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小さなダオ花 20

ベトナムへの思い「型染」で
What I am thinking most about
連綿ジャーナリスト魂A
連綿ジャーナリスト魂B
不安と希望
こんにちは
留学経験が私を変えた
ベトナムに物流拠点
あとがき



ベトナムへの思い 型染めで
古都フエでの作品展
染色作家 鳥羽さん 丸の内でプレ展示会

鳥羽美花さんの後ろは、今年政策した「クアンチ教会」。教会の壁面には、今も銃弾が残る=愛知県清須市で
 愛知県清須市の染色家、鳥羽美花さん(44)が今月末、ベトナムの古都フエの宮殿で作品展を開く。 ベトナム戦争の傷跡とドイモイ(刷新)政策のもとで進む経済成長をこの11年見つめ、日本古来の型染めで描いてきた。 地方に暮らす庶民に見て欲しいと、初めて地方都市で開催する。これに先立って4日から、千代田区丸の内でプレ展示が始まった。
 鳥羽さんは94年、観光でホーチミンを初めて訪問。植民地時代のフランス風建築に、庶民の住むバラックが重なり合う「歴史の生き証人のような風景」に魅せられた。 以来度々訪れ、街をモチーフに製作している。作品に人物は描かないが、出会いが作品に結びつくことは多い。
 7、8年前、機中で隣り合わせた男性は元難民だった。男性は80年代に中部の港町ダナンを小さなボートで脱出し、タンカーに助けられて日本に来た。 大学卒業後メーカーに就職し、日本に定住した。この時は、祖国に残る母に十数年ぶりに合うために帰郷だといった。 ダナンで雇ったガイドも元難民だった。鳥羽さんは2人に会った後、漁村を描いた「ダナンからの出発」を染めた。
 ホーチミンと首都ハノイで01、03年に作品展を開き、「見慣れた風景の美しさ、大事さに気づかされた」と評価された。
 今回は、地方開催にこだわった。会場をさがして弾痕が残る地方の学校や教会を回るうち、ダナンに近いフエと縁ができた。 戦中の激しい市街戦で破壊され、まだ修復途上の王朝阮(グエン)朝の王宮跡が会場になる。 展示は今月30日から8日間。期間中、地元の人には王宮入場料が無料にされる。
 「出会った人々の思いを風景に込めてきた。描かせてくれた地元の人々に見て欲しい」
 都内でのプレ展は、パレスホテル内ギャラリーで10日まで。無料。
(朝日 新聞)@


