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小さなダオ花 22

インドシナ難民が安住
Viet
豊かさと貧しさ交錯
感謝
あとがき



インドシナ難民が安住
パリ郊外 緑豊かで郷愁くすぐる

アジア人社会
   CDラジカセからなんとも優しい音色がこぼれ始めた。合掌のポーズに始まり、少女たちの手足がくねくねと動く。 赤や青など原色の腰巻に金のベルト、クメール王朝の栄華が時空を越えてよみがえる。
 パリから南東に約20キロのローニュ市。毎週日曜の午前、余暇センターでカンボジア古典舞踊の教室が開かれている。 5〜15歳くらいの生徒約30人はカンボジア移民の子供たちだ。
クメール舞踊の練習に励む少女たち=
ローニュの余暇センターで、富永写す
 多民族社会のフランスでも、同市の「アジア度」は群を抜く。1万5千人の住民の3分の1。多くが元インドシナ難民の家族だ。
 60年代半ば、当時のドゴール政権はパリ郊外に人口50万人の人工都市を五つ計画した。ローニュを含む地区もその一つ。 75年に高速道A4が開通、80年にはパリへの通勤鉄道もでき、宅地開発に弾みがついた。
 70年代後半から渡仏したインドシナ難民はまず、パリ南端の13地区に集まった。高度成長期の巨大なアパート群があったからだ。 そこに「東にいい土地がある」との情報。中でも緑と起伏、湖水豊かなローニュは、都市生活に疲れた人たちの郷愁をくすぐった。
 政府も難民の住宅取得を支援した。75年にわずか248人だったローニュの人口は60倍に膨らんだ。 インドシナのほか中国、アフリカ・アラブ系など、住民の出身国は80に及ぶ。
 舞踊教室を主宰するクメール美術協会代表、コル・マカラさん(58)は82年パリから妻子と越した。 アパートの9平方メートルだけだった私的空間が、小さくても一戸建てに広がった。
 71年、電気工学の留学生としてプノンペンから台湾に渡り、そこで京劇の勉強をしていた同郷の妻と出会う。 もう少しで学位が取れるという75年、ポルポト派が政権を握った。
 難民申請して渡仏したコメル夫妻はすぐ、クメール文化を守る活動を始めた。 「周囲には、故国が内戦のさなかに歌と踊りかと批判された。でも、国とのきずなは文化だけだった」
 日曜の午後、同じ場所でラオス文化やラオス語の教室を開く在仏ラオス女性協会の会長、ポンサバン・パニさん(45)。 父親は旧ラオス軍の将校だった。75年5月、愛国戦線(パテト・ラオ)に追われた一家はビエンチャンからメコン川を渡ってタイに脱出した。 難民キャンプを経て渡仏、やはり国を捨てた夫のセカムさん(50)とパリで出会う。80年に結婚、新天地のローニュに越してきた。
 「全てを失った両親の世代も、ここで生まれた子供たちも、いまラオスへの思いは薄い。でも、私たちはいつか戻りたい」
 99年と02年、フランス人旅行者として故郷を訪れた。生家は軍事施設の敷地内に入っており、遠くから見えただけだった。

 「周りも移民」暴動起きず
 プラタナスの並木に「男女髪形屋」「永利商店」などの看板、朝の公園の太極拳、ローニュにはパリの郊外とアジアが同居する。
 市役所裏にある陳氏百貨商場(タン兄弟スーパー)の惣菜部門では、あめ色に焼き上がったアヒルが20羽ほどぶら下がっていた。 パリ13地区とローニュ周辺に計7店を構えるタン兄弟は、75年に仏に逃れた中国系ラオス人。難民が難民のために開いた伝説の店だ。
 「世界中の若い世代がゼロから築いた街。みんな根無し草だから、パリ郊外の移民街が抱える同化の問題はなかった」と言うのは、ミシェル・リカール市長。  80年の就任時、市民の半数は20歳未満だった。 
 この秋、10キロ先のクリシースボアで始まった若者たちの暴動が全仏に飛び火したが、ローニュでは目だった被害はなかった。
「多民族の中で育った子供たちは、ワル仲間をつくるにしても人権や民族ではなく地区単位になる。彼らに移民の自覚はなく、 中身はフランス人。黄色が白を包むバナナ世代です」と同市長。元難民たちの親子とも仏国籍で、仏語しか話さない「バナナ」も多い。
ただ、同じアジア系でも出身国ごとにコミュニティーがあって、大人の世界では互いの交流は薄い。
 結婚相手も同系かフランス人だ。ベトナム出身のニュエン・バン・ユイさん(53)はベトナム人2人と仏人女性の間に4人の子供をもうけた。
 サイゴン陥落時は旧ベトナムの学生代表。逮捕される79年まで反体制を貫いた。83年に出獄。それから27回目の脱出で南シナ海を漂流中、フランス船に拾われた。 83年に渡仏し、自由ベトナム協会を率いて祖国の民主化を訴える。
 「何よりパリの東という位置がいい。アジア文化で東は活力、健康、幸運の象徴。ここから、国を良い方向に動かしたい」
 ただ、22年前に小船で離れて以来、その国の領土は踏んでいない。

