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小さなダオ花 21

多文化のアイデンティティ
難民ラップ 神戸の2世両親の脱出を詞に
ヴー君の近況
連綿ジャーナリスト魂 ベトナムの戦場からC
連綿綿ジャーナリスト魂 ベトナムの戦場からD
まぶしい笑顔
あとがき



多文化のアイデンティティ
私はベトナム人なのか、 日本人なのか

 1975年にサイゴンが陥落、船で脱出、日本に定住したベトナム難民が11,000人いる。 そのほとんどは神奈川、埼玉、兵庫などを中心に全国各地で生活している。 日本で生まれた子どもたちはどんな生活を送っているのだろうか。 「日本カトリック難民移住委員会」が2002年に実施した「外国籍の未就学児に関するアンケート調査」では、 中学を卒業した15歳以上になると、学校に行かない生徒が急増することがわかった。 「言葉がわからない」「勉強が難しくなった」「いじめられた」「友だちがない」といった理由が多い。差別や偏見などから、生きる希望をなくしている子もいる。 そんなドロップアウトした難民の子どもたちを人権の視点から把握するのは実に難しい。取材にもなかなか応じてくれないのが実情である。
 今回、取材できたのは学校の成績もよく、友だちもいて順調に成長している高校3年生のグエン・ティ・ハウさん(18)である。 しかし、彼女も思春期には、自分が日本人なのかベトナム人なのかアイデンティティが揺れ動き、親に反抗したこともあった。 多文化に生きるベトナム難民の子どもの生きる姿をたどることにしよう。

 3児を抱えてベトナム脱出
 東北本線宇都宮駅から烏山線に乗り換えて1時間、終点の烏山駅から歩いて10分の所にカトリック烏山教会がある。 日本家屋を改造した教会の聖堂は8畳2間をぶち抜いた畳の部屋。現れたグエンさんはジーパンをはき、ボーイッシュな雰囲気を漂わせる高校生だった。
 「すぐ上の姉と私は日本に来てから生まれたのですが、両親がベトナムから脱出する時のことや、ベトナムのことは、思い出として親から聞かされていました。 ベトナムが私の母国だと聞かされていたけれど興味もなく、遠い国という感じを持っていました」
 両親が姉3人を連れ、小舟でベトナムを脱出したのは今から22年前のことだ。 父親は当時のベトナム新体制を嫌い、また食糧難で貧しく、子どもたちの将来を考え、脱出を決意した。1回目は失敗。2年後に再び決行。 途中、多くの外国船に行き交ったが、かかわりを恐れてか通り過ぎていった。日本船もいったんは通り過ぎたものの、戻ってきて全員救助された。 長崎の大村収容所を経て、全員フィリピンで2年間の生活の後、栃木県・烏山の難民キャンプに。両親は工場で働き、5人姉妹は日本の学校に通った。
 「幼稚園のころまでは、家でベトナム語で話をしていましたが、4人の姉が日本語を使っていたので、自然に日本語を覚えました。 そして私は外国人という意識を持たず、学校でも日本語に不自由しませんでした。 しかし小学4、5年生ころから学校で配られるプリントを読めない両親を『なぜ読めないの?』と責めたり、少し反抗的になってきました。 親との会話でも、何か聞かれてもベトナム語でうまくこたえられない私にいらだったりしました」

