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小さなダオ花 26

日本で生まれたのに不法滞在者
司教館の郵便ポストB
焼酎ブーム
コーヒーブレーク
あとがき



日本で生まれたのに不法滞在
あるベトナム難民一家の苦悩

 四半世紀前に「ボート・ピープル」として、世界を漂流したベトナム難民。 日本にも一万人弱が暮らし、三世が生まれる時代になった。 日本生まれのその一人が数年前、縦割り行政の弊害と役所の不親切から「不法滞在者」扱いされた。両親は乳児なのに"犯罪者"とされた子の将来に心を痛める。 不注意と片付けられがちな事例だが、その分、問題の根は深い。  (田原拓治)

 埼玉県新座市のベトナム人看護師グエン・ティミー・リンさん(30)は、同胞で会社員ド・ユイ・カンさん(30)と長男カイ君(五つ)、 長女で生後十一ヶ月のレミちゃんの四人家族。長男のカイ君を除く三人は在留期間が無期限の「永住者」だが、カイ君だけは最長三年の「定住者」だ。

 区役所窓口は何も告げず
長男カイ君(右下)の在留資格で悩むリンさん(右)とカンさん(左)夫妻。
 なぜ、こんなふぞろいが起きたのか。理由がある。カイ君が生まれた当時、カンさん夫妻は東京都練馬区に住んでいた。 カイ君誕生の二日後、カンさんは区役所に出生届けと外国人登録の手続きに出向いた。
 窓口の職員とベトナム名と漢字での通名双方の届け出ができるか否かで混乱があり、最終的に受理してもらった。その後、職員は何も告げなかった。
 カンさんは手続きが終わったと思った。でも実はもう一つ届け出が残っていた。在留資格の申請だ。それは、もう一つの役所(東京入国管理局)に申請しなければならなかったのだ。
 カンさんは「外国人登録を済ませれば、永住者同士の子なので自動的に資格が登録されると思った」と振り返る。 しかし、そう合理的にいかないのが、日本の縦割り行政だ。翌年新座市に住宅を購入する際、書類を求め区役所を訪れた。そこで職員に「息子さんには在留資格がない」と告げられ、呆然とした。
「特別許可」と印が押され、更新が繰り返されているカイ君の在留資格証明書。妹レミちゃんの証明書には永住資格が記されている

 知らなかったでは通らない
 法的には、出生後六十日以内に入国管理局に申請しなくてはならなかった。 あわてて、入管当局にカイ君の入管難民法違反(不法滞在を)を「自首」し、経緯を説明したが、「知らなかったでは済まされない」「区役所がどう対応しようが、うち(入管)とは関係がない」と対応された。
 両親はカイ君を連れて入管へ数回通った。取調べの後、ようやく法相の在留特別許可で二回の一年ずつとその後、三年の定住資格がカイ君に与えられた。でも、永住資格はいまだに得られていない。
 リンさんは1982年、五歳のときに両親と二人の妹とともにベトナムを小舟で脱出した「ボート・ピープル」だ。フィリピン経由で日本にたどりついた。
 長崎県の「大村難民一時レセプションセンター」からカトリック団体の援助で栃木県の施設に移り、高校卒業後、看護学校を苦労して卒業して看護師の資格を得た。 