What I am thinking most about

 私の家族が経験してきたことは、私の同級生たちの家族の経験とはかなり異なっている。私の両親は「ボートピープル」とか難民と呼ばれる人たちだった。 二人はエンジンさえない、シンプルな船で、20年前ベトナムを離れた。人々は船の上で座ったまま寝ていた。横になるスペースがなかったからだ。 両親は最初に香港に到着し、数年間難民キャンプで生活したのち、日本にやってきた。忘れられない、恐ろしい旅だったと両親は私に話してくれた。 ベトナム人ポートピープルの多くは海の上で飢えのために亡くなったり、海賊に殺されたりしたので、たくさんの人たちはまだ行方不明になっている。 
 日本に着いたとき、日本政府が両親を収容施設に一時的に入れた。彼らはそこで日本語を勉強したり、簡単な仕事をしたりした。 私の両親は、まさにそこで知り合ったのだ。彼らは日本で結婚し、子供をもうけた。私は16年前に神戸で生まれた。 もちろん私は日本の普通の幼稚園、公立の小中学校に通った。 そのため、私の思考はかなり日本的で、故郷も完全に日本なのである。私はこの国や日本人の友達が大好きだ。
 しかし、私は日本政府に対してとても失望している。私は、日本政府が難民たちを差別しているように思う。 私の両親は日本に住んですでに20年にもなるのに、未だに日本国籍や参政権を取得できないでいる。 それに政府は、自治体がお金の代わりとして日本人の市民に配った「地域振興券」を、私達には与えてくれなかった。 私達はきちんと税金を納めていたにも関わらず、日本政府は私達が部外者だからと言ってそれを与えなかったのだ。
 私の両親は、パスポートの代わりに再入国許可証を持っていなければならない。それはほとんど役に立たない。 どこへ行くにも私達はビザを取得しなければならないし、税関を通るときはいつも不愉快な思いをする。 税関の人がいつも「これは何だ?君のパスポートはどこ?」と言うからだ。私は、カナダに住む従兄弟をとても羨ましく思う。 彼らの両親は難民であったが、カナダのパスポートを持っているし、難民差別も受けたことがないし、税関を通過する時に不愉快な思いもしないからだ。
 カナダだけでなく、オーストラリア、フランス、合衆国も大量の難民を受け入れた。 これらの国々は全て、ベトナムのボートピープルに新しい国籍と参政権を与えたが、残念なことに、日本だけは難民に日本国民になることを許可していない。 日本人が世界でも冷たい人々として知られているのは、そのような理由のためだと私は思う。
 その他に、私が日本でどのような差別を受けているかという例として、日本の会社が私をアルバイトとして雇いたがらないことだ。 彼らは私を外国人だと思っているからである。このようなことで私はとても悲しい思いをしている。 たとえ私達が日本語を上手く話し、書けたとしても、彼らは日本人でない働き手を欲しがらないのである。 ある日、私は求人募集をしているレストランに電話し、そこで働きたいと話したら、 名前を聞かれたので、「私の名前はレ・メリーです。」と言うと、彼らは「日本人ですか?」と言った。 私は、自分の両親はベトナム人ですが、私は日本生まれで、日本の普通の公立学校にも通っていましたと説明したが、 彼らは「あいにくですが、当店では外国人は雇用できないんです。」と言った。 同様の理由で会社が私を雇わなかったのはその時だけではない。とても不公平だし、がっかりすることだ。
 私は自分がベトナム人であるとは全く思わないし、自分の故郷だと言えるのはたった一つ、それは日本だと言える。 しかし、日本政府は未だに私達を部外者だと言う。日本政府は難民に対する考え方を改めるべきだと思う。 私は、日本政府が分け隔てするのをやめて欲しいし、難民問題についてもう一度考え直してもらいたいと思っている。
レ・メリー


連綿ジャーナリスト魂
ニッポン 人■脈■記 ベトナムの戦場から A

フィルム詰め方も知らず

 ベトナム戦争報道で異彩を放ったサンケイ新聞の近藤紘一は不思議な人物だ。一面識もない人たちに忘れがたい心象を残した。
 「同級生の近藤です」85年の冬、作家沢木耕太郎(57)は電話を受けた。 「同級生」と名乗ったのは、沢木の「テロルの決算」(文芸春秋)と同じ79年に近藤の「サイゴンから来た妻と娘」(同)が大宅壮一ノンフィクション賞を受けたからだ。 近藤は仕事で授賞式には出られなかった。
 最初で最後となったこのときの電話で「近く合いましょう」と約束したきり、近藤は翌86年にがんで世を去る。45歳。
沢木耕太郎さん
 近藤の著作を読むうち、沢木の中で陥落前のサイゴンが不思議な光を放ち始める。1930年代のベルリン。 昭和10年代の上海、大戦前の2都市と並ぶ「訪ねたかった夢の都市」になっていった。近藤への敬愛が募る。 沢木は手ずから、一周忌に大部の遺作集「目撃者」(文芸春秋)を編集し、近藤の並ならぬ仕事を世に伝えた。 目下、近藤とベトナムを描く長編ノンフィクションを構想中だ。
 沢木が思いを寄せる陥落前のサイゴン。街は戦場取材の拠点となり、世界中からジャーナリストが集まった。 高名なベテランも一発狙いのフリーランスもいた。米軍は実績の乏しいフリーにも記者証を出した。佐官待遇で従軍し、村や民衆も取材できた。
 「戦争は将軍と新聞屋にチャンスを与える」米国に伝わる言葉どおり、多くのジャーナリストがベトナムで名を上げた。 それを鮮烈に体験した日本人がいた。日本人として最も早い時期にベトナムに入った岡村昭彦。
 海軍将校の長男に生まれ、学習院に入るが中等科時代に転校する。教練のとき菊の紋章入りの木銃をたたき折ったため、とされる。 曲折を経て、作家石川達三が編集長だった総評の週刊誌「新週刊」に。廃刊になると通信社と契約してベトナム入りをした。
岡村照彦さん(1929-85)
 写真は素人だった。現地に着いたとき、フィルムの詰め方を支局長に聞いた、との逸話を残す。はた目には「一発狙い」の一人にすぎなかった。 だが初従軍を皮切りに華々しい活躍をする。
 64年、報道写真家があこがれた米クラブ誌「ライフ」が岡村を特集した。 「悪い戦争」と題し、岡村を「ロバート・キャパの後を継ぐ戦争写真家」と紹介。 本人もいわく「フィルムの詰め方は知りませんでしたが、何にレンズを向けるべきは知っていました」
 「南ヴェトナム戦争従軍記」(岩波新書)を65年に出版、ベストセラーになった。写真でも芸術選奨文部大臣賞、日本写真協会年度賞・・・・。総なめにした。