 「この子は日本人」と言う母に傷つく
 自分がベトナム人であることを意識し始め、外国人であることを重荷に思い、劣等感を感じたのは小学6年、思春期に入るころだった。 「中学生になっても、両親のことは頭で理解したつもりでしたが、今思うと、心から理解できていなかったと思います。 中学3年の時、家族でベトナムを訪れたんです。日本に親類はなく、ベトナムで初めて親類に会い、『ここが私の故郷なのだ』と実感じました。 と同時に私がベトナム人であることが嫌ではなくなったんです」
 日本では日本人とまちがわれることが多かった。ベトナムでは予想通り、ベトナム人ではなく、外国から来た観光客と思われた。そんな時のことだ。ショックな出来事が起きた。
  「海岸に遊びに行って、押し売りにまとわりつかれている時、母は私をかばって『この子は日本人です』と言ったんです。 その言葉にわたしは深く傷つきました。あこがれていた祖国での出来事。はたして私は何人なのという疑問と、言葉で言えない寂しさ。 そういう私の気持ちを十分にベトナム語で伝えられないことに気付き、ベトナム語を勉強しようと思っていた矢先のことだったんです。 ベトナム人になろうとしていた私を弁護しないで、日本人だと言われたときのショック。 その母の言葉、そういう母には耐えられず、だれも私のことは分かってくれないと泣けてきました。 私のルーツや、多分ないであろう国籍のことを考え、私はどこにも属さないという不安があったんです。 故郷というと、国単位で人は見がちですが、私はそこにいる友だち、親類、思い出がふるさとになるのではないかと今は思っています」

 私を変えた6か月のベトナム生活
 それから3年間。彼女は自分のアイデンティティがどこにあるのかを思いめぐらし悩み、苦しんだ。 その思いを高校1年の時、「国際理解英語コンテスト栃木県大会」で英語で訴えた。優秀賞を受賞した。
 高校2年の時、休学してベトナムに行くことにした。 サイゴンから車で8時間ほど離れた観光地にある叔父の家に泊まり、家庭教師からベトナム語を学び、夜は、貧しい子どもたちのための夜間小学校に通った。 そこで小学校程度の内容の授業をうけたが、1ヶ月後、留学証明を取るため定時制高校に移った。そこには16歳から40歳までの労働者が熱心に学んでいた。
 「私の心の問題を軽くしたかったんです。学校に通う生徒たちの家庭は貧しく、路上で生活したり、観光客からお金をもらったり、 7歳でベビーシッターをしている子もいました。彼らとはすぐに仲良しになりました。 でも学校では友だちとして扱ってくれていたのに、学校を離れ、道路で会った時、お金をもらおうとして出した手を、 相手が私だと気付くとあわててひっこめたこともありました。その時、その7歳の子が私をどう思っているか悩んだりしました。 定時制高校では3、40歳の人たちが多く、お坊さんだったり、みんな働いていて、その人たちと私の接点はありませんでした」
 6ヶ月間、ベトナムで生活し、ベトナム語で話したり、字もよめるようになった。そして自分は恵まれていると実感した。
 2つの国が私の心に
 「両親が命がけで日本にきてくれていなかったら、私も彼らと同じように働いていたのではないか、と思ったんです。 両親が故国を捨て、日本に来てくれたおかげで恵まれている今がある。私には何かしなければならないことがある、という使命感を持つようになったんです」
 日本の中学、高校の友人たちは、国籍には無関心だった。難民が存在することさえ知らず、無神経な言葉を使う生徒もいた。
 「私の国籍はどうなっているのか分かりません。しかし、私の心の中にはベトナムと日本という2つの国が存在しているんです。 このことを私のなかで受け入れていて、それがハンディとしてではなく、私にできることは何かという意識を持たせてくれている感じです。 私の心のなかには、国際的な意識が強いのです」
 2004年3月に高校を卒業。すぐ上の四女の姉が通う宇都宮大学国際学部に推薦入学で進学することが決まった。
 「最近のベトナムの急速な発展には疑問を感じています。ベトナムには家族とのつながりがあり、子は親を心から尊敬し、子は親を助けようとする気持ちがあります。 でも日本人の友人を見ていて、お金や物質の豊かさは人を変えると思います。 ベトナムはまだ日本のようにはなっていませんが、日本と違った良い発展の仕方があるのではないでしょうか。 日本のようにベトナムが変わっていくのは悲しいです」
 現在、父親は宇都宮近くの自動車工場で、また母親は化粧品をつくる工場でそれぞれ働いている。 ベトナムで生まれた3人の姉のうち長女は結婚、二女は働き、三女は大学で学んでいる。    
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難民ラップ 神戸の2世両親の脱出を詞に

