん、弟さんが、たくさんのお料理(アヒルのお肉、バインセオ(ベトナム風お好み焼き)、鶏肉で出汁をとったお粥)を用意して迎えてくれました。 家の中には電気がなく、ろうそくの明かりで生活していました。空を見上げると、一面に星がちりばめられ、今にも降ってきそうでした。 生まれて初めてこんなにたくさんの星を見ました。 でも、何よりも衝撃を受けたのが、お手洗いです。お手洗いに行きたいのだけれども、、、と連れて行かれたのは庭にある池。 まさかとは思ったけれども、やはりそこがお手洗いでした。そこには簡単な柵のようなものがしてあって、下には木の棒が2本渡してあって、そこを跨いで用を足します。 真っ暗闇の中、ろうそくの明かりを頼りに、池の中に用を足した経験は、一生忘れることはできないでしょう。夜は、蚊帳を吊って、川の字になって寝ました。 前日からの疲れが溜まっていて、蛙やコオロギの大合唱をよそに、すぐ深い眠りに落ちました。
翌朝、鶏の声で目が覚めました。外に出てみると、一面に田んぼが広がっていて、かすかに霧がかかっていました。庭には、たくさんの鶏やひよこがおり、 果物の木(スターフルーツ、ザボン、みかん、ココナッツ、パパイヤ、マンゴー、サトウキビ等)がたくさん植えられていました。 お母さんやお父さんはとっくに起きていて、仕事を終えて、帰ってきた所でした。
 お母さんは、朝ごはんの支度に取り掛かっていました。お父さんが庭にいる鶏をその場で絞めて、毛を毟り、薪で火を起こして、チキンカレーを作り、 弟は庭にあるサトウキビでサトウキビジュースを、椰子の木に登って、ココナッツジュースを作り、お母さんが市場で買ってきたフランスパンで朝食を作ってくれました。 このような田舎でフランスパンとカレーの朝食が食べられるなんて思ってもみませんでした。
 ベトナムの人口の約80%は農民です。都市で暮らしていると確かに、便利でたくさんの情報を手軽に手に入れることができ、ベトナム人の生活に触れることができます。 しかし、ベトナムの多くの文学作品や歌はベトナムの農村から生まれました。 ベトナム文化に触れるためには、やはり農民の生活を体験しなくては、それらの本当の意味を理解することはできないでしょう。一日と短い時間でしたが、とても貴重な体験をさせて頂きました。