 「岡村は我々を一夜にして置き去りにした」作家高橋治(76)は目を見張った。当時、大島渚(73)や篠田正浩(74)らと共に松竹大船撮影所で先鋭的な映画制作に励み、 「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれた。徒手空拳で戦争に立ち向かう岡村を、青年監督らは一様に驚きの目で見た。 
高橋治さん=白山麓僻村塾提供
 高橋は映画人として挫折し67年に松竹を去る。だが同い年の岡村の「天恵を行くような活躍(高橋)」に鼓舞され、 長編小説「派兵」(朝日新聞社、未完)で作家に転向。のちに「風の盆恋歌」(新潮社)などで人気を得る。
 高橋は73年、渡欧の際に経由したサイゴンで岡村に会う。岡村は「松竹ヌーベルバーグ」の映画を実によく見ていて、高橋の初監督作品も知っていた。 たちまち旧知のように打ち解けた。「君たちが次々と世に出て来るのがうらやましくてな。あいつら、いつか足もとかっぱらてやろうと思っていたんだ」
 岡村もまた、同世代の松竹の若手の活躍を、自分へのムチにしてきたのだと打ち明けた。
(朝日 新聞)B


連綿ジャーナリスト魂
ニッポン 人■脈■記 ベトナムの戦場から B

あこがれと悔しさ バネ
ロバート・キャパ(1913-54)=マグナム・フォト東京支社提供
 「第二のキャパ」とも呼ばれたカメラマン岡村昭彦(85年没)の報道は、初期のベトナム戦争を日本人に身近なものとした。 華々しい活躍に刺激され、多くのカメラマンが戦場を目指した。戦争は75年に終わるが、「遅れてきた世代」にも岡村は影響を与える。

 5月24日、講談社出版文化賞の贈呈式が東京であった。長倉洋海(52)が写真賞を受けた。 戦争で破壊されたコソボに生きる、28人の大家族を追った写真集「ザビット一家、家を建てる」(偕成社)が評価された。式で長倉があいさつした。 「過去に岡村さんももらった賞だから、格別に嬉しい」
 長倉はベトナム戦争で報道したカメラマンにあこがれ、遅く生まれたことを悔んだ。彼らの写真を目に焼きつくほど見た。
長倉洋海さん
 時事通信に入ったが、飽き足らずにフリー写真家をめざした。自立の資金をためるため、風呂もトイレもない4畳半で切りつめた。 部屋の壁に岡村や、ハンガリー生まれの伝説的な戦場カメラマンロバート・キャパの言葉を張りまくって自分を刺激した。
 76年春、岡村に面会を申し込む。「フリーになって、インドシナに行きたいんです」。 「君は中国語ができるのか?タイ語は?どのくらいあの地域を勉強した」。たたみかけられて長倉は沈黙した。 「他人のことは参考にならんよ」。フリーになる方法を性急に求めていた自分に気づく。「ペシャンとさせられた」
 悔しさをバネに、長倉は2年後に退社する。世界の紛争地を回った。 だが、いい写真が撮れない。「絵になるのは戦闘という先入観にとらわれていた。 戦闘で死んだ死体があると、数十人のカメラマンと押し合いへし合いしながら撮影した。市場で子供が遊んでいる光景は、退屈に見えた。
 転機はエルサルバドル。反政府ゲリラが大攻勢をかけるとの情報があり、84年末に日本をたった。 だが何も起きない。仕方なく「平穏な紛争地」を歩くうちに肩の力だけが抜けていった。 子供の喜怒哀楽も目に入るようになった。自分の視線がやわらかくなるのを感じた。
 「撮影は相手から奪う行為」と後ろめたさを感じながらも、「写真は僕にとって、あこがれを写し込むもの」。「ザビット家」も、そんな写真集だ。