 縦割り「今も外国人排除
 ベトナム政府はこうした難民を国民とみなしておらず、国籍はない。 夫のカンさんは先に日本へ脱出した肉親に呼び寄せられたためベトナム国籍を持つが、将来は一家そろって日本の国籍取得を希望している。
 しかし、国籍取得の条件として国籍法五条には「素行が善良であること」とあり、 犯罪暦の有無も要件と記されている。「長男には入管難民法違反の前歴がある。それが国籍取得や将来の就学、就職の妨げにならないか」と夫婦は悩む。
 日本人でも年金一つとっても、役所の手続きはときに複雑だ。 このため外国人が出生届に際しては窓口で在留資格申請を忘れないよう確認する地方自治体も少なくない。 カンさん一家でも、長女が生まれた際は新座市の職員が申請の必要を告げてくれたという。
 練馬区外国人登録課の担当者は「通常は一声掛けるが、窓口が忙しかったり、知っているだろうという先入観から怠ってしまうことも。今回のケースは申し訳ない」と頭を下げる。
 ただ、今回の事故は氷山の一角のようだ。法務省入国管理局の担当者は「(地方自治体との)連携がうまくとれていない」と認める。 「在留資格の説明は毎年、全国で自治体職員を集めて開いているが、こちらからのお願いベースだ」
 カンさん一家の懸念について、国籍取得を扱う同省民事局では「あくまで一般論」と前置きしつつ、「このケースは国籍取得の妨げとなる犯罪のカテゴリーには入らないと思う」とみている。
 とはいえ、リンさんは「なぜ、永住者同士の子どもに自動的に永住資格が与えられないのか。 それに、どうして役所の窓口を統一できないのか」と素朴な疑問を呈す。現実にカイ君が永住資格を取れるまで、これからも定住資格を更新していかねばならない。
 ちなみにこうした窓口の簡素化について、総務省自治行政局行政課は「(外国人関係などの)法定委任事務は、 それを定める法律を所管する省庁(今回は法務省)の問題。具体的な手続きの方法は各自治体が定めること」と木で鼻くくったような回答だった。
 東京入国管理局の水上洋一郎元局長は「事故がある以上、窓口の統一化は検討すべきだ」と話す。 「とはいっても一朝一夕にはいかない。少なくても、現場職員同士がもっと蜜に情報交換しなくては」。 カイ君のケースについては「在留特別許可は法相の裁量。永住者の資格を与えても問題はないはずだ」と語る。

 無国籍の書類本国から取れ
 リンさんの憤りには、苦い積み重ねがある。 結婚するときも簡単に受理されなかった。役所で本国から国籍、結婚暦がないことを示す書類を取り寄せよ、といわれた。 「ベトナム難民が国籍を失っていることを日本のお役人は理解していなかった」と振り返る。
 役所に限らない。国籍取得をする子どもたちの将来を考えれば、やむを得ない選択だ。 「私は五人姉妹で妹たちは日本語の環境で育った。だから姉妹同士では日本語で話す。日本生まれの妹はベトナム語をほとんど話せない」。子どもとなればなおさらだ。
 でも、現実には差別の壁がある。リンさんも子どものころは、「ベトナムに帰れ」「変な名前」とからかわれた。同胞の中には、名前を告げるやアルバイトを断られたケースもある。
 そればかりではない。リンさん一家は「成功者」の部類だが、ある同胞たちは不景気でリストラされ、食料品などの万引きで逮捕。実刑判決の後、罪を償っても国外退去処分を下される。

 中ぶらりん 仮放免の同胞
 しかし、ベトナム側が難民ゆえに受け入れを拒んでいるため、外国人収容施設から仮放免。 ただし、在留資格が消されているため、日本での就労はおろか、国民健康保険にも加入できず、生活保護の対象からも除外。途方に暮れたままというケースもある。
 今回のほんのそまつな役所の不手際も、こうしたベトナム難民を取り囲む壁の一端といえなくもない。
 難民問題に詳しい師岡康子弁護士は「日本人なら転入届けを出し忘れた程度のことだけど、彼らにはこれだけの重圧がかけられる」と指摘し、こう続けた。
 「1960年代に『外国人は煮て食おうが焼いて食おうが』と言い放った入管の幹部がいたが、その姿勢は今も変わっていない」


 【デスクメモ】
 ベトナム難民に、法相裁量の特別在留許可が初めて認められたのは1978年8月30日。 これですら当時、「日本はベトナム難民に冷淡」と国際的に批判されたからだ。難民問題の関係者は現状を指摘する。 「行政機関に『国際』と銘打った部署があっても、外国人側から働きかけないと機能しません」  (透)


★ボート・ピープル  1975年4月、旧南ベトナム政権が崩壊。米軍と関係が深かった人やキリスト教徒たち13万人は撤収する米軍艦船により米国に移住したが、 その後も近隣紛争国の人も含め約200万人が小舟で南シナ海に脱出した。日本にも78年5月から難民が到着。 75年の閣議了解以降、細々と受け入れを始め、これを契機に81年には難民条約に加入したが、政府はベトナム難民を条約上の難民とは認めていない。
(東京新聞)@


