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小さなダオ花 23

清潔な針がHIV防ぐ
尽きぬ恵みが紹介続ける
中国のインフラ改善進む懸念材料残るベトナム
社会人になります
ベトナムと私
だんだん慣れていけばいい
コーヒーブレーク
あとがき



清潔な針がHIN防ぐ
麻薬注射が主要感染源のアジア

  アジアのエイズウイルス(HIV)感染者は05年の推定で830万人、性行為による感染が大半を占めるアフリカに比べて、 アジアでは麻薬を打つための注射針の使い回しによる感染が目立つ。 そんな中、麻薬注射の常習者に使用済みの針と交換に新しい針を提供して感染機会を少なくしようという 「注射針プログラム」がアジアの国々で成果を上げつつある。(ランソン<ベトナム北部>)=小暮哲夫)
ベトナム
 半期で20万本交換
 中国と国境を接するベトナム・ランソン省。バイクタクシー運転手のチンさん(31)はランソン市中心部にある保健センターに週1回、使用済みの注射針を届ける。 回収した針と引き換えに無料の注射針引換券を受け取ると、その足で薬局に行き新しい針をもらう。
 チンさんの腕にはどす黒い注射針の跡がいくつもある。10年前、友人に誘われ、ヘロイン注射の仲間となった。すぐにHIVに感染したとわかった。 いまも1日2回、街の売人から使う分だけヘロインを買う。「切れると高熱や疲労感が出て、仕事ができなくなる。」
 だが「仲間に感染を広げたくない」と言う。注射針交換プログラムを支援するボランティアとして、 自分が住む市中心部の地区で麻薬常習者から使った針を受け取って新しい針を渡すほか、屋外に放置された注射針の回収もしている。 摘発を恐れた常習者が公衆便所などに針を隠しておいて共用する例が多いという。
 ベトナム保健省によると、国内で確認されたHIV感染者は約10万人のうち6割が麻薬注射の常習者だ。 国は04年3月から交換プログラムを始め、05年上半期は1万7千人に計20万本を提供した。
 ランソン省は約2200人の感染者の8割以上が麻薬常習者と深刻な状況だったため、 国に先駆けて02年9月、独自にプログラムを始めた。省内の麻薬常習者約340人を無作為に抽出した調査で、 感染率が開始当初の46%から2年後の04年9月には32%に下がった。
 「注射針の交換は事実上の麻薬容認だ」との反対意見も根強い。だが、保健省のフイ・ガアHIVエイズ対策局長は、 「賛否はあるが、コンドームの使用促進と並ぶ国の重要な施策だ」と力説する。 感染予防のため注射針の交換を認める条項を盛り込んだHIV・エイズ対策新法が06年前半にも施行される予定だ。
 
 国連やNGOが支援 9ヶ国でプログラム
 国連薬物犯罪事務所(UNODC)の05年世界麻薬報告によると、インドネシア、ベトナム、マレーシア、ミャンマー(ビルマ)、 中国、ネパールの6ヶ国で注射針共用がHIVの感染原因の1位になっている。
 UNODC東アジア・太平洋地域センターの藤野彰所長は「麻薬の生産地(アフガニスタンやミャンマーなど)が近いうえ、性産業が盛んなことが拍車をかけている」と指摘する。 売春婦が麻薬常習者と無防備な性行為をしたりして、感染が広がっているという。
 国連合同エイズ計画(UNAIDS)によると、アジアではベトナムのほか、インド、パキスタンなど計9カ国で「注射針プログラム」=図=が進められている。 90年代後半から国連やNGO(非政府組織)が各国に麻薬常習者の感染予防対策の重要性を働きかけてきた。 プログラムは、感染する可能性のある機会を減らすことを重視する「ハーム・リダクション(健康への被害軽減)」という考え方に基づいている。
 タイ北部チェンマイのNGO「アジア・ハーム・リダクション・ネットワーク(AHRN)」の本部では、 05年だけで10ヶ国以上の政府担当者らが予防セミナーを受けた。麻薬常習者に清潔な針を使用するか、注射針を使わないで吸引するように求める。 麻薬の健康被害も教え、薬物を使った麻薬中毒の治療を勧める――が主な内容だ。
 「欧州では麻薬常習者をまず『ケアが必要な人』と見る。犯罪者として扱ってきたアジアとの違いだ。 アジアで政府やNGOを結ぶ我々の活動の意味もここにある」とメディア担当のニービル・ボーウィスさんは話す。
(朝日 新聞)@