歌い継ぐ 反戦も愛も
「ベトナムのボブ・ディラン」は永遠に

 ホーチミン市にある小さな音楽カフェ。4月のある夜、数人の歌手がしんみりと歌い上げた約20曲は、すべてチン・コン・ソン氏(1939~2001)がベトナム戦争のさなかに作った「反戦歌」だった。
 〈今は風塵になってしまった子よ。ああどんな傷がその熱い肌を深くえぐってしまったのだろう)(「お眠り坊や」訳・鈴木康央氏)
 母の嘆きを通じて戦争の悲惨さを訴えるこの曲は60年代末から、日本でも反戦フォーク「坊や大きくならないで」として歌われた。
 30代のカフェの経営者は、しきりにドアの方を気にした。演目の中にいくつか、今も政府から演奏を許されていない歌が交じっていたからだ。
 10代でソン氏の歌に触れ、奥深い歌詞のとりこになった。とりわけ反戦歌にひかれた。「これほどあの時代への想像力をかきたててくれたものはなかった。国の歴史を知るためにも、もっと聞かれるべきだ」
 ソン氏は中部の古都フエで育ち10代で作詞作曲を始めた。北緯17度線で国土が南北に分断される中、南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)を拠点に、ラブソングや反戦歌を次々に発表した。
 60年代半ば、米軍の北爆で戦況が泥沼化するにつれ、反戦歌が市民の心をとらえた。当時、フエの師範学校の生徒だったトゥイさん(57)はソン氏が学校に来て歌った反戦歌をじかに聴いた。 以来、自ら歌いながら反戦デモの先頭に立ち、投獄も経験した。
 「でも後悔はなかった。彼の歌には南北を超え、国や民族を思う気持ちがあふれていた」
 70年代に入り、南ベトナム政府はソン氏の歌を禁止した。だがソン氏は弟のチン・スァン・ティンさん(61)と毎晩、サイゴンのクラブを車で巡った。 「リクエストがあればその場でやる。みんな兄さんの歌を聞きたがった」
 75年4月30日、サイゴンが陥落。その時にラジオから流れたのは、ソン氏が作った「手をつないで大きな輪を」という歌だった。
若者にも広がるファン層
 今月4日、プロ歌手になって2年目のカイン・ノクさん(23)が、ホーチミン市の音楽カフェの舞台に立った。約10曲の半分がソン氏のラブソングだった。
 大胆なドレス姿と、現代風のアレンジ。年配客は「イメージと違う」と不満だったが、若者は手をたたいて喜んだ。 ノクさんは「反戦歌は知らないけど、私たちの世代も彼の愛や人生を歌った曲を美しいと感じている」と話した。
 ベトナム音楽業界はいま活況だ。若い世代の歌手が続々と誕生し、ベトナム人作曲家のもののほかに、欧米や韓国、タイの曲も加わる。 政府傘下の音楽協会に登録する演奏家、歌手は約2500人だが、実際はそれをはるかに上回る「歌手」が、増え続ける音楽カフェなどで歌う。 CDなどの生産は公式には年間約350万枚、海賊版を入れるとその倍数に及ぶとみられる。
 その中で、ソン氏の作品は「不動の地位」を占める。だがそれは日本でも70年代にヒットした「美しい昔」や「白い夏」、戦後につくられたラブソングの数々だ。ファン層はいま「反戦歌」を知らない若い世代に広がっている。
 ソン氏の死去後、ホーチミン市郊外につくられた小さな記念館にも若者が次々にやってくる。展示品の中には、03年の紅白歌合戦で「美しい昔」を歌った天童よしみさんの写真もある。
 同市の中心街にソン氏が亡くなるまで暮らした家がある。今は末妹のチン・ビン・チンさんが住む。8人きょうだいのうち長兄のソン氏とチンさんが音楽の道に進み、兄の曲を歌い続けてきた。
 2階の居間にはソン氏の自筆の絵が飾られ、2本のギターが置かれている。書斎の机には、眼鏡と五線紙とペンが残されていた。
 チンさんは、この家を新たな記念館として公開する準備を進めている。若い歌手を育てるための賞も創設するつもりだ。
 戦後の混乱の中でもソン氏は故国にとどまり、生涯に600曲を超える作品を残した。「兄はベトナムを愛し、その思いを歌にし続けた。どう歌ってもらってもいい。ただ、いつまでも歌い継いでほしいんです」
 だが複数の外国メディアによると、その後ソン氏は数年間にわたり地方で労働奉仕をさせられた。戦前につくった反戦歌も多くが演奏を禁じられた。
 「戦争そのものの愚かさを歌った中には、北ベトナムの“正義の戦争”に都合の悪い内容も含まれていた」と関係者は指摘する。
 音楽活動に復帰したのは80年ごろ、中心テーマは「愛」と「人生」になった。
「ベトナムのボブ・ディラン」。01年4月にソン氏が死去した時、多くの外国メディアがこう形容した。
 ホーチミン市に住む英語教師リッチ・ファユーラーさん(59)は、ソン氏の反戦歌を英語に翻訳し、ウェブサイトで紹介している。 自らもステージで歌うフューラーさんは「世界で争いが絶えない今こそ、歌い継ぐべきだ」と話した。
(貝瀬明彦)
(朝日 新聞)②