司祭館の郵便ポストB
ハウさんから谷司教へA


 司教様
 今回は司教様に私自身のことをお話したいと思っています。でも、もしかしたらさらに分からなくなってしまうかもしれません。私の場合、その背景がとても複雑なのです。
 私が人から聞かれて一番困る質問があります。
 「何人ですか?」
 「どこの国の人?」
 私は日本人のような外見に「グエン ティ ホン ハウ」という明らかに日本人でない名前を持つので、初対面の人は戸惑うらしいのですが、このように尋ねられると、どうも同じ質問を返したくなります。
 「あなたは私を何人だとおもいますか?」
 「どこの国の人だと判断しますか?」
 ですが、答えられないだろうことが分かっているので相手の期待する答えを推測して、返すことにしています。 例えば、相手が「血筋・血統=何人かを指す」と思っているなら、私の両親や親戚はベトナムという国土で生まれ育ち、ベトナム語で話すので「ベトナム人です」と答え、 相手が私の持つ文化的背景を聞きたがっているようでしたら、私は日本で生まれ育ち、第一言語が日本語なので「日本です」と答えるでしょう。 私の経験から、どうやらベトナム人は私を「日本人」とみなすことが多く、 日本人は私を(日本人にそっくりな)ベトナム人と認識しているようです。つまり、私に常にあてはまるのは「外国人」というカテゴリー。でも、外の国とはいったいどこにあるのやら?
 事実、私の持つ身分証明書は外国人登録証明書のみです。戸籍もなく、住民票もなく、外国人登録証明書の国籍等の欄にはベトナムとありますが、 ベトナムのパスポートは持っておらず、日本国籍も取得していません。 両親が祖国ベトナムを捨て、ボート・ピープルとして日本に逃げてきたために、現在、私の家族は皆ベトナム国籍を持たず、厳しい日本の難民認定の中で、難民認定の申請もできず、 (今ではもう手遅れでしょう)、日本に帰化することも厳しく、日本に生まれ育ちながら一応、永住権を与えられ、ただ外国人として生きています。 ここまでは司教様はきっと薄々察している、もしくはとっくにご存知かも知れませんが、私は無国籍です。 でも、はっきりと分かったわけではありません。何せそれを証明するものなどなく、ただ無いことが証明―そこから無国籍という事実が浮かび上がるだけなのですから。
 そんなわけで、「何人?どこの国のひと?」という簡単な質問に「外人で、無国籍です」と答えるわけにいかず、ずっと頭を悩ませてきました。 だからいつも仕方なくしっくりこない不快感を無視して、「「日本人」または「ベトナム人」とおざなりに返事をしていました。 でも、本当は、ずっとこう言いたかった!「本当に知りたいのなら、私の話に付き合ってくれませんか? ちょっと長いけど私だけのとっておきの答えがあるんですよ!」
 「自分は何者なのか」という疑問を多くの人はいつからか持つようになりますよね。 私がそれを強烈に意識したのは十五歳、初めて家族とベトナムを訪れたときでした。 それ以前、小学生のときは自然に日本人に同化しようと努め、「日本」というものに属したいと常に願っていました。 私の中にある「ベトナム人」的要素は、私を日本で生活しづらくするものでしかありませんでしたから。 「グエン ティ ホン ハウ」という名前を名乗ったとたん変わってしまう相手の表情を私は常に恐れ、 「国に帰れ」というクラスメートの言葉に傷ついては「私は周りの子と違う、外国人なんだ。 ここに居場所はない」と思っていました。ですが、中学生になり、多くの理解ある友人に出会ってからは「みんなと違う私を好きになりたい」と願うようになり、 まだ知らぬ両親の祖国ベトナムに思いを馳せ「きっとそこは私の国でもあるに違いない、私の故郷、居場所があるかもしれない」と思っていました。
 ですが、そんな想いとは裏腹に念願の初のベトナム訪問は見事に私の理想・幻想を壊し、現実を突きつけてくれました。 自分の国、親戚たちとの初対面、見慣れぬ美しい風景に浮かれる私をよそに、その旅行中、ベトナムは私にとって遠い国であり続けたのです。 みな、私を「外国人」または「越僑」(外国に住むベトナム人を時に皮肉を込めて、差別的に呼ぶ言い方)と見なし、 その上、人との意思疎通はうまくいかず、理想の故郷であったはずのベトナムは結局私の知らない国でしかありませんでした。 心に描いていた居場所さえ失ったと感じた瞬間、上も下も分からず、暗闇に落ちていく感覚の中で私は何が何だか理解できずに泣くことしかできませんでした。 このときはまだ、自分が無国籍という事実を知りませんでしたが、実質的には私は国というものを持たない、どこかで失ってしまったということが分かったのです。 そしてはっきり悟ることを恐れて、たくさんのものを責めて、でも何を憎んでいいのか分からず、すべてから逃げようとしました。 「日本に帰ろう。そして、ただ静かに暮らせばいい」司教様と出会ったのはこれから半年ほど経ったころでしたね。 あの食卓献金伝達大使としてのフィリピン旅行で、私だけフィリピンのビザがなかなかおりずに、手間取ったことを覚えていますか? それによって、実際に書類、証明書の上でも自分がどこの国籍も持たず、 一度日本を出た後、帰ってくるにも再入国許可を必要とすることを私は知りました。皮肉にも、ベトナムで感じた居場所がなく漂う感覚を、事実として裏付けることになったのです。