【キーワード】
 フランスとインドシナ諸国
 仏は19世紀後半、カンボジア、ベトナム、ラオスを相次いで植民地とした。
 第2次世界大戦後、ベトナム独立を宣言したホー・チ・ミン軍が仏軍と衝突。 7年半後のインドシナ戦争は仏の敗北に(戦死者約9万人)終わり、54年の停戦協定はベトナムの南北分断、カンボジアとラオスの独立を確認した。 新たに「民族の敵」となった米国も75年、ベトナムから撤退。 75年にはカンボジアで、元仏留学生であったポル・ポトが政権を奪い、ラオスでも左派の愛国戦線が支配権を確立した。
 新体制を逃れた難民は79〜81年には月1万人に達した。75〜95年に仏が受け入れた難民はカンボジア、ラオスが各3万4千人、ベトナムが2万7千人とされる。
(朝日 新聞)@


Viet

こんにちは
 薬物問題は世界中のほとんどの国の関心事であり、排除したい問題だ。ベトナムも例外ではなかった。 今は在日ベトナム人コミュニティ内でも蔓延している。さらに、もっと心配なことに日本社会にも広がっている。 
 きっとあなたは「この問題は私に関係ない。私達は健全な環境の中に生活している」と思うかもしれない。 私もそう望んでいる。しかし・・・ この問題について少しでも知識があれば、薬物中毒者の様子や麻薬にはまる前に早期に発見し、 子どもたちや家族に接近させないで予防できると思う。 また中毒者の心理状態も少しでも把握できるし、使いたい気持ちも分かるようになるだろう。
 今回ニュースレターに同封しているのはNGOベトナムin KOBEが作成した「薬物防止のパンフレット」である。 大人版はベトナム語で、子ども用は日本語で書いてある。配布後に相談が出来るように現在5回の勉強会を開催中。 複雑な問題なのでちゃんと対応できるまで時間がかかると思うが、どうぞご覧ください。 配布後、長田周辺のベトナム人の家を回って、詳しい説明や意見収集をする予定です。 また電話での質問や意見なども受けるのでどうぞご連絡ください。
 私たちがこのパンフレットを作ったたった一つの願いは「薬物使用者を一人でも増やさないで」ということです。
タン・ガA

