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小さなダオ花 25

冷戦の面影がレトロな時代に
ひと
移民の子供送還に「ノン」
扉をあけて元気さん
司教館の郵便ポスト−2
養豚、薬草で貧困対策
あとがき



冷戦の面影がレトロな時代に
変貌をとげるベトナム共産プロパガンダ
山口 道孝
壁の向こう側の思い出
 二十数年前、西ドイツにいた私は、信じ難い破格の値段で手に入る東ドイツ製参考書や他の書籍を求めて、 冷戦真っ只中のあの緊張する東西境界線を何度も越えて旧東ベルリンへ行った。 東側に入るとすぐに宇宙センターのような銀色のテレビ塔とガラス張りで威圧的な建物を目にしたことを今もよく覚えている。 その建物は、東独のシンボルの一つ、ドイツ民主共和国人民会議が開かれていた「共和国宮殿」である。 数日前、過去の遺物であるこの大建築物を、ベルリン再開発のために撤去するという記事が新聞に載っていた。 それにはまた、再開発の一方で、東独の面影が急激になくなり始め、市民の間に東独のレトロな雰囲気を懐かしむ風潮が生まれ始めていると書かれていた。 私自身、あの冷戦下の独特な雰囲気や共産党全盛期の何ともいえない配色のスローガンやプロパガンダポスターをノスタルジックに思うことがある。
そんな共産党のスローガンが、アジアには今もまだ、生きている。北朝鮮はもちろん、近代化の進むベトナムや中国ですら、 少なくなったとはいえプロパガンダ的デザインを目にすることは容易にできる。民衆がそれをどれくらい真剣に捉え、 どれくらい思想的に影響を受けているのか分からないが、未だ社会主義国家の発展に貢献しようと努力し、 中央集中的な思想統制を真剣に考える党員がいること自体、どこかレトロで懐かしく思えてくる。 
 最近、ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)の中心街グエン・フエ通り近くに「ドグマ」というユニークな店がオープンした。 今風のTシャツやアクセサリー、マグカップやグラスが美しく並べられている。 しかし、その各商品に描かれたモチーフを良く見てみると、図柄からロゴにいたるまで、 どれもこれも全て六〇年代、七〇年代の共産党ポスターがベースになっている。正にレトロである。 「祖国と人民のための戦争」「ベトナム革命」「祖国防衛」「打倒アメリカ」、 と四十年前、米軍の激しい北爆に耐え、多大の犠牲を払いながらも勝利を信じ、 頑強に抵抗した北ベトナム民衆にとって、生涯忘れようのないこうしたプロパガンダポスターが、今、ファッション化してきている。 反発もあるだろうが、共産党政権下でさえ、シンボル性が変化してきている。 しかし、ロシア革命を発端に、一時は世界の半分を制覇した共産主義勢力パワーを支え、指導者と民衆を結びつけ、管理する手段として、 威圧的な建築物や独特のアートが大きな役割を果たしたことは事実である。
 ベトナムのプロパガンダ的手法は、当然、ベトナムの革命家たちと共に発展していった。 その出発点は、グエン・タッツ・タン、後のホーチミンが、植民地支配からの解放を夢見て、 サイゴン港からフランス船でヨーロッパへ向かった一九一一年ごろと考えられる。同時期、さらに二人の大革命家がベトナムに生まれた。 一九〇六年のファン・バン・ドン、後のベトナム民主共和国首相と一九一一年のヴォ−・グエン・ザップ、後の国防大臣である。 ホーチミンとこの二人は、七転八倒の末、ベトナム革命の三本柱とよばれベトナム史上に残る英雄となっていく。
 ロシア革命が起こり、史上初の共産党政権が誕生し、ベトナムでも民族自決主義的思想が高まりを増してくる。 しかし、フランス領インドシナ(仏印)政府の取り締まりも厳しくなり、一九二五年、二十歳に満たないファン・バン・ドンは、密かに中国に渡る。 そして、彼は広州で旗揚げされたベトナム青年革命同志会のメンバーとなり、アジアの革命運動、マルクス・レーニン主義、 さらに、ソ連亡命中のホーチミンの思想を徹底的に学ぶ。一九二七年にはベトナム国民党が、 また、一九三〇年にはベトナム共産党が組織され、民族独立運動は、勢いづいていく。 その後、ドンはベトナムに戻り、独立、解放運動に専念するが、捕えられ、八年間の投獄生活を強いられる。 そして、太平洋戦争勃発。日本軍の仏印進駐を機に、一九四一年、 ソ連から三十年ぶりにホーチミンがアジアに戻り、雲南省の昆明で既に解放されていたドンやザップなどの同志と共に、 ベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、抗日地下活動が開始される。一九四四年十二月には、ホーチミンの命を受け、ザップがベトナム陸軍を創設し、初代総司令官となる。 そして、日本の敗戦。一九四五年九月にはこの三人を中心に、ベトナム民主共和国として独立を宣言し、ホーチミン大統領、ファン首相、ザップ国防大臣がそれぞれ就任し、 対仏、対米、対南ベトナム政府への徹底抗戦の歴史が幕を開けるのである。
 今年、二〇〇六年は、ファン。バン・ドン生誕百周年にあたる。この百年の間、革命、独立、共産主義の赤い旗の下、数百万の血がこの国で流され、 また、数百万が難民としてこの国を去っていった。見え難い冷戦の中、共産主義体制の画一化されたシステムとその押し付けが、民衆に不満と恐怖をあたえたことは、 れっきとした事実である。しかし、八六年の第六回共産党大会以来、同じ赤い旗の下、 ドイモイ(刷新)路線を推し進め、市場経済システムの導入と対外開放化、インフラの整備や国際競争力強化に取り組んでもいる。 九七年辺りからアジア経済危機も影響し、輸出面での周辺諸国との競争激化も伴って成長率の鈍化傾向が表面化したものの、 成熟した社会主義国家建設のプロパガンダは、今も有効である。現在の国家的課題を克服するため、今年五月の国会では、労働者の海外派遣に関する法案の採択が求められている。 労働省によると昨年一年間に延べ七万一千人が海外に出て百十六億米ドルを稼いだ計算になる。 日本や韓国でも、既に一定数のベトナム人労働者が受け入れられていて、今後この政策を豪州、イタリア、カナダ、そして米国にまで広げることが提案される予定である。 政府としては、かつての宿敵アメリカに、一人当たり平均収入二千二百米ドルを得られる労働者を年間三千人送ることを第一戦略として考えている。 「対米徹底抗戦」のプロパガンダは、完全にそのシンボル性を失い、新たなプロパガンダが今うちだされようとしているのである。