 それからまた一年、高校二年生になり大学進学を考えながら自分が何を求め、学びたいかを探していたとき、 山梨で行われたWYD−S(ワールド・ユース・デイ・ソリダリティ、大会に参加する青年に連帯して開かれる各国の集い)の日本版に参加しました。 そのときも司教様はいらっしゃいましたね。この多国籍の集まりの中で私はベトナム人のグループに入りました。 ですが、その中にいても、他の人が話すベトナム語は聞き取れるのに、私が話す番になると日本語になり、通訳の人が入るという状態で、そこにいる自分に違和感を覚えずにはいられませんでした。 グループの特にベトナム語を話す人はどう見ているのだろうかと不安で、やはりここに私は属していないのだと痛切に感じました。 自己紹介でもなんと自分を伝えたらいいのか分からず、私は何者なのか自分でも自分が分からないという漠然とした恐ろしさが八方から迫ってくるようでした。 そこに追い討ちをかけるように、最後のミサでベトナム語の共同祈願をみんなの前で読むという役目を与えられ、抵抗しきれず、結局、前日の夜にベトナム語音読を特訓することになりました。 次の日、緊張と戦いながら必死に読んだ共同祈願は、それはそれはたどたどしく、参加していた日本人の神父様に「もっと勉強しなくちゃね」と言われる始末で、一晩の努力空しく情けない結果でした。 でも、今思えばあれが大きな転機だったのですね。 「このまま不安で怖がってばかりで情けない姿で終わりたくない、このままでは私は一歩も先に進めない」と腹をくくって私は覚悟を決めたのでした。
 それから半年後、二年前に逃げ出した現実をはっきり直視し、前に進むために、私は高校を休学して一人ベトナムに飛び立ちました。 実はこのWYD−Sの後、ある神父様から「ハウちゃんははじめから司教様から名指しでWYD−Sの参加が決まってたんだよ。」と教えられました。 司教様は覚えていらっしゃらないかもしれませんね。なぜ司教様がそんなことをしたのか当時私は全く分からなかったし、特に重要な意味もないのだろうと思っていましたが(ごめんなさい)、 今は、すこし分かるような気がします。六カ月、私はベトナムの伯父の家に居候しながらベトナム語の勉強をし、三ヶ月経つと夜間学校に通うようになりました。 新鮮な体験、たくさんの出会い、嬉しい出来事、直視したくない現実、堪え切れない孤独、ただ過ぎていった時間、すべてひっくるめて、とても豊かな半年だったと今は言うことができます。 ただ、始めは「私は失ってしまった故郷を取り戻せるだろう。二つの国に根を張ってこれからも伸びていけるだろう」と信じて旅立ちましたが、 実際、その半年で私が分かったのは「私は国という故郷・居場所・より所を失ったのではなく、もともとそんなものはなかったのだ」と言うことでした。 私は形のないものをずっと求めて、内に幻想をつくり続けていた弱い自分を直視することができたのです。 私が十五歳のときに逃げ出したのはそんな自分からだったのだと今は分かります。 それを知ることで、国で限定することのできない、自分を本当に支えてくれていた人びと、想いが宿る恋しい風景を大切にしたいと思うようになりました。 そして、それが私の内なる居場所であり故郷であってくれるのです。
 束ねられ、組み込まれ、同化していきながら、それでも残り、消えることのない「自分」という存在。 この「アイデンティティ」と呼ばれるものについて、私たちはついどこかに属さなければならない、国や土地に根本をなさなければならないというイメージを持ってしまいます。 それを与えられなかった私は自分で選び取り、信じて肯定しなければ前に進み生きていけませんでした。 そして今でもでも、強烈に自分を叫ばなければなりません。 でも、だからこそ、誰よりも叫ばなくとも存在できる揺るぎない自分を、叫ぶことのできる声を与えられたのだと、信じることができます。
 現在、私のように日本で生まれ育ったのに外国人と呼ばれてしまう子どもたちが教会にはたくさんいますよね。 彼ら彼女たちはどのように育ち、どう生きていくのでしょう。私のようにあるとき気が付き、戦うかもしれないし、ただ外国人として生きていくかもしれない、故郷を探しつづけるかもしれない・・・・・。 私は、教会がそんな子どもたちを国や何かのカテゴリーに分けてではなく、その子ども自身を、それぞれの独特なアイデンティティを見つめ、見守ってくれる場所であって欲しいと願わずにはいられません。
グエン ティ ホン ハウ
(福音宣教)A