尽きぬ恵み紹介続ける
ラオスと私
「めこん」社長 桑原 晨さん

 「ただ海外へ行くことが夢」だった。アジアに関心があったわけではない。ベトナム戦争にも、反戦運動にも興味がなかった。
 どこでもいい、と青年協力隊員に応募したら、ラオスに決まった。70年、首都ビエンチャンの工業高校で日本語の授業を持った。26歳だった。
 バーで働く18歳のガールフレンドは字を書けなかった。それが分かったのは知り合って1年もたってから。 「字が書けない人がいるなんて考えたことも無かった」。ラオス人だと思っていた彼女の両親はタイ人とカンボジア人だった。 貧しい家で学校へ行けず、弟は「口減らし」のために寺に出され、僧になった。
 「日常の中にそんなドラマがちりばめられていた」。一つひとつの経験が貴重だと気づいたのは、2年後に帰国してからだ。
 東南アジア関連の本はほとんどなかった。広告で見た関係書を買い込んでも月に1、2冊程度。「自分で出そう」と78年、出版社「めこん」を立ち上げた。
 社名はビエンチャンを流れる大河にちなんだ。雨期には満々と水をたたえる川も、 乾期には流れが細り、人々は20メートルの段差を下りて川底に畑を作る。その営みは、初めてメコンを見た35年前と変わらない。
 一方、「めこん」を取り巻く状況は変わった。今、アジアの言語の本が売れる。インドネシア語やタイ語、バリ語。 買っていくのは、ごく普通の旅する人たち。「土地の人と話したいとか、恋人ができたとか。日常的な必要から言語を学ぶ。すごくいいことだ」
 何も知らなかったラオスに、若く、柔らかく、がむしゃらな心でぶつかった。悠々たるメコンの流れと尽きない恵みは、そこに生きる人たちの寛容さに似ている、と思う。 
(木村文)
 72年、友人と出版社を立ち上げ、78年に「めこん」として独立。95年に100冊目の「メコン」(石井米雄、横山良一)を、 03年には念願の「ラオス概説」(ラオス文化研究所編)を刊行した。61歳。
(朝日 新聞)A


【中国】インフラ改善進むも懸念材料残るベトナム
加速するベトナム・ブーム(2)――瀬谷千枝

 前回は、各種統計データをもとに、第2次ベトナム・ブームが本格化していることを紹介した。今回は投資先としてベトナムが抱えるいくつかの課題を解説する。

■ 進出時の留意点
 ベトナムは安定した政治と社会、そして良質かつ安価な労働力など魅力が多い。世界銀行によると2005年におけるベトナムのGDP成長率は7.5%になり、 06年も同水準を維持すると見られている。 反日感情もなく、チャイナ・リスクのヘッジ先としては最適とも考えられるが、いくつかの課題もある。
 まずは法体系が整備途上にあることだ。現状では中国の法体系をモデルに、これを単純化したものと据えることができるが、 その決定までの透明性には疑問の余地が残り、最終的に首相判断となるケースも少なくない。 先に述べた会社法・投資法の改正が、施行スケジュールは発表されても内容については未だ不明なままとなっているのはその典型だろう。
 普遍性・恒常性についても、ある日突然、税率が引き上げられるなど気を抜けない面がある。 06年1月1日から実施予定だった外資企業労働者の最低賃金引き上げは一時、準備期間不足などを理由に4月に実施を延期するとしていた。 ところが05年末に南部で発生したストを受けて突然、2月1日からの実施が決定。法施行までのプロセスはもちろん、 「『声を上げれば政府は折れる』と労働者に認識させてしまったことは、将来的に不安材料となった恐れがある」(政府関係者)と疑問視されている。
 このほか、調整先となる裾野産業の集積が進んでいないことや、地場企業の成長度、ワーカーは豊富でも、 エンジニアや中間管理職候補、語学力のある人材が少ないこともネックだ。
 労賃も上昇している。先に述べた外資企業における最低賃金改正で、2月1日から最低賃金はハノイ、ホーチミン市の市街地区で87万ベトナムドン(約55米ドル)、 ハイフォン市などの地方都市で79万ベトナムドン(約50ドル)、その他地域で71万ベトナムドン(約45ドル)となり、 上昇率は45〜39%に上った。日系企業の場合、多くがこれを上回る賃金を提示しているため、直接的な影響はほとんどないとする見方が多勢だが、全体的な底上げ感を受け調整を余儀なくされるのは必至。 また最低賃金は今後も段階的な引き上げが見込まれており、上昇傾向が続くことは否めないだろう。