 岡村にきっかけをもらい、長倉に鍛えられた写真家がいる。 4月に「絶望のなかのほほえみ−カンボジアのエイズ病棟から」(めこん)を出した後藤勝(38)。バンコクを拠点に社会問題を追う。
 工業高校を1年で中退し、希望を失っていた17歳のとき、古本屋で岡村の「南ヴェトナム戦争従軍記」(岩波新書)に出会う。 暗記するほど読み返した。アルバイトでカメラを買い、中米へ、数年後エルサルバドルで撮った連作写真を日本の雑誌に売り込んだ。 自信はあったが、編集者から手紙が届く。「長倉という人がそこで良い仕事をしている。もっと人間に迫り、心を揺さぶる写真を」。長倉は後輩の目標になった。
カンボジアのエイズ病棟を撮影した写真展で話す後藤勝さん
 97年にカンボジアへ入った直後、内戦が再燃し前線へ。「なぜ来た?」。兵士に聞かれ、「怖いけど来てしまった。戦争の写真が撮りたい」。 負傷兵には「おれの写真をいくらで売るんだ」と怒鳴られた。 この時の写真ルポ「カンボジア・僕の戦場日記」(めこん)で後藤は世に出る。面識のなかった長倉が書評を寄せた。
 「本書は極めて私的な記録といえるかもしれない。が、確実に『人の姿』を伝え、今の時代を浮き上がらせる」
 後藤はその後、途上国のエイズや人身売買などにテーマを広げた。 戦争だけではなく、世界には不条理な死に方があまりに多い。「レンズを向けた人から託されるものの多さに、おののく日々です。」
(朝日 新聞)B


不安と希望と

 1996年2月、定住していた兄に呼び寄せられ、両親、妹とともに4人で来日しました。 その時、ベトナムでは半年間日本語の学習をしたものの、自分の言葉がはたして通じるのか、日本の習慣や生活になじむことができるのかとても不安でした。
 国際救援センターで学んだあと、ウニやイクラなどをパックに詰める食品工場に勤めることになりました。 今度は、日本人との人間関係や他の国籍の従業員とうまくやっていけるか、言葉が通じるかなどの不安でいっぱいになりました。 でも、仕事は手作業であまり日本語の会話をする必要がなかったので、少し安心しました。先輩の方々も親切に仕事のやり方を教えてくれました。 しかし忙しい時間は社内の雰囲気が変わります。上司は「もっと早く作業をするように」「商品の重さは90g以内に」など次々と指示を出します。
 とても無理な要求もありました。そんな時は意見を述べたり、反論もしたかったのですが、なかなか自分の気持ちを日本語で表現することができず、 言葉ができないもどかしさを感じました。それに仕事を終えて帰宅後の日本語の勉強はとても疲れました。 でも、生活していくうえで必要という思いと、兄の励ましもあって学習を継続するよう努力しました。 するとテレビドラマや映画なども少しずつ楽しめるようになったのです。 その後結婚し転居するまで約1年半この会社に勤めましたが、就職する前に抱いていた不安はなくなり、大きな自信になりました。
 今年、2人の子どもが幼稚園に通うようになり、生活も落ち着いて私は、再び仕事をしたい気持ちが強くなり、新聞の折込みを見てアルバイトを探すことにしました。 求人情報はたくさんあり、以前の会社の経験もあるので、すぐに希望する仕事が見つかるものと考えたのです。 不安はありましたが、自分で会社に電話をかけ、面接の約束をとりつけようとしました。ところが、それは思った以上に難航しました。 言葉のイントネーションから外国人と分かると「外国人は雇えません」などと断られるのがほとんどだったのです。 10社以上電話して面接を受けることができたのは3社だけです。その3社からもほどなく不採用の連絡があって、それまでの自信は全くなくなってしまいました。
 「日本の生活は、やはり自分には合わないのでは」「日本語をもっと上手にならないとだめなのか」など不安が頭の中をよぎります。 そんな中、日本語能力試験があることを知り、一念発起し受験してみることにしました。今は頭を切り替え、子どもの世話の合間をぬって試験に向けて勉強に励んでいます。 このように来日してからの日々は、不安と希望の繰り返しですが、少しでも前向きにと考えながら生活しています。
グエン・テイ・ミン・フォン C