焼酎ブーム アジアヘ
メーカー、専門部署設置  飲まれる「芋」、入手困難

 焼酎ブームがアジア諸国に広がり始めた。 日系企業の駐在員から伝わったのがきっかけだが、焼酎や泡盛のルーツは東南アジアという説もあり、現地の人になじみやすいようだ。 輸出量はまだ少ないが、本場・九州の焼酎メーカーには輸出拡大に向ける動きもある。
 人気が高いのは日本と同じく芋焼酎だが、日本でも品薄気味なだけに輸出量は少なく、現地では手に入りにくいという。 (伊藤裕香子)

 ベトナムの首都ハノイにある日系スーパー、ハノイ西友。 店の一番奥の棚には、日本国内のスーパーと間違うほど、焼酎や日本酒などがずらりと並ぶ。900ミリリットルの麦焼酎が日本円で3500円と安くはない。
  それでも「日本レストランだけではなく、最近は現地の人も買っていく」と飲料担当のレイ・ズンさん(26)。酒類の売上高は前年並みだが、焼酎は10%増の勢いという。
 ベトナムに進出した日本企業の04年の投資額は前年の3倍に増えた。政府の途上国援助による道路や橋の建設も続き、在住する日本人は多い。
 芋焼酎「さつま白波」などを輸出する薩摩酒造(鹿児島県枕崎市)の総生産量のうち輸出は1%未満だが、 5年前の3倍に増えた。大半はアジア向け。西一郎商事部長は「現地の人が飲み始めた。とくに東南アジアはブームに近い」と驚く。
 麦焼酎「いいちこ」を造る最大手の三和酒類(大分県宇佐市)は昨春、中国の上海と北京向けに出荷を始めた。 初年度は10万本(720ミリリットル入り)の予定で、1年目の出荷量としては過去の米国やシンガポールを上回る。昨夏には専任の海外担当者を設けた。
 鹿児島市の小正醸造も昨年4月に海外事業部を新設。香港など9ヶ国への輸出に備える。担当部長は「最初は在留邦人向けと考えていたが、中国人も焼酎に注目している」と話す。
 海外進出の背景には、日本市場の先行きへの不安もある。シンガポールなどに麦焼酎を出荷する神楽酒造(宮崎県高千穂町)の荒牧賢二海外事業部長は「少子化の進む日本は市場が縮小する。 海外で一番ブランドを築く先行投資の時期だ」と意気込む。
 ただ、アジアでも芋焼酎は入手困難。ベトナムのホーチミン市ですしハウスを経営する中村一郎さん(56)は「芋の人気が高いがなかなか手に入らない」と困惑気味。 雲海酒造(宮崎市)の担当者は「国内でも不足気味の芋は、輸出は無理。海外には待ってほしいというしかない」と話す。
 宮崎県産業貿易振興協会の藤本哲也事務局長は「昨年からアジア向けの焼酎輸出は伸び始めた。清酒に続き、今後も海外市場に注目するメーカーは増える」とみている。
(朝日 新聞)B