■ インフラ改善の課題抱える
 インフラについては順次、改善されている。南北を結ぶ国道1号は海沿いを走っているため、台風などによる一部閉鎖のリスクがある。 これを解消するため、新たに南北を結ぶ「ホーチミンルート」と呼ばれるバイパスを整備中で、07〜08年には完成予定だ。
 ベトナム−ラオス−タイ−ミャンマーを結ぶASEANの大動脈と期待される東西回廊については、タイ・ムクダハンで起きた橋梁建設事故の影響で開通遅延が懸念されたが、 現在のところ橋梁の06年末完成予定に変わりはないとされる。橋梁が完成し、ベトナム、ラオス、タイ3国を自由に出入りできる輸送車両のトリプラルライセンスが可能になれば、 1日半〜2日でバンコク−ダナンが結ばれ、 タイで加工した部品をベトナムで組み立て、欧米に輸出するといったフォーメーションも現実味を帯びてくるだろう。
 しかし、懸念がまったくないわけではない。例えば電力はこれまでのところ、 中国ほど深刻な電力不足は発生していないものの、電力需要は年間十数%の勢いで伸びており、発電所の建設や送電ネットワークの整備が間に合うかが問題となりつつある。 特に、これまで水力発電に頼ってきた北部では05年春、降雨不足により一時、電力不足問題が発生した。 計画では新たな発電所の増設や中国、ラオスからの電力輸入により2010年の電力供給量は2100万キロワットに倍増する見込みだが、潜在的リスクであることに変わりはない。
 送電ネットワークも05年10月に50万キロボルトの南北送電線が1回線から2回線に増設されたほか、 2010年までに送電ネットワークを50%増強するとされている。ただ、南部でも経済発展による電力需要増が見込まれており、北部に向けられるだけの余剰電力があるのか、 また1500キロメートル以上におよぶ長距離送電の途中ロスなどが懸念材料として残っている。

 港湾についても、北部にはハノイからほぼ真東にハイフォン、カイランの2大港があるが、ハイフォン港は水深が浅いため、輸送船舶や取扱能力の限界が懸念される。 カイラン港はこの点、水深は約10メートルとまずまずだが、世界遺産ハロン湾に近く、大量の船舶が付近を航行するようになれば環境への影響がネックとなろう。
(執筆者:みずほコーポレート銀行香港支店 中国アセアン・リサーチアドバイザリー課 瀬谷千枝)

 ※ 本コラムはいかなる助言を含むものではなく、これによって生じた損害について、当行は責任を負いません。

 写真は天秤棒に採れたての野菜や果物を担いだ昔ながらの行商の姿。ハノイ市内ではよく見られる光景だ。本コラムの内容とは関係なく、イメージ写真です。
 (提供:みずほコーポレート銀行香港支店 中国アセアン・リサーチアドバイザリー課)
 (サーチナ・中国情報局)―2月7日10時29分更新B


社会人になります
DANG ANH VU
(明治大学理工学部機械工学科)

 日本に来て、そろそろ七年目を迎えようとしています。大学に通い、アッという間に四年間の学生生活はあと、僅か数週間です。 四年間大学で、皆様の暖かいご支援とともに、自分の出来る限り、日々一心不乱に努力してきました。 卒業研究として、航空力学を研究し、人力飛行機の研究、製作をしました。そしてお陰さまで、本研究室の過去最高記録を出すことが出来ました。 このような結果が得られたのは、自分なりに努力してきた成果だと思います。しかし、現実は「頑張る」・「努力」だけではなかなか、厳しいものがあります。 長い間「努力できる環境」そして「頑張れるチャンス」を与えてくださった皆様にいつも心から感謝しています。 この気持ちは、いつでも決して忘れてはいけないと思い、皆様のご支援や期待に応えられるように、私はこれからも一生懸命頑張ります。
 大学卒業後、四月から群馬県にある「株式会社ミツバ」という自動車部品メーカーに就職することになりました。 社会人になる直前、少し不安ですが、同時にとても楽しみにしています。これから新しい環境の中、より一層頑張りたいと思いますので、 どうか今までのように暖かく見守っていただきたいと思います。 ご支援くださった皆様の近くになることも心強い限りです。