  神戸市生まれのベトナム難民2世青年が、両親の祖国脱出談をリズムに刻み込んだ「ラップ」にして再現した。 ライブハウスや国際交流イベントなどで歌っている。ベトナム難民初上陸(75年)から今年で30年。 市民団体が来月、神戸市で開くシンボジウム「ベトナム難民の今、30年をむかえて」でも披露する。
 同市長田区のブハビェトニャト・ホアイナムさん(18)。両親は81年、同じ小舟でベトナムを脱出し、日本に上陸後、結婚した。ホアイナムさんは5人兄弟の3番目。 中学時代にラップのカッコよさにあこがれた。約2年前、高校を中退し、アルバイトをしながら月に数回、ライブハウスなどで歌い始めた。
 ラップは言葉の力強さが命。「オレは何を歌えるのか」。思い悩んでいた昨冬、母(44)に話を聞いてみた。「元難民」から詳しい話を聞くのは初めてだった。 「粗末な舟に47人がひしめき、命がけで海へ。通りがかりの貨物船に救助され・・・・・・」。母の言葉は衝撃的だった。メモを片手に何度も聞き返した。
 以前、ベトナムにいる祖父に会った時のことも思い出した。足の指が1本なかった。ベトナム戦争に従軍し、銃撃を受けたからだ。 「おじいちゃんも両親も『生き残った』。そして自分がいる。これは奇跡」そんな思いがわき上がり、歌詞は一気に出来上がった。
 ホアイナムさんは、物心ついたころからベトナム人であることが嫌だった。小学校で呼ばれたカタナカ名に懲りて、中学校では「翔」と名乗った。 だが、この曲を作って「ベトナム人で良かったと思えるようになった」と話す。 名前もかつての「ナム」に戻した。「自分にしか歌えないこの曲を、ベトナム語でも歌って、ベトナムの若者にも聴いてもらう」と、ベトナム語は、母から教わっている。
 シンポは11月26日午後1時15分から、神戸市中央区三宮町2のセンタープラザ西館会議室で。【村元展也】
< 歌詞 >
 オレの先祖ベトナムからきた難民
 小さな小舟に男、女、子ども47人
 周りを見渡せば同じような舟が多数数々
 (たすう、かずかず)
 合図もなしにあわてて舟を出す
 捕まれば即、即死
 沈没率120% 時間がたてば人生パー
 パパとママの舟は 逃げ出したその3日後
 横に通った黒船 「服を脱げ手を振れ」
 止まった大きな貨物船
 生き残った! すごくない?
 着いたここは長崎
 その後、四国、姫路、神戸
 オレは長田で生まれた
 感謝する 戦争で生き残ったじいちゃん
 忘れるな オレはこの国に生き残った男だ 
 (抜粋)   
(毎日 新聞)A


ヴー君の近況

 ヴーです。お元気ですか?
 お陰様で私はとても元気です。卒業研究で充実した四年次の前期が終わり、あっという間に大学生生活の最後の学期に入りました。 長い間、ずっと暖かく応援していただき、いつも感謝の気持ちでいっぱいです。 少しでも期待に答えられるように、毎日一心不乱、学業の方頑張っています。卒業まで本当に僅かです。
 大学卒業後、身に付けた専門知識を活かして、日本に残って就職したいと考えています。また、機械分野と関係のある企業で働きたいと思っています。 今年の四月から、就職活動を本格的に始め、三社に応募しました。その中、二社の内定を貰いました。 色々悩んだ上で、株式会社ミツバという自動車部品メーカーの会社に決めましたことを大変嬉しくお知らせいたします。 入社後、生活や収入状況を詳しく把握した上で、今までご援助いただきました学費返済計画を立てたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。
明治大学理工学部 DANG ANH VU