十 主の平和

 初めてお便りいたします。このたび1987年カリタスジャパン発行の冊子2部(POCKET INTERPRETER Vetnamese-English-Japanese)を送っていただきありがとうございます。
 カリタスジャパンのテラムラ様からのお手紙にありましたので、Sr.田中様のことを知りましてお礼のことばを伝えたく、お手紙にいたしました。
 お忙しいお働きの中、貴重な冊子を戴き大変恐縮に存じます。ありがとうございました。
 私自身は、中学生の家庭教師を細々と引き受けております。知人のつてで知り合ったベトナム難民の家族の方におしえていただき、このような冊子の存在を知るに至りました。 難民として日本にこられた方も、今も日々の外出に使われるほどよくできた冊子と聞いております。
 現在教えている中学生の子どもは、英語のつづりとベトナム語のつづりが似ていて発音がとてもちがうことにとまどっていますので、学習の助けになると考え、2冊もお願いしてしまいました。
 私自身も日本語よりベトナム語のほうが理解できるお母さまとのコミュニケーションに、大切につかわせていただきます。  振り替え用紙を同封して頂きましたので、心ばかりの献金を本日送らせていただきました。少しですが、ベトナムの方々が日本で生き生きと暮らし、 そして、救われることを願っています。私のかかわっているご家族の救いのためにも併せてお祈り下さいますと幸いに存じます。
 私自身も、福音を伝えることの励みになりました。ありがとうございます。 これからのお働きの上に、豊かな祝福と実りがありますように、お祈りさせていただきます。
    Sr.田中様      清水結子 パドアのアントニア
(戸塚教会内 原宿教会所属) ③


民主化へ 試練は続く
パリ和平合意から15年

治安優先、進む野党弾圧
長い内戦からカンボジアが解放されるきっかけとなったパリ和平合意から15年。93年の国連監視下の総選挙を経て、複数政党制のもとで民主的な社会づくりが進むはずだった。 だが、治安が安定し、経済も上向く一方で、政府は批判勢力への抑圧を強めている。自国民を大量虐殺したポル・ポト派への裁判も控え、民主化と国民和解に向けた試練が続く。 (プノンペン=貝瀬秋彦)

 1月17日午後。プノンペン近郊の拘置所から保釈されたカンボジア人権センター代表のケム・ソカ氏(53)が姿を見せると、数百万人の支持者から一斉に拍手がわいた。「カンボジアに民主主義を」と声が飛ぶ。
 同氏は昨年末の白昼、事務所を取り囲んだ数十人の警察官らに「名誉毀損」の容疑で連行された。告訴したのはフン・セン首相だ。
 問題とされたのは、12月10日に同氏らが組織した「国際人権デー」の集会で揚げられた横断幕だった。
 「首相は領土をベトナムに売り渡した」。2ヶ月前にベトナムと調印した、国境に関する条約を指していた。
 この調印をめぐっては、政府を批判したラジオ局の局長、労組幹部、NGO関係者らが、首相の告訴に基づき相次いで逮捕されていた。
 欧米や国連などから批判が強まると、首相は告訴を取り下げる意向を表明。ただ、「逮捕は、あくまで裁判所の独立した判断だ」と主張する。
 だが、裁判所のトップは、首相が率いる人民党の幹部だ。人権団体などは「司法の政治利用が露骨になってきた」と危機感を隠さない。
 議会では、野党への弾圧が進む。
 人民党は、第2勢カフンシンペック党と連立して安定多数を確保する一方、政府・与党の汚職や金権体質を批判し、03年の総選挙で躍進した野党サム・レンシー党の議員を下院の委員会審議から排除した。
 昨年2月にはサム・レンシー党首ら3議員の不逮捕特権を、首相らへの「名誉毀損」を理由に取り上げた。1人は拘束されて禁固7年に、国外に逃れたレンシー氏は被告不在のまま、禁固18ヶ月の判決を受けた。