 赤旗の下で祝う国際婦人デー
 あるとき、私がサイゴン市(正式名ホーチミン市)内を、オートバイで走っていると、何か普段と街の様子が違うことに気づいた。 大通り沿いに花を売る女性が立ち並び、走り過ぎるバイクに花束を差出している。 時間と共にバイクの数も増え続け、夕方ころには、街中がバイクであふれ、バイクの後ろに跨る女性たちの大半が花束を手にし、 どのレストランも女性たちで大賑わいになっていった。三月八日「国際婦人デー」。
 日本製の私の手帳にもたしかにそう記されていた。翌日、市内最大の国営銀行に行くと、やはり入り口に「祝国際婦人デー」と真っ赤な横断幕が掛けられていた。 さすが、共産政権と言いたいところだった。
 もちろん、どこの国にもあるように、女性に対する差別や暴力行為がこの国にないわけではない。 また、花束を贈ることで女性が大切にされていると容易に考えているわけでもない。 しかし、自分たちの手で勝ち取った思想と独立、力で押さえつけようとする大国に徹底的に抵抗し続けたベトナムのしぶとさとその個性が、 今も目に見える形で表現され、生きていることが羨ましく思えてくる。まだ変えていかなければならない何かがあって、 それを民衆に意識させる必要性を感じている人たちが存在している。 時代は変わり、もはやかつてのプロパガンダでは説明できない新しい課題に対し、形を変えたプロパガンダが投げかけられ、それに反応する人たちがいる。 革命に身を投じた偉大な指導者が生まれてから百年、賛否はあったとしても、国家も民衆も変わっていくことに無関心ではいない有り方が、確実に定着している。
 適当に、外国の影に隠れて世渡りしてきた日本にはもともともちえない力強さを感じながら、 だからこそ、レトロな社会主義、共産主義国家の過去の遺物に不思議な魅力を感じてしまうのかもしれない。 
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ひと
カンボジアに贈った学校が150校になった脚本家
小山内 美江子さん (76)