連綿ジャーナリスト魂
ニッポン 人■脈■記 ベトナムの戦場から C

写される側に思い寄せ

 85年春。東京・新宿の病院を、記録作家上野英信と、写真家で映画監督の本橋成一(66)が連れだって訪ねた。 病院ではカメラマン岡村昭彦が危篤に陥っていた。本橋は迷った末にやってきた。わだかまりがあったからだ。
 「岡村さんは僕の師。ただし反面教師だった」
 本橋は65年冬、上野を介して岡村と出会った。場所は九州・筑豊の炭鉱地帯である。 石炭から石油への転換期、高度成長から取り残された筑豊は貧困の代名詞のように語られていた。 上野は炭鉱長屋に住み込み、炭鉱労働者の実態を「追われゆく抗夫たち」(岩波新書)などで伝えた。 写真学校にいた本橋は、筑豊を卒業制作のテーマにしようと上野を訪ねた。

3作目の映画「アンタもワシも百廿(ひゃくはたち)まで」撮影中の本橋成一さん=東京浅草で
上野英信さん(1923-87)
 岡村もそれより先、総評系の週刊誌記者時代から取材で上野のところへ出入りしていた。 戦場カメラマンとしてベトナムで名を上げ、帰国した岡村は、報道写真家志望の本橋にとって雲の上の存在だった。 圧倒され、気がつくと助手として働いていた。
 だが、66年に連続して起きた航空機事故などを助手として取材するうち、ピュリツァー賞にこだわり功名心が先んじる岡村への疑問は膨らんでいく。 東京生まれの本橋は、5歳で遭遇した空襲の夜を思い出した。 母の手に引かれ、防空ずきんをかぶって火の海から逃げ回る自分。その母と子を撮って名を上げる写真家とは、写される側にとって一体何なのだろう?
 「写真を見ながら、撮った者と撮られた者が語り合える写真を撮りたい」。報道写真への熱は冷めていった。3年余で岡村のもとを離れた。
 「炭鉱(ヤマ)」「サーカスの時間」「上野駅の幕間」「魚河岸ひとの町」―。その後の本橋の写真集は、「人に近づく」ことを意識してきた歩みを物語る。
 90年代にはチェルノブイリ原発事故の被災地に通いつめた。「身上つぶすぞ」と忠告されつつ、 監督としてドキュメンタリー映画「ナージャの村」と「アレクセイと泉」を完成させた。
 2作とも、放射能に汚染された土地を実り豊かに、住む人々を素朴に描く。「美しすぎる」との批判もある。ドイツの映画祭では「原発促進に使われる」とまで言われた。 だが考えは変らない。「僕が描いたのは、命。悲惨な写実を積み重ねるより、人間の想像力をかきたてると信じている」
 本橋と上野が病院を見舞った数時間後、85年3月24日に岡村は息を引き取る。 翌25日、岡村に触発された青年が、その日を知らないまま、タイからビルマ(ミャンマー)北部の山間部へと国境を越えた。 徒歩で、反政府ゲリラに同行して。ジャーナリスト吉田敏浩(47)。 最近、「ルポ戦争協力拒否」(岩波新書)を著し、「戦争ができる国」に変容する日本に警鐘を鳴らす。
 岡村とは死の3年前、NHKの番組「若い広場」の収録で会った。若手の報道写真家を集めた座談会に先輩格で出演し、数々の言葉で吉田を射すくめた。
吉田敏浩さん
 「歴史のジャッジに堪えうる証拠力の強い写真が、報道写真の基本である」
 「世界のどこへ行っても、相手が拒否できない笑顔を自分が持っているかどうかで、生き延びられるかどうかまで決まる」
 収録後はジョッキ片手に談論風発。1日で傾倒した。だが、教え請うには早すぎる。 自分で納得いく仕事をしてから会いに行こう。心に決めてビルマ山中に分け入った。 3年半、ゲリラと生活をともにした吉田は、帰国して岡村の死を知り言葉を失う。
 延べ5千キロを歩き、マラリアに十数回かかり、「岡村ならどう見るか」を意識した取材。 成果は95年にルポ「森の回廊」(日本放送出版協会)となった。 地図の空白部とされてきた少数民族地域の暮らしを外部に伝えた。
(朝日 新聞)B