こんにちは

 6月6日は私にとって特別で忘れられない日。
 特別の日とはペーパードームの解体をする日なのだ。見に行くと、ドームの前の屋根は三等分に切られ、はがされた。 周りの入り口、柱、床のブロック、板、柱が壊されるのを見て、なんだか自分の体がはぎとられたような痛みだった。
 ペーパードーム本体は台湾へ持っていくことにになった。「まぁ台湾でまた活躍するだろう」と思うと気持ちが少し楽になった。
 私の心の中で、たかとり教会は何段階かに刻まれた。落ち着きがある聖堂、遊び道具がある庭。震災で火の海の教会。 テント、プレハブが一つずつ増え、全国のボランティアが集まり、被害者を支えてきた。 そのきっかけで一つ二つのNGO団体が発足され、外国人被災者を支えた。その後も新団体は年々と増えてきた。 今は、たかとりコミュニティーという名で全国に知られている。
 今日は、基地内の建物はほとんど壊され、震災後に近い状態・時に戻った。何かをなくしてきたかのような気がする。 「過去を捨てて」とよく言われるが、全てをすてるのではなく、残したい過去もあるのだというのが私の考え。
 今のNGOベトナムin KOBEは震災という大変な時に芽を生やした枝なのだ。 支えてくれた方々が肥料の役割を果たし、私たちはそれをしっかり受けて成長したいと思っている。 5年目に入ったNGOベトナムin KOBEはこれからも頑張ります。
タン・ガ D