ベトナムと私
質実な気風は変わらず
 黒光りした中古の足踏みミシンが、ベトナムに出会うきっかけだった。
 NHK名古屋放送局のアナウンサーだった89年、いらなくなったミシンをベトナムに贈る市民団体の運動を同行取材した。
 南北統一後の急速な社会主義化によって経済は沈滞し、86年からのドイモイ(刷新)政策による市場経済化の効果も表れない。 そんな中で、女性の副業として縫製が注目されていた。
アナウンサー宮川 俊二さん
 婦人団体や学校に800台が寄付された。1年後、再取材すると、民族衣装のアオザイの生産に活躍していた。 「古いミシンが不要になった日本と、これから自立しようとするベトナムの状況がうまくかみ合ったんだな、と感動しました」
 NHKを退職した93年にはホーチミン市のビジネス学校で1ヶ月間、日本語講師のボランティアをした。 若者と飲みに行ったり、週末に小旅行に出かけたり。大学のゼミのようなふれあいを経験した。
 97年、ベトナムへの機内で「雑貨を買いに」という日本人の観光客と出会った。それまでは外国の援助関係者らの姿ばかり。経済の変化を実感する。
 その後、ベトナムは訪れるたびに様変わりしている。しゃれたレストランが増え、リゾート開発が進む。 海外から戻った越僑や、起業で一もうけしたような若い世代の姿も目立ってきた。
 それでも、壊れた2台のバイクの部品をあわせて1台につくり直すようなベトナム人気質は変わらないと思う。 10回目の訪問となった昨年12月、ビジネス学校で、自分が置いてきた日本語の教科書をコピーして、いまだに使っているのを知った。 「だから、あのミシンたちは今でもどこかで活躍していると思うんですよ」  
 (小暮哲夫)
 愛知県生まれ。70年にNHKに入り、福岡、名古屋、東京などで勤務。 98年に退職してフリーとなり、フジテレビのニュースキャスターを務めたほか、バラエティー番組などに出演している。58歳。
(朝日 新聞)C


だんだん慣れて行けばいい!
打出真紀
 2000年2月27日夕刻、私を乗せた飛行機はノイバイ国際空港に着陸した。ハノイでは雨の日が多いが、その日も強い雨と風に見舞われた。飛行機が着陸の準備に入ると、 ベトナム人旅行客は家族や友人に電話をかけ、帰りの交通手段を確保するのに忙しそうにしていた。 私は空港へむかえを頼む相手もいない。一人でタクシーでハノイの中心地へ移動しなければならなかった。 
 ホテルに着くと、私は学校の秘書に連絡をとった。彼の奥さんによると「主人は病気で熱があるの、明日もう一度電話してもらえる」との返事。 ベトナムについてから事はうまくいかないようだ。 しかし、私は事の成り行きは冷静に見ることができた。なぜならば、早く生活に慣れる為には、どんな時でも冷静さを保たなければと考えていたからだ。
 ハノイについてから2日後、やっと私は語学センターを訪ねることができた。時間を決め、宿泊先を探すことも出来た。 私の宿泊先はセンターから自転車で10分程のとても便利な場所に位置していた。北タイン・コンという場所にあり、近くにはタイン・コン市場と呼ばれる大きな市場があった。 このタイン・コン市場は、その取り扱う商品の豊富さと管理された衛生面でハノイ人民委員会から優良市場のひとつに選ばれた。
 一人暮らしをするのはまったくの初めであったが、毎日沢山することがあった私には寂しいと思う気持ちを感じる暇は無かった。 私は1週間に5日、1日3時間ベトナム語を勉強していた。 話はまったく出来なかったのだが、日本で3年近くベトナム語を習っていたので、少しはベトナム語の基礎があったことで勉強面には困ることは無かった。
 しかし、勉強以外には沢山の問題に悩まされた。その一つがベトナムの交通に慣れることだった。 ベトナムでは交通ルールを無視して、人々は道を行き交う。またバスのシステムが確立されていないので、 外出するときはバイクか自転車を利用しなければならない。まずは、自転車を練習しなければ。日本ではバスを利用していたので、自転車の乗り方を忘れていた。 私は朝5時に起きて、自転車の練習を始めた。なぜならばハノイはいつも混雑していて、自転車の乗り方や道を知らないと交通事故に会う恐れもある。 練習の最初の日、道はオートバイや自転車が少なかったにもかかわらず、私は怖くて何度も自転車を止めてしまった。 練習も3日目をむかえる頃には自転車に乗ることがすがすがしく気分の良いものに思えた。そして、ついに自転車でセンターに向かう日が来た。 私は午後2時に家を出発した。2時という時間はベトナムの一番暑い時間で、道は空いている。行きは何の問題もなく、センターに着くことができた。 私の勉強は5時に終了する。ベトナムの会社の多くは5時に終了するため、この時間になると、ハノイのいたる所で渋滞が始まる。 行きは10分で行けた距離が、帰りは40分近くかかってしまった。恐るべし、ベトナムの交通渋滞!
 第2に私が慣れなければならなかったのはベトナム式の買い物であった。ベトナムと日本の市場の仕組みとはまったくといっていいほど違いがある。商品に価格は掲示されていないし、また基準となる価格設定もないようなもので、買い手が直接販売人にたずねてやっと値段を知ることが出来る。だから、言葉がわからなかったり、買い方を知らなかったらとても疲れてしまう。私も最初のころは市場に行くたびに疲れて帰ってきた。市場に出かけても、何も買うことが出来ずに家に帰ることが何度もあった。こんな風に、日本にいたら普通に出来ていたことがベトナムではすごく難しい事に変わってしまう。  ベトナムで暮らし始めた頃、沢山のベトナム人にこう励まされました。 「だんだん慣れるから大丈夫よ!」本当にそうだった。一つクリアしたら今度は次の問題に挑戦、今になって言える事だけど、 私の留学生活はホームシックになったり病気になる暇も無かったほど充実していたのかもしれない。事実、ベトナムに滞在した2年半で病院に行ったのは1度だけだった。(留学日記A) 
D