連綿ジャーナリスト魂
ニッポン 人■脈■記 ベトナムの戦場から D

切り売りした「命のネガ」 処刑傍観 自分を嫌悪
開高健さん(1930-89)九死に一生を得た従軍取材で=秋元啓一さん撮影
 早朝からホーチミン市(旧サイゴン)はお祭り気分だった。今年4月30日、ベトナム戦争終結から30周年を祝う式典会場に、報道写真家石川文洋(67)の姿があった。
 石川は、65年から4年間にわたり戦火のベトナムを撮影した。この日もカメラマンとして会場を取材。7月に新著「ベトナム戦争と平和」(岩波新書)を出す。 惨禍から立ち直った現在の繁栄や、なお消えない戦争の後遺症を、日本の若い世代に伝えたい。
 若き日、石川は働きながら世界一周を企て、香港のニュース映画会社でカメラを回していた。 64年夏、米国戦争介入の口実となるトンキン湾事件が起きると、短期間ベトナムに派遣された。 「何が起きているかをもっと見たくなった」。会社を辞め、フリーとしてベトナムへ向かった。
 従軍取材で、写真を撮ろうと軍用機を降りた直後、その車が地雷で吹き飛んだこともあった。 命がけで写したネガを、通信社の支局を回って売った。多くのフリーは通信社などと契約していたが、石川は契約がなかった。 迫力のあるコマほど売れて、手元に残らない。相場は1枚15ドル(当時1ドル=360円)。「報道というよりネガの切り売りでした」
 日本人のこうしたカメラマンはほかにはカンボジアで死んだ一ノ瀬泰造ぐらい。それでも危険を冒して前線に居続けた。 沖縄生まれの石川は、「ありったけの地獄を集めた(米軍報告)」と形容された沖縄戦の悲劇を、ベトナム民衆に重ね合わせていた。

 石川よりやや早く、朝日新聞特派員として作家開高健がサイゴン入りした。開高の妻で詩人の牧羊子は、父親が沖縄出身。それを縁に、石川と打ち解けた。
 開高と組んだ朝日新聞カメラメン秋元啓一は、石川の誠実な人柄にほれる。帰国すると石川は、秋元の働きかけで朝日新聞に入った。 千ページ近い「戦場カメラマン」(朝日文庫)を著す。 「カメラだけを持って銃は持たなかった一人の歩兵の眼と心の記録である」。開高の推薦文が裏表紙を飾る。
 秋元は65年、開高とともに南ベトナム政府軍に従軍し、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)の猛攻撃に遭遇した。200人中、生還したのは2人を含めてたった17人。 九死に一生の経験があるだけに、前線で危険に身をさらすことの多いフリーにこまやかな心遣いをした。
 75年、報道写真家で目白大学短期大学部教授の楠山忠之(65)は、陥落寸前のサイゴンへ入る決意をし、秋元を職場に訪ねた。 激しい市街戦が予想されていた。「何か撮れたら送ってくれ。といっても会社はフリーには取材費を出さん」。 秋元は申し訳なさそうに言い、「少ないけどおれのポケットマネー」と封筒を手渡した。10万円入っていた。楠山は陥落まで粘り、貴重な映像を残す。

日野啓三さん(1929-2002)
 石川がベトナム入りした65年1月は、米国の本格介入で戦火が拡大する前夜だった。のちに作家に転じる読売新聞特派員日野啓三も現地へ赴任したばかり。 29日未明、日野は開高とともに、解放戦線の協力容疑者の公開処刑を取材する。中心街の広場で、少年の面影を残す若者が射殺された。
 2人は至近距離から目撃した。開高は、処刑に「絶対的悪」を感じ、安全な第三者としてただ見ていた自分を激しく嫌悪する。
 日野は、処刑があまりに儀式的に、人間的要素を排して行われたことに衝撃を受けた。日野のつぶやきを、開高は聞く。
 「おれは、もう、日本にかえりたいよ。小さな片隅の平和だけをバカみたいに大事にしたいなあ。もういいよ。もうたくさんだ」。 自己が崩壊するような感覚が、帰国後、日野を小説に導く。
 その2日後、もう一人のカメラマンが降り立った。後にピュリツァー賞を受けるUPI通信の沢田教一である。
(朝日 新聞)C