ベトナムの母
 留学から帰国して8年たっても、私には心から敬愛する人がベトナムに二人いる。 一人は一年間ずっとベトナム語を教えてくれた先生。もう一人は養母。今回は養母の話をしたいと思う。
 サイゴンの大学に通いはじめて1ヶ月も経っていない頃だった。ちょうど雨季に入ったときで、 夕方の授業に向かう私はスコールに打たれびしょびしょになりながら、駐車場に自転車を止め、 学校のカフェに腰を下ろして雨ガッパを片付けたり、濡れた顔を拭いたりしていた。
 「お嬢さん!ちょっとお嬢さん!」
 ふと顔を上げると雨ガッパを着たおばちゃんがカフェの片隅で腰掛けながら、私に微笑みかけていた。 駐車場で自転車を預かる仕事をしているおばちゃんだった。 おばちゃんは、夜は自転車預かりの仕事をしているが、昼間は学校の医務室で働いている下級医師で、 娘も同じ学校の日本語学科で日本語を勉強しているから娘と友だちになってほしい、週末にうちに遊びにおいでと言った。 日本人ということでやたら親しげに話しかけてくる人、日本語を教えてくれと家に押しかけてくる学生など、 積極的に近づいてくるベトナム人に嫌気と警戒心を持ち始めていたころだったので、私は適当に話を合わせた。 「土曜日の朝、校門の前で待ってなさい。うちの娘がバイクで迎えにいくから」と言われたのに、私はその場所に現れなかった。 「ベトナム人も時間を守らないし、約束しても現れないことがあるじゃないか。 まして暗がりでよく顔も分からない人の家に行ってどうなるか分かったもんじゃない」と思ったからだ。
 翌週、学校に行くと、医務室から怒鳴り声が聞こえた。「お前!何でうちに来なかった!約束を破ったな!」この人は本当に怒っている。 約束を破ったらベトナム人も怒るんだ。必死に謝りながらそんなことを思っていた。
  そのときから私はおばちゃんとまっすぐに向き合うことにした。同時にこのときから、私とおばあちゃんの家族ぐるみの交流が始まった。 私は授業のない日以外はほぼ毎日、医務室でおばちゃんとおしゃべりするようになった。 おしゃべりだけでなく、お昼を食べたり、昼寝をしたりするようになった。 そんな中で、いろんなことをおばちゃんから教わった。ベトナム人の親子関係、学校でのマナー、風習、先生たちの噂話、時には罵り言葉まで(!)教えてくれた。 特に、両親の大切さ、敬う心をおばちゃんに巡り会って教えてもらったと思っている。
養母の家でテトのお祝い
  いつしか私はおばちゃんを養母として慕い、おばちゃんは私を養子と呼んでくれるようになった。 養母は実の母と同様に、私が誤った選択をしたとき、叱り飛ばした。叱られてもすぐには納得できなかったこともあるが、 今振り返ると、養母がストレートに叱ってくれたことは正しかったし、有難かったと思う。
 ベトナム人の情は深くて厚い。しかし、残念ながら複雑な問題が絡むとベトナム人の深くて厚い人情が信じられなくなることもあるのも現実だ。 私自身、ベトナム人との関係で不信感に陥りそうになったことが何回かある。 そんなことがあってもベトナム人に愛情を持っていられるのは、養母のような無償でまっすぐな愛情を与えてくれる人がいるからだと思う。 養母は、私にとってベトナム人の性格の愛すべきところを凝縮したような人だ。養母に感じている強い結びつきと信頼感がある限り、 私はこれからもベトナム語を使い、ベトナム人に愛情を持っていけると思っている。

 (25号から、当団体スタッフによるベトナム留学記を掲載しています。今回はNaさんの手記です。)
B

こんにちは
 昔から「神戸の気候は安定していて暖かい」とよく言われたが、まだ12月中旬なのに大変寒くなっています。 最近世界中の気候の激しい変動は地球温暖化のせいなのでしょうか。
 11月に入ってから、4チームによってベトナムの家庭へ薬物防止パンフレットを持って訪問活動しました。 薬物の恐ろしさを説明するためです。最初みなさんは「関係ない」と言われても、私たちは「薬物はすぐそばに存在している。 防止のため知って欲しい」と訴えると説明を聞いてくれるようになりました。 保護者の麻薬知識で子どもたちが避けることが出来るといいですね。
 11月26日「ベトナム難民の〔今〕30年にむけて」の集会が行われました。70人ぐらいの参加者で主にベトナム人を支援している組織か個人の方々です。 集会は特別講演や各地の活動、問題点などを取り上げました。そのなか、わたしはベトナム難民の子どもたちの学習問題は大変気になります。 なぜなら、先生方は一所懸命支援しても高校進学率は非常に低いです。日本人の子どもの進学率は97%あると言われているのに。
 この集会で気が付いたことは「あまり勉強できない子どもはベトナム語もできないようだ」。保護者の皆さんは「日本に住むからベトナム語は必要ない」と考えていませんか。 もしそうなら、考え直して欲しいです。なぜなら「ベトナム語の基礎がなければ日本語の理解の基礎もないのです」。
タン・ガC