成長の陰 格差拡大
 「国の発展を妨害するサム・レンシーを支持するな」。プノンペンでは今、小学校から大学まであらゆる公立学校に、野党党首を糾弾する横断幕が掲げられている。
 荒廃した国を曲がりなりにも安定させ、経済を成長させているのは自分たちだ、という政府・人民党の自負が見える。
 国際社会からの援助もあり、和平直後に200ドル前後だった1人当たりの国内総生産(GDP)は、04年には320ドルまで増えた。 プノンペンの街にはビルが建ち、3輪自転車に代わり乗用車も急激に増えた。中国などからの進出企業が増え、都市部を中心に購買力は上がっているという。
 政府高官は「野党や人権団体は批判するだけ。学校の一つでも建てたことがあるのか。 長い内戦とポル・ポト政権の虐殺を経験したわが国にとって、最も大切なのは社会の秩序を守る政治的な安定だ。それが経済発展にもつながる」という。
 市民たちの思いは複雑だ。市場で働く男性(64)は「確かに今は生活していけるし、安心して出歩ける。でも、何か言ったら捕まるかも知れない怖さが出てきた」。 バイクタクシーの運転手(46)は「貧富の差は広がったよ。えらい人たちは汚職でもうけているんだろ」と話した。
 80年代からカンボジアにかかわり続けてきた日本国際ボランティアセンターの熊岡路矢・代表理事は「首相は今、開発独裁の完成を目指しているように見える。 武力は使わないが、司法を巧妙に利用してメディアやNGOにまで攻撃範囲を広げてきた。国際社会の対応が問われる」と指摘する。

動き出すポト派裁判 国民和解につながるか
 ポル・ポト派の虐殺を裁く法廷は、プノンペンの市街地から16キロほど離れた 軍総司令部の敷地の中にある。 兵士の娯楽用に建てられた劇場が利用されることになり、1月中旬、裁判を準備する事務局に引き渡された。国連スタッフも近くプノンペンに入る。数ヶ月以内に検察官が任命されるという。
 93年の総選挙をボイコットしてタイ国境に立てこもったポト派が完全に崩壊してから、すでに7年になる。裁判が遅れたのは、国際法廷の設置を求める国連と、国内法廷にこだわるカンボジア政府の対立が続いたからだ。 かつてポト派を支援し、今経済面でカンボジアへの影響を強めている中国に首相が配慮しているとも指摘される。
 裁判は本当に国民和解をもたらすのか、市民の間でも意見は割れる。
 拘束中の元幹部は、タ・モク氏ら2人だけだ。ポル・ポト元首相は98年に死去。投降して恩赦されたイエン・サリ元副首相ら数人の最高幹部は、タイ国境に近いパイリンで自由に暮らす。
 裁判の対象は最高幹部に限定されたが、実際に手を下したのは命令された下級幹部たちだ。ある遺族は「肉親を殺した人間の顔も知っている。その人を裁いてもらわなければ自分の気持ちは晴れない」と話す。 別の遺族は「いまは加害者も被害者も同じ町や村で暮らしている。裁判を機に、また地域社会にひびが入るのが怖い」ともらした。
 公立学校では、歴史の授業でポト派時代を教えていない。「現在進行形の政治課題だから」(政府高官)だという。
 虐殺の資料を集めてきた「カンボジア資料センター」のヨク・チャン所長(46)は「裁判を終えて初めて、あの時代が歴史になる。国民が乗り越えなければならない過程だ」と話した。


パリ和平合意以降の主な動き
91年10月 パリ和平協定に調印
93年 5月 国連カンボジア暫定行政機構のもとで初の総選挙
    9月 シアヌーク国王即位。息子ラナリット氏(フンシンペック党)が第一首相、フン・セン氏(人民党)が第2首相
94年 7月 ポル・ポト派を非合法化
97年 7月 2人の首相が武力衝突し、ラナリット氏は事実上の国外追放に
98年11月 総選挙後、親内閣発足。フン・セン氏が首相、ラナリット氏が下院議長に
03年 7月 総選挙。約1年間、連立をめぐり混乱
04年 7月 人民党とフンシンペック党の連立内閣が成立。 首相はフン・セン氏。
   10月 国会がポト派法廷設置を最終承認
06年 1月 初の上院選で人民党が圧勝