まぶしい笑顔
沢木 耕太郎

 最近、路上で子供が肩を組んであるいているところを見たことがあるだろうか。少なくとも私はない。肩を組んで歩くのは男の子同士と相場は決まっているが、 どうやら、男の子たちがそうした肉体的な接触を好まなくなっているらしいのだ。
 もしかしたら、その傾向は最近始まったものではなく、私たちの子供の頃からすでにあったのかもしれないとも思う。正直に言えば、私もそうした肉体的な接触は苦手だからだ。 放課後、原っぱで野球をしたあとで近所の友達と一緒に家路につくようなときも、肩を組んで歩くなどということはなかった。
 だが、ヴェトナムのホーチミンで肩を組んで歩いている二人組の子とすれ違ったとき、ふと、私もあんなふうに歩いてみたかったなと思ったものだった。 彼らの底抜けに明るい笑顔が、やけにまぶしく見えたからだ。
D



資料
@ 「ひびき」(カリタス・ジャパン発行)2004年号
A 毎日新聞 2005年10月31日
B 朝日新聞 2005年 6月16日
C 朝日新聞 2005年 6月17日
D 「VISA」(VISA社発行)2005年12月号


あとがき

 明けましておめでとうございます。本年も皆様の上に、確かな希望と喜びが溢れますように。
 『不確実性の時代』という本が出されて30年近くになります(J.K.ガルブレイス著、TBSブリタニカ、1978。原著は1977)。 私たちの社会は、予測・予知の技術を求め、それを高度に発達させてきましたが、にもかかわらず、様々な「不確実さ」に翻弄され続けているとも思えてなりません。
 経済は、依然として低調です。一方では、日経平均株価が5年ぶりに1万5000円台の大台を回復したとのニュースもあります。 しかし他方では、「1株61万円」を「61万株1円」と誤入力したという一証券会社員のミスにより、 市場は大混乱、平均株価も急落したとのこと(2005年12月)。私たちの依って立つ社会の危うさ、せちがらさに直面する思いです。
 自然も、時として牙を剥きます。最近では、国内・海外ともに地震の被害の大きさに驚愕させられます。 阪神淡路大震災を機に発足した政府の地震調査研究推進本部は、効果的な防災を意図し、 98にものぼる活断層帯等への調査研究を行い、その成果を「全国を概観した地震動予測地図」へとまとめ上げました(2005年3月) 。しかし、新潟の中越地震も福岡の西方沖地震も、この予測地図では「30年以内に震度6弱以上に見舞われる確率は3%未満」とされた地域において起こったものです。 のちに新潟・福岡を含む12の断層帯が調査研究対象として追加されましたが、どうも素人目には、安心というよりは不安の材料に感じられてしまいます。
 こうした「不確実さ」の中、せめて「備えあれば、憂いなし」と考えて行う庶民の日々の努力は、 近ごろ発覚したマンション等の耐震強度偽装事件(2005年11月〜)において全く裏切られた思いがします。 高度な計算技術を操る一級建築士らの不正と、関係者のチェックの不在。長期のローンを組み、節約を肝に銘じ、 ようやく家族の安全な居場所を手に入れたと感じていた人びとにとって、その幸せが、まさに「足下から崩れ去る」ものでしかなかったとは…。 政府の支援策が示されたとは言え、具体的金額等の細部は未定で、不安の解消にはほど遠いのが実情です。
 私たちは、いったい何を信じて、生きていくことができるというのだろう? そんな、唐突なほど根元的な問いさえ抱いてしまう昨今です。 ただ、改めて思うことは、私たちが及ばずながらも支援している難民とは、 こうした世界経済における、また自然環境における「不確実さ」に嫌というほどさらされてきた人びとだということです。 そして、日々の個人的な努力にもかかわらず、体制によって裏切られ、ついには「支援」してくれるはずの「政府」さえ持てなくなった人びとだということです。 その喪失がいかに大きなものであるか、多少は想像できるようになったことを収穫と考え、 少しでも「確実」な希望と喜びを目指し、歩みを続けていければと思います。 
(山本 直美)

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