留学日記@ 2000年 ハノイへ
Nha hát lón (ハノイオペラハウス)
 2000年2月末、私はベトナムに渡り、ハノイ(ベトナムの首都)での新しい生活を始めました。 2000年はハノイ遷都990年の記念の年で、1年を通じてハノイの街の至るところで遷都990年にまつわるお祭りや催しが開かれていました。 私はこの記念すべき年2000年にハノイに留学できた事を嬉しく思っています。 2000年のハノイは私に民族が刻んだ歴史を思い起こさせ、ハノイの歴史、そしてベトナム全土の歴史に触れる良い機会を与えてくれました。 ここで、この記事を読んでくださる方々になぜ私がベトナムに渡ったかをお話ししましょう。
 今から8年前、私は始めてベトナムを旅することになりました。当時のわたしは、ベトナムについて何一つ知らないと言ってもいい様な状態でした。 ベトナム人は何語ではなしているの?サイゴンからハノイまで飛行機でどれくらいかかるの? ベトナム人の主食って何?路上のカフェでコーヒーはいくらで飲めるの?など。 しかし、ベトナムを旅して回るうちにベトナムという国が日増しに近くなって行き、忘れがたい印象を与えていったのです。 日本に帰国してからの私はベトナム語を習い始めました。理由は、ある国のことを知りたいのなら、 その国の言葉を習得するのが一番手っ取り早いのではと感じたからです。 私の始めてのベトナム語のクラスは20人近くの生徒が学んでいました。他の学生も皆ベトナムという国とベトナムの人々に魅せられた人々です。 私の最初のベトナム語の先生はサイゴンからの留学生でした。先生はとても熱心にベトナム語を指導してくれたのですが、 ベトナム語は習得の難しい言語と言うことを理由に、年々生徒の数は減って行きました。 そんな中、何人かの学生がベトナムへの留学の道を選びました。私は子供の頃から通訳にあこがれていました。 語学の習得はその国へ行ってしまうのが一番の近道だと、沢山の人が言いますが、私はその言葉に完全に同意はできません。 なぜならば、努力なくしては結果を出すことが出来ないからです。その上海外で暮らすことは容易ではありません。 言葉を習得する以外にも、気候や文化、慣習、食事、交通に慣れることも必要とされるのです。 だから、友達に「今度は真紀さんがベトナムに留学する番だね」と言われるたびに、私は「行くつもりは無いよ」と答えていました。
 そんな私が2000年にベトナムに渡ることになったのは、ベトナムと私の間の宿縁が私の夢をかなえる最良の条件を与えてくれたのかもしれません。 留学を決意してからたくさんの人が私にこう尋ねました。「もうすぐベトナムに行くのね、心配じゃない?」しかし、不思議なことに私には何も心配することはありませんでした。 なぜならば、ベトナムに渡ることは自分で決めたことだし、海外で暮らすことの大変さも承知の決断であったからです。
Nhà thð Ión (ハノイ大聖堂)  
 ただ一つ心配だった事とは、勉強を終了して日本に帰国した時に満足な結果が出せなかったらどうしようという事だけでした。 この留学は私にとっての大きな賭けでした。 賭けというより、自分への投資と言った方が適切かも知れません。ベトナムでの生活資金と学費は、当然すべて自分で用意しました。 その自分に投資したお金を無駄にはしたくなかったし、また費やした時間を取り戻すためにも、 日本に帰ってすぐに仕事に就くだけのベトナム語も身に付けておきたいと考えていました。 だから、勉強の場をどこにするかを選ぶ時も、とても慎重になりました。当時の私は、サイゴンとハノイの違い も南弁と北弁の違いも全くわかっていませんでした。そんな私がなぜハノイを選んだのかと言うと、 サイゴンに比べハノイに留学する人が少ないという理由だけでした。サイゴンに留学すれば、知り合いは沢山いるし、 何か困ったことがあればすぐ救いの手を差し伸べてくれる。でも、それでは、他人任せの留学になるような気がしたのです。 ハノイでは知り合いが居ないので、自然と生活に慣れていけるのではと考えたのです。 (事実、ハノイに着いてからの3ヶ月間、私は日本人に会わなかったし、日本語も話すことが出来なかった)留学に必要な手続きは、 何とかメールのやり取りで行うことが出来ました。
 そして、2月27日の朝、私の乗った飛行機はベトナムへと飛び立ちました。(次号へ続く)
D