 荒れる教育現場をテーマにして「金八先生」をヒットさせた脚本家は、93年からカンボジアで学校を建てる運動も続けていた。 「90年の湾岸危機のとき、私にもできる国際貢献があるはずと思ったのがきっかけです」。それが、孤児院を含め100校に達し、2月早々に引き渡し式がある。
 建設費用は1校約500万円。資金は個人や企業から募った。 「最期を迎える準備は済ませました。残りはぜひ学校づくりに」と傘寿間近の元教師の女性から1千万円が寄せられたこともあった。
 「その気持ちはしっかりリレーされています」
 バトンを受け取ったのは大学生など若者たち。年2回、25人ずつ同行させ"肉体労働"をさせる。 木製ブランコづくりでのくぎ打ち、くぎ抜きはほとんどが初体験。トイレのない集団生活に絶句した。海外組は800人に及ぶ。
 阪神大震災が起きた95年1月、帰国した直後の若者はすぐ神戸に飛んだ。04年7月新潟の豪雨災害でも、かつての参加者たちは有給休暇をとって被災地に向かった。
 「金八」の当初の出演者たちからも寄付金が届いていて、カンボジアの桜になっている。今回同行する若者たちは、今年のつぼみを見る。
 「『金八』はもう卒業しました。でも学校づくりは続けます。学校に行きたがっている子どもたちが、まだたくさん残っているからです」
文 古館 譲二 
写真 水谷 安孝
A


難民の子供送還に「ノン」
仏で里親運動

 【パリ=沢村亙】フランスで、滞在資格がない移民家庭の子供の里親になる運動が急速に広がっている。 ナチス占領時代に多くの市民がユダヤ人の子供たちをかくまったように、強制送還から守るのが狙い。 教え子やわが子の仲良しが送還されるかもしれない現実に危機感を抱いた教師や親たちが、続々と里親登録している。

 「我が子の級友守れ」 教師・親たち続々登録
パリのカルチェラタンで5月31日、強制送還対象になりそうなアルジェリア系移民のクラスメートの支援を訴える小学生たち=沢村写す
 不法滞在外国人の強制送還に力を入れる仏政府は昨年10月、 幼稚園や小中高校に通う子供がいる場合は学年末の6月30日まで送還処分を保留する方針を各県に通知。 学年末が近づくにつれて移民社会の間で徐々に不安が高まっていた。
 送還対象になりそうな子供が通う学校では春以降、教師や父母でつくる支援団体が続々と発足した。 市民団体「国境なき教育ネットワーク」が里親になったり、送還時に子供をかくまったりする意思がある人を募ったところ約3万人が署名。 左派系市長がいる自治体では、里親登録を受け付け始めたところもある。
 パリ郊外に住む作家のモーリス・ライスフュスさん(78)も子供をかくまう意思を申し出た。 14歳の時ポーランド出身のユダヤ人で仏国籍がなかった両親は警察に逮捕されアウシュビッツ収容所に送られたまま戻ってこなかった。
 里親は恵まれない家庭の子をサポートするいわば後見人で、法的に送還を止めることはできない。不法移民をかくまえば、訴追される可能性がある。 だが、ライスフュスさんは「命の危険を冒してユダヤ人をかくまった市民のことを考えればささいなこと」という。
 仏議会は、不法移民への規制を強め、国家に役立ちそうな外国人は優先して受け入れる新移民法案を審議中。当初は低調だった同法案への反対論も広がってきた。 里親登録をした男性は「子供のクラスメートが送還されるかもしれないと知ってひとごとではなくなった」と話す。
 反対運動の広がりを受けてサルコジ内相は6日「フランスで生まれ、学校に通い、親の出身国の言語を話さない子供がいる家庭は送還しない」と発表した。
 だが、「教育ネットワーク」は「全体の2%の子供しか適用されない」と批判する。ライスフェスさんは「子供が出生地や親の言葉を話すかどうかを決めたわけではない。 子供にはなんら責任がない問題で差別するのはおかしい」と話す。 
(朝日 新聞)B