コーヒーブレイク
関西支部難民相談員 慎あやこ

 80代半ばになる私の祖母は朝鮮半島の南方の島出身です。ハングルも日本語もゆっくり時間をかけて、やっと少し読める程度です。 さぞ不便だろうと文字媒体の情報に依存する私はいつも思うのですが、彼女のたくましい生活力は私の想像を超えることがあります。
 祖母は新聞の折り込みちらしを見ては、お店のロゴや商品の写真と値段の数字から、 今日はどこで何が売り出されているかを調べ、手押し車を押して、時にはバスに乗って遠くの市場まで、目当ての品物を買いに出かけます。 病院や銭湯にも一人でバスに乗っていきます。
 先日祖母と出かけて初めて気づいたのですが、彼女はバスの番号で行き先と停留所をすべて記憶しているようです。 バスの車両に記された数字を見るだけで、すぐに路線や停留場が分かるのです。
 道路表示や地図が読めなくても、車を運転する私以上に道に詳しいのです。彼女のバス路線の詳細な記憶は、日々の行動力のなせる技なのでした。
 最近めっきり足腰が悪くなり、遠くに行けなくなったと嘆く祖母ですが、読み書きが不自由な分、あらゆることを行動と体験から学び、 暮らしに活かしてきた彼女の生活力を知るにつけ、私は驚きとともに頭が下がる思いがします。
E



資料:
 @朝日新聞2006年1月27日
 A朝日新聞2005年6月21日
 BYahoo!ニュース-サーチナ・中国情報局2006年2月7日
 C朝日新聞2005年9月20日
 D「NGOヴィエトニュース29」(NGO in KOBE発行) 2006年3月号
 E「ていじゅう116」(難民事業本部発行)2006年3月号  


あとがき

 4月16日、イースターの日は、どのように過ごされたのでしょうか。今は、復活節を大事にする時であり生命についてより深く考え、黙想するときでもあると思います。 キリストが示された光は、私たち人間性の根底にいつも新しい力を発見させ、呼び起こさせるものではないでしょうか。
 どこの国でも、小さな社会でも、人間の集まるところでは祭りとか祝い、また記念行事などが良く行われます。 国によって言葉の意味には多少の違いはありますが、同じ意向のもとに皆が集まって、祈ったり、一緒に食事をしたりして、 互いの親睦を深め合う良い機会だと思って「祭り」を一つの記念行事のようにしているところが、かなり多く見られます。 日本でも、古くから神社などを中心に地域の住民が心を合わせて感謝とか願い、 また、お互いの親睦をはかるために、飲んだり食べたりということも含めて「祭り」がおこなわれてきました。
 いま、私たちは報道によって知らされる悲惨な事実があるからこそ、「祭り」が世界中のどこでも平和な環境で、 また、平和を呼び起こすものとして催されることについて積極的な姿勢と心を向けなければならないと思います。 私たちの周囲に目を向ければ、すべてを破壊し命を奪う暴力的な行為が、残念ながら後を絶ちません。
 世界がこのような状況にあるとき、今年1月の「世界平和の日」にローマ教皇はミサ聖祭の説教で 「平和、すべての人の心のうちにあるこの大いなる切望は、すべての人の支えによって日々築かれていきます」と述べられています。 神聖な祭りが大勢の人々と一緒に捧げられる時、まさに神に向かう線が無限に伸び、 人々の心を結ぶ横の線も地球上の空間を暖かく幾重にも覆うものとして受け止められるように思います。
 それぞれの国、地域で行われている「祭り」を大切にしながら、私たちも平和と命を守るために、神聖な祭り、感謝の祭儀に参加したいと思います。
(中里 昭子)

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