コーヒーブレイク
休日の温泉
本部事務所企画調整課 企画第二係
大原 晋

 人にはそれぞれリフレッシュの方法があると思うが、私は休日によく友人と温泉に行ってリフレッシュする。 といっても、温泉地に行くわけではなく、いわゆる温泉テーマパークに行くのである。高いところだと3,000円くらいするが、600円も出せば露天風呂、バブル風呂、電気風呂など様々な温泉が楽しめる所もある。
 最近、私がもっとも驚いたのは、東京お台場のとある温泉テーマパークでペットの犬が楽しめる犬専用の入浴施設ができたことだ。 その名も「綱吉の湯」という。ここまでくるとすごいな思うが、各温泉テーマパークとも趣向をこらしており、 ショッピングセンター、マッサージ、床屋、居酒屋、卓球場、ゲームセンターなど家族で楽しめる施設を併設しているものが数多くある。
 卓球で汗を流した後、40分ほど温泉につかり、その後に一杯やると1週間の疲れがとれる。皆さんも一度、おためしあれ。
(ていじゅう)C


資料
@ 東京新聞2006年7月9日
A 福音宣教2006年3月号
B 朝日新聞2005年1月22日
C ていじゅうNo117(難民事業本部)2006年3月号


あとがき

 今号が皆様のお手元に届く頃、街は、クリスマスと新年に向けた賑わいに満ちていることでしょう。 プレゼント・ケーキ・ディナーの特集、里帰りの予約、年賀状のためのカメラ・パソコン関係の新製品…。 この時期は、日ごろ心ならずも疎遠になったり感謝の気持ちを表せないままだったりする人びとと、改めて関係を確かめ合う最良の機会です。この時期を楽しみにする人は多いに違いありません。 ただ、同時に私は、かつてイギリス人の神父さんから伺った次の言葉を思い出すのです。「一年のうちで、自殺する人が最も多い日がいつか、知っていますか?それがクリスマスです」。
 誰もが、身の回りのささやかなことから喜びや悲しみを感じとり、張り切ったり、浮かれたり、落ち込んだり、悩んだりしながら生きています。 そのなかで、とほうもなく大きな悲しみや苦しみを感じとり、それにほとんど押しつぶされ、生きた心地のしない毎日を送ることになる場合があります。 例えば、病気の深刻さ、日常生活の不自由さ、近しい人との関係の取り方の難しさ、法制度でさえ守ってもらえないという実感、そして孤独…。
 今号で示される、かつてベトナム難民と呼ばれた人びとの子どもたちをめぐる状況も、深刻です。 本人の意思とはまったく無関係に突きつけられる「無国籍」という現実――日本では名前を通してヨソ者扱いされ、憧れの「祖国」でも居場所は無い(今号の第2記事)。 また、結婚に際して、日本の役所では国籍離脱証明書を求められ、ベトナムの役所では元々国籍など無いと対応される(今号の第1記事)。 自分はどこにも属さない、誰からも守ってもらえないと思い知ることは、自分がまるで透明人間になってしまったかのような、そら恐ろしいことに違いありません。 しかも、その恐ろしさに押しつぶされるなかで軽犯罪に走ってしまうと、罪を償っても、どこにも(どの国にも)更生の道はあり得ない(今号の第1記事)。 そのため、日本の刑務所で服役後、自暴自棄に陥り自殺に至ったという人の話を、私自身も耳にしたことがあります。
 誰もが経験するような苦しみ・悲しみと、自分の存在を揺るがされるような苦しみ・悲しみ。この2つは、まったく別のものというわけではないでしょう。 私たちは、自分のささやかな経験を最大限に生かすことで、共感し合い助け合うことができるはずだと思います。 これから訪れる賑わいの季節、既知の人びととの関係を確かめ合う季節に、共感し合う人びとの輪をもっともっと広げる工夫ができるといいだろうと思います。 その工夫は、贈り物や直接的な訪問に限らないでしょう。もう少しだけ深く聞いてみること、もう少しだけ深く読んでみることから始まるのかもしれません。
(山本直美)

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