扉をあけて元気さん
無国籍である思いなどについて、月刊誌に往復書簡を連載中
グエン・ティ・ホン・ハウさん

 書簡の相手はさいたま教区の谷大二司教。連載は『福音宣教』誌のことし一月号から始まった。
 「ある日突然矢吹さん(=矢吹貞人助祭・さいたま教区)から電話があり、連載の話が始まった。 条件は「司教さんと若い人が手紙のやり取りをする形式でやりたい」ということだけ。 谷司教と共通の話題、関心事は何かを相談する中で、「自分が無国籍であることやアイデンティティーのこと」が浮かび上がってきたと言う。
 ハウさんの両親はベトナムからボート・ピープルとして日本に逃れてきたため、家族はベトナム国籍も日本国籍もない。こうした事情は同誌3月号に詳しい。
 ハウさんは「何人(じん)ですか?」とよく聞かれる。答えは、「本当に知りたいのなら、私の話に付き合ってくれませんか?」
 谷司教とは実際に手紙のやり取りをしている。谷司教の手紙を読み、感じたことを返事として書く。その後のことは何も決まっていない。 「司教さんは私が本当に大切にしている部分に、的確に応えてくれます。いいですね。安心しますよ」
 反響も次第に届き始めた。旧知の修道女は、「他の人には混沌(こんとん)としていて理解できないかもしれないけれど、伝える事は大事」と手紙をくれた。 「知らなかった。でも大丈夫、神様の前で私たちはきょうだい」と言ってくれた友人もいる。
 両親は「興味があるけど日本語が読めない」ので内容を知らない。「私も伝えたいけれど、そこまでベトナム語の表現力がなくて。 でも多分喜んでくれています」。次には両親のことを書く予定だ。「まだ自分たち(=両親)が主役になることを知らないんですけれど」
  「無国籍」であることやアイデンティティーの問題を恵みと感じることもある。 「"与えられてしまったもの"という意味で。そこから自分は何を考え、感じ取るか。必要ならそれを伝えなければ!」


司教館の郵便ポストーA
グエン・ティ・ホン・ハウ

 拝啓
 寒さもいよいよ厳しくなってまいりました。司教様は如何お過ごしでしょうか?きっと毎日忙しく飛び回っていることでしょう。
 今回、司教様にこのような手紙を綴ることのできる機会を得られましたこと、大変喜ばしく、与えられたお恵みに感謝しています。
 しかしながら、この話をいただいた当初は不安を覚えずにはいられませんでした。 「『大人』は私たちの、たとえ未熟な想い、声だとしても、そのまま聞き入れ、受け入れてくれるだろうか」という不安です。 私は素直に偽ることなく、手紙を通し、私たちの心からの言葉をお伝えすることになるでしょう。 私たちの声はもう昇華された穏やかなものではなく、現在でも傷が疼き、心が揺さぶられ、 それでも向き合わずにはいられない叫びかもしれないのです。思いを発することは私にとってこの上なく不安であり、受け入れられないことは恐ろしいことでもあります。 でも、司教様にお伝えしたい、そんな想いに押されて今、手紙を書いています。
 谷司教様と本当に「出会った」のは、今から4年前、私が高校一年生のときです。 イエスの食卓献金伝達大使(註)として若者たちをアジアの国々に派遣する、そんな企画の中で司教様に引率されフィリピンを旅した若者の中に私もいたのでした。 司教様は覚えていらっしゃるでしょうか。一週間ほどの旅行の間、「本当にこの人神父様なのかな?」と思ってしまうほど谷司教様は飾ることなく、 私たちとともに食事をし、私たちの目線に寄り添うように努め、後ろからいつも温かく見守ってくださいましたね。 あのころの私は自分が背負う境遇から目をそむけて、事実、そのことについて何も知らずに、心を閉ざして逃げてしまおうと思っていました。 このことについてはまたお話できる機会があるかもしれませんね。 今思えば、あのフィリピンへの旅はそんな私を外の世界に引っ張り出し、結果的に自分と向き合わせるきっかけとなったのですよ。
 あれから四年、さまざまなことがありました。内に外に巡りながら、静かに戦ってここまできましたが、 気がつけば教会という場所は常に手を広げて、足元が揺らぐ私の傍にいてくれました。 そして教会での多くの出会いは大きな転機を私にもたらし続け、そのたびに教会は風を送って私を突き動かしてくれました。
 谷司教様はそんな教会を守ってこられ、これからも作り上げていく方です。あのフィリピンでの旅行中のように、 司教様もずっと私たちを見守ってくださっていたのでしょう? そして、今回も私たちの目線に寄り添い、対話しようとしてくださっているのでしょう? だから私は、この不安を神様にお渡しして、私たちの声、想いを司教様にゆだねます。 これが神様のご意志でもありますように。お望みどおりになりますように。
 では、これからも寒い日々が続きます。お忙しい毎日だと思いますがお体を大切になさってください。
敬具
 十二月十六日
グエン・ティ・ホン・ハウ

(註)「イエスの食卓献金」とは、さいたま教区が一九九五年から実施している海外との交流活動で、 毎週金曜日にイエス様を自宅の食卓にお招きしてその一人分の食費を献金し、開発途上国の児童福祉施設などの援助にあててもらおうというもので、 教区の青年が毎年「伝達大使」として送金先を訪問することになっています。
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 ■ ハウさんは今まで何度となく「小さいダオ花」に投稿してくださっています。 2006年初めから『福音宣教』に掲載されている記事を、今後とも抜粋させていただきます。(事務局)