豊かさと貧しさ交錯


高級カジノホテルが並ぶ通りに毎朝、荷車の列ができる。国境を越えてタイ側の市場から野菜や魚を運び、わずかな収入を得るカンボジア人たち。 カンボジア・ポイペトで、仙波理撮影  
カンボジア−タイ 高級カジノホテル通り
 カジノの客に日傘をさす少女。国境の寺院で観光客を待つ少年。 カンボジアは隣国タイの経済力に依存する一方で、時として歴史を背景とした反感が噴き出す。国境はそんな両国関係を象徴的に映し出す。
 タイ東部の街アランヤプラテート。近郊には70年代後半から90年代初めまで、カンボジアの戦乱を逃れた難民のキャンプが多数あったが、その面影はもうない。 カンボジア人たちが毎日国境の検問所を越え、タイ側の市場にやってくる。
 早朝、市場に大型バスが次々に乗り付ける。バンコクから5時間。カンボジア側の街ポイペトにあるカジノを目指すタイ人たちだ。
 検問所まで約200メートル。バスを降りるタイ人らに20人ほどのカンボジア人の少女たちが駆け寄り、競うように日傘を差し掛ける。
 毎朝、10バーツ(1バーツ=約2.7円)を払って通行許可をもらい、検問所を越える。1日に10〜20人に傘を差し、それぞれ5〜10バーツ程度のチップをもらう。
 オンウィ(13)は3年前に始めた。父親は病気がち、母親は幼い妹の世話で手いっぱい。 「働いて欲しい」と両親に言われ、学校を辞めた。50バーツで買った花柄の傘はもうぼろぼろだ。
 将来の夢を尋ねた。少し考えてから、「カジノで働きたい。お金がいっぱいできらびやかだから」。
 検問所を出ると、100メートルほど先にカジノの入る高級ホテルが九つ立ち並ぶ。
 カジノのひとつ。カードやルーレット台など約50卓が並ぶ。ディーラーはタイ語ができるカンボジア人。タイバーツしか使えない。スロットマシンに入れるのは10バーツ硬貨。 株でもうけ、蓄えで暮らす男性客(41)は週に2回、バンコクから通う。バカラでいつも2万バーツほど負けるが、「楽しくて気分が晴れる」という。
 タイではカジノは禁止だが、カンボジアには規制がない。タイやインドネシアの企業が98年から建て始めた。 週末には1日5千人が訪れ、1ヶ月に落ちるカネは1億バーツ以上。小型機用飛行場を整備するカジノも。
 カンボジアには他の国境地帯にも複数のカジノがある。政府はカジノの税収を公にしていないが、関係者は「年間1千万ドル(約11億円)ほど」という。 利益の一部は政府や軍の高官に流れるとも言われる。

寺院領有争い 長い歴史
 「カジノ地区」を抜ければ、貧しい田舎の風景が広がる。 ホテルを見上げる集落では、住民の多くは荷車を引いてタイ側と1日2往復する運び屋だ。 荷車の借り賃を引いて手元に残るのは60バーツほど。「食べるだけで精一杯」と住民。
 カジノで遊ぶタイ人への視線は複雑だ。1人あたりの国民総所得が2千ドルを超えるタイに対してカンボジアは300ドルほど。
 15世紀、栄華を誇ったアンコール朝が、タイのアユタヤ朝に滅ぼされ、その後もたびたび領土を圧迫されてきた歴史も横たわる。
 カンボジアのシアヌーク前国王は3月、タイ、ラオス、ベトナムの3ヶ国あてに「領土が蚕食されている」と返還を求める手紙を出した。 翌月、各政党の代表を集め「国境問題最高評議会」の議長に就いた。
 バンコクの東約500キロの国境にある寺院遺跡プレアビヒアで、国境ゲートを兼ねる寺の入り口が閉鎖されたのはその直後だ。
 9世紀の創建。アンコールワットより長い歴史を刻むこの寺院をめぐり両国は長く争ってきた。第2次世界大戦中はタイが占拠し、58年には外国関係断絶に発展。 カンボジアが国際司法裁判所に訴え、62年に領有を認める裁定が下った。
 タイ側は、境界のはっきりしない場所にカンボジア側が建物を建てたことに抗議したら、 向こうが突然閉鎖したと主張。カンボジア側は「タイ側が一方的に閉め、寺への観光客を妨げた」と非難した。
 真相は不明だが、一時は兵士が向き合う事態になった。話し合いの末約1カ月後にゲートは再開された。
 寺院を訪ねる。カンボジア国旗がはためき、「クメールに生まれたことを誇りに思う」との看板が立つ。
 待ち受けるカンボジアの少年、少女が「ガイドをする」と言う。みんなタイ語を話す。年間約1万人の観光客のほとんどはタイ人。
 ナレー(16)は週末には1日に5人ほど案内し、時には500バーツを稼ぐ。「寺はカンボジアのものだけど、仕事がなくなるからゲートは閉鎖しないで」
 タイ側に戻り、国境警備兵らに話を聞く。以前はカンボジア兵と話し、時には一緒に食事もしたが、事件後は途絶えたという。
 詰め所近くにタイ国旗の掲揚台がある。カンボジアの領有が認められる前は寺院の中にあった。 タイは寺院をカオ・プラビーハンと別名で呼ぶ。警備兵は「掲揚台は寺の中にあるべきだ」と話した。(貝瀬秋彦)
 