ベトナム戦争被害の3少女
苦悩超えて成長  3冊出版

 戦争の悲惨さを小説などで訴え続けている早乙女勝元さん(74)が、ベトナム戦争で被害を受けた3人の少女の成長をたどった3冊の写真絵本を同時出版した。 早乙女さんのベストセラー「ベトナムのダーちゃん」の主人公の“その後”と、枯葉剤などの被害に遭った少女2人の“今”を取材した早乙女さんは、 「傷跡は弱いものに深く残されている。戦後60年が過ぎた日本で、改めて平和の大切さを訴えたかった」と話している。
 早乙女さんは、1945年3月の東京大空襲で九死に一生を得てから、戦争の悲惨さを訴え続けてきた。 71年の「東京大空襲」もベストセラーとなり、母親を失った少女の悲痛な体験を描いた「ベトナムの・・・・」は、映画化もされた。 
 新たに出版されたのは、「戦争孤児のダーちゃん」=写真=と「枯葉剤とガーちゃん」「ナパーム弾とキムちゃん」。現在、ダーさんは3児の母で、ベトナム中部の村で医師助手を務めている。 最近はようやく食事には困らない暮らしになったが、以前は戦後から15年以上たっても月給1000円以下。 夫が戦争で負傷し働けず、満足に食事ができない日は珍しくなかった。ダーさんの軌跡を基に、長期化した混乱期の様子が写真と絵を多用して描かれている。
 ガーちゃんは14歳で、体中に黒いあざがある。枯れ葉剤の影響とみられるが、レーザー治療を受けながら、医師を目指す前向きな生き様が書かれている。 「ナパーム弾と・・・・」の主人公は、ピュリツァー賞に輝いた写真に写った少女だ。やけどを負い、全裸でナパーム弾から逃げまどっていたのが、キムさんだった。 17回の皮膚移植手術を経て、ユネスコ親善大使として活動するまでをたどっている。
 出版は草の根出版会で各1800円(税抜き)。
(読売 新聞)⑤
資料
 ① 「NGOヴィエトニュース」31号 2006年7月
 ② 朝日新聞  2006年5月16日
 ③ 本会事務局宛2006年9月18日
 ④ 朝日新聞  2006年2月4日
 ⑤ 読売新聞  2006年9月16日


あとがき

 2007年、新しい年を迎えました。おめでとうございます。
 今年も、お互いに心の繋がりを大事にしながら日々新しい気持ちで歩んでまいりましょう。 まずはこの年の平和を願いながら、有名な詩人ヘンリー・ヴァン・ダイク(1852-1933)の詩を読んでみたいと思います。

あらたなもの つねに あらたなもの
 たとえば 青みがかった世界のうちに
 金色に萌えでた若芽
それは朝ごとに わたしに
 告げているようです
 「幸せな何かが いましも
 あなたに 訪れようとしている」と
       ✳ ✳ ✳
幸福は内面的なもの
 どんなものを持っているかではなく
わたしたちが
 どんな人間であるかにかかわっている

 何年も前から、環境問題がわたしたちの住む世界の大きな「問題」として取り上げられてきました。 そして、あらゆる分野で省エネ、ゴミ処理についても対策が考えられています。 しかし、自然現象からもある程度の答えが出されているように、決して私たちが安心して暮らしていかれるという約束はありません。 とくに今、アジアの地域に生活する者として、私たち一人一人が安全と平和に貢献できるように、自分にできる小さなことから実行してより幸せな社会をつくっていきたいと思います。
(中里昭子)

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