養豚、薬草で貧困対策
 東京 ベトナムの司教が講演

講演したホアン司教
 ベトナム南部のファン・ティエット教区では、豚を育てて、そのふんから出るメタンガスで電気を起こしたり、 薬草園を経営して安い薬を提供したりするなど、貧しい人の自立のために取り組んでいる。
 同教区のグエン・ティン・ホアン司教(66)は、「信徒には、信仰生活だけでなく、社会福祉の活動をするよう呼び掛けています」と語る。 司祭叙階後すぐにベトナム戦争で親を失った三百四十五人の子どもの養護施設を建てたこともある。 四月に来日したホアン司教は、二十四日に東京の真生会館で講演し、日本の支援団体と意見交換した。
ボアン司教が運営する診療所。貧しい人たちのためにベトナム伝統の薬草を使い、医療費を抑える
 同教区内の全人口は約百万人で、そのうち十五万八千人が信者だ。
 「第一に掲げているのは、貧困の撲滅です」とホアン司教は言う。 修道院の経済的自立を目的に始めた養豚が軌道に乗り、発展したため、豚を家庭に貸し付ける制度をつくった。四年で返すまでに、一家族は十分自立するようになる。 「現金収入が増えるので、お母さんの力がつく」と言う。男性が稼ぎ手だと、"お母さん"の意見がなかなか聞き入れられないからだ。
 費用の高い医療の代わりに、ベトナムの伝統的医療である「南方薬」の栽培にも取り組んでいる。毎年十人を南方医療の大学へ送ると同時に、薬草園と診療所も運営している。
 「私は貧しい家庭で育ちました。大神学校で社会学を学んで、司祭になったら社会活動の側面をしっかりしたいと思っていました」とホアン司教。 現在、ベトナム司教協議会の社会福祉委員会委員長も努めている。
 一九九〇年から支援を続けるNGO(非政府組織)「ジャパ・ベトナム」代表の安藤勇神父(71/イエズス会)は、同司教に初めて会った時、 「本当に人の中に入って、貧しい人のために何をすれば良いかということに関心がある方。 小さな努力でも何かできたらと思った」と言う。
 カトリック司祭がつくったバー「エポペ」(東京)から生まれた特定非営利活動法人ヒューメイン・インターナショナル・ネットワーク(HINT)も、 一九九六年から同教区での取り組みを支援している。
 ベトナムの失業率は増える一方。「私たちができることはごくごく限られていますが、もっと多くの人に(支援が)行き渡れば」とホアン司教は望んでいる。
(カトリック新聞)E


資料
@ あけぼの2006年5月号 
A 朝日新聞2006年2月21日
B 朝日新聞2006年6月9日
C カトリック新聞2006年5月14日
D 福音宣教2006年2月号
E カトリック新聞2006年5月14日


あとがき

 今年は、台風や豪雨が猛威をふるい、思いがけない災害に見舞われた梅雨の時期を過ごしているうちに夏休みに入ってしまったような、 例年とは少し違う季節の動きを経験しました。その上、インドネシアでは地震や津波があったり、大切な人命も失われました。
 一方、人間の社会的営みも、多くの良い面が消されてしまう程の痛ましい事故や事件が報道されることによって、 現在もショックを受けることが多々あります。前向きに、希望を持って、という励ましの言葉は良く聞かれますが、 苦境にあって本当にその言葉を心から受けとめられる人は少ないのではないかと思います。 というのも、社会生活においてはある程度の時間と経済的な問題が解決すれば、「復興」は何とか実現するでしょう。 しかし、失った命や物質的なものに対して心が新しく、そして平穏になり、「復活」することは非常に難しいと思います。 自然の力であれ、人間の暴力であれ、自分にもたらされた恐怖、損害などについては、一時的な手段で痛みを取り去ることは不可能でしょう。 私たちも「他」のこととして見過ごすのではなく、 少しでも痛みを共有することから一人一人にできる事を実行していきたいと思います。

 今回、1970年代に溯りますが、祖国を離れて嵐にもまれ不安を抱えながら、 日本に辿りつかれたベトナムの方々に関する記事が載せられています。 当時からの問題はまだ解決していないことを私たちは読み取り、理解しなければならないと思います。 そして、もう一度「人間」について、また、国家や行政について考え直す必要性を深く感じました。 一人一人に落ち着ける「居場所」が与えられますように、安心して生活できる環境が与えられますようにと願って止みません。 そして同時に、地球環境をよくするために、一方、テロや戦争の起こらない平和の基礎をもっと積極的に掘り固め作っていくために、 小さなことから力を尽くしていきたいと思っています。
(中里昭子)

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