 (朝日 新聞)E


感謝
 
 本年度協力者のご芳名(敬称略・順不同)

 こひつじ会、カトリック志家教会、マリアの宣教者東京第一修道院、山内春治、 浅野理枝、お告げの姉妹会、柳沼秀政、青木和子、村越みどり、石館悦子、 今泉まゆみ、折田千菊、福音の光修道会、名取はにわ、都立定時制中学校教諭3名、 けがれなき聖母の騎士フランシスコ修道女会、佐藤夏海、レデンプリスチン茅野修道院、天使の聖母宣教修道女会、淳心会、レデンプトリスチン長崎修道院、 トラピスチン那須の聖母修道院、聖ヨハネ病院修道会、水上洋一郎、トラピスチン 伊万里の聖母修道院、大阪聖ヨゼフ会、匿名希望の皆様、その他事務局にお手伝いくださる方々。

 グエン・タン・ビン君が3月15日サレジオ高等専門学校を卒業して社会人になります。「こひつじ会」の皆様には特に御礼申しあげます。


資料
@朝日新聞 2005年 12月27日
AB「NGOヴィエトニュース27」(NGOベトナム in KOBE発行)2005年11月号
CD「NGOヴィエトニュース28」(NGOベトナム in KOBE発行)2006年1月号
E朝日新聞 2005年 7月26日



あとがき

 日本では、三月になると年度末とか学年度末ということで、ある一つの区切りをつける時期として考える習慣があります。 入学、卒業、就職などもこの時期に多く経験されることで、生活が変化することによって複雑な思いや緊張をおこさせます。 とくに転勤や留学するために海外に行く場合は、生活習慣や言葉の問題に対して積極的な対処が必要でしょう。 こうして私たちは、自分の経験の中でけじめを付けながら、「時」を大切にすることによって、日常と特別な出来事との位置付けを確認することができるような気がします。 そして一歩ずつ未知の世界へ向かっています。留学という目的で、また自然災害などで助けを求めている人々への支援のために初めて足を踏み入れる社会では、 何が一番大切なのかを人間関係から学ぶこともしばしばです。ベトナムから日本へ来られた皆さんも、 他の地域へ行かれた方々も、さまざまな苦労を通して言葉の難しさの奥に素朴な人間そのものをより鮮明に見いだされたのではないかと思います。
 寒い冬の道をしばらく歩いて暖かい建物に入った時にほっと一息、幸せな気分になれるように、 人間関係についても同様、暖かく包み込むように迎え入れてくれる人と出会った時、平和な気持ちになることができます。 言葉も理屈も大事ですが、口先だけで終わってしまうならば、心と心の触れ合いは望めないでしょう。 人間味豊かな心情を素直に表現できれば、そしてお互いに有りのままを受け入れる包容力があれば、 小さな共同体から大きな社会にいたるまで、平和の絆でむすばれるようになると思います。
 最後に、昨年の平和旬間に、教会(東京教区)が公にした「平和の祈り」の一部を引用して皆さんと心を合わせて祈るときの一助にしたいと思います。 
わたしたちが/ 国や民族の間にある壁を乗り越え/ すべての人を同じ神の子として大切にし/ 相互理解を深め/ 愛と信頼に満ちた関係を/  築いていくことができますように。
どうかわたしたちを平和のために働く者としてください。
(中里 昭子)

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