★留学経験が私を変えた★

早朝のレーニン公園、みんなそろって早朝から体を動かす健康志向の高齢者たち。
 2003年3月末、語学留学のためベトナムへ渡った。ベトナムはそれ以前すでに2回観光で訪れたことがあったが、 長期的に日本を離れ一人で生活を送るのはこの時が初めてであった。飛行機の中で、身近に迫る新たな生活に楽しみと不安を感じていた。 とは言うももの、実際は不安の方が大きかった。なぜならば少ない経験ゆえに困難にみまわれるであろうことは分かっていたからである。
 ハノイに来てからのはじめの1、2ヶ月、自分を取り巻く全てのものが今までの自分の知らなかったことや、 一年前に観光で訪れたときには気づかなかったことばかりであった。そしてそれらは私を驚かせ、興味を抱かせるものであった。 例えば通りすがりの私たち日本人のことを「Ajinomoto」と呼んだりすること。 どこへ行ってもたった500ドンでお茶を飲ませてくれる所があること。 携帯電話がなくても少し行けば大抵、電話を貸してくれる所があること。 バスに乗った時は本当に怖い、というのも、とても速く車をとばしていながら急ブレーキをかけたりするバスもあるし、 バス停には名前がないから、日本にいたときのようにバスの中で寝ている暇はない。 注意して景色を見ていなければ、乗り過ごしてしまうこともあるのだ。 テレビでは、外国ドラマがベトナム語に吹きかえられているのだが、台詞を読むのはたった一人なので、 どれが誰の台詞かが区別できない上に、聞き取れないことが多いため、結局理解できない。 私が住んでいた家には網戸がなかったので、電気代節約のためにエアコンをつけない時は窓をあけっぱなしにしなければならない。 蚊帳も張らずにそのまま寝てしまったときは、蚊に刺され放題になってしまう。 しかし、概して言うならば、これらのことは全て私にとってはあたらしく、日本にいたときには決して出くわすことのなかった経験であった。
 2ケが過ぎ、私はやっとハノイでの生活に慣れ始めてきた。 しかし、一つだけ未だ慣れきれないことがあった。それは、一人暮らしであった。 そこに行く前、私は絶対に自立できると思っていたが、想像と現実は大抵異なるものだ。 ハノイでの一人の生活、日本人の友達はたくさんいたが、家に帰り部屋に戻ると、そこには自分ひとり、日本にいた時のように話せる相手がいないのだ。 手持ち無沙汰な時間が長いことで考える時間が増え、悲観的になり、孤独感にまで苛まれる。 こうありたいと思う自分ではいられなくなり、どうすれば楽しくなるのかが分からなかった。 しばらくして、たくさんの人が助けてくれた。話を聞いてくれたし、いろいろなところへ連れ出してくれた。そうしてようやく私はあることに気がついた。 外へ出れば外の様子や人々が生活する原点をみることができるチャンスが、私にはたくさんあったのだ。そして私はそのことに目を向けていなかった。
 私はハノイで、ベトナム語だけではなくその他にもたくさんのことを学んだ。 その中で最も大きなことは、ベトナムの人々の親切さが私を変えてくれたのである。 ベトナム人と取り留めのない話をすることに慣れていく中で、私は次第に社交的になっていった。 自分にとって私は全く見知らぬ人間であるにもかかわらず、彼らはよく笑いかけてくれた。私も笑って人と話をするのが好きだった。 ベトナムで学び、経験したことの全てが今の私を作り出し、ベトナムの人々と関わることができる何かをしたいという思いを芽生えさせてくれた。 もしベトナム留学がなければ、私はきっとこの文章を書いていることもないだろう。 そしてまた、今後の自分にとって、これらの経験がベトナム人とのより深い関わりをもつことに貢献してくれるであろうことを、私は望んでいる。
E


ベトナムに物流拠点

 住友商事は、ベトナム北部を拠点に中国とタイを結ぶ物流サービスを始めた。このルートは陸続きにもかかわらず、日数がかかる海上輸送が中心だった。 陸路では輸送日数が半分以下に短縮でき、現地に進出している日系企業の域内での生産や販売活動の効率化につながりそうだ。
 国境物流円滑化のノウハウを持つ商社の強みを生かしたサービスで、陸路ルートは北側が華南(深?、広州など)−ハノイ間約1400キロ、 南側がハノイ−ラオス・ビエンチャン−バンコク間約2千キロ。住商の物流子会社のトラックを使い、物流センターも整備した。
 これまで主流海上輸送は大型港湾の整備が不十分で、積み替えや通関の時間もかかり、 華南−ハノイ間は最低4日間、ハノイ−バンコク間は2週間必要だった。陸路では、それぞれ2日間、4日間に短縮できる。
 日本型物流システムの導入で、在庫削減や柔軟な出荷対応も可能になる。
(朝日 新聞)F


資料
@ 朝日新聞 2005年8月5日
A 朝日新聞 2005年8月14日
B 朝日新聞 2005年8月16日
C 「定住新聞 こんにちは」(難民事業本部発行)2005年2月号
DE「NGOヴィエトニュース」(NGOベトナム in KOBE発行)2005年7月号
F 朝日新聞 2005年9月22日


あとがき

 今年の夏から秋にかけて、皆様はどのような日々を過ごされたでしょうか。 さまざまな歴史をふり返って再認識する時でもあり、環境問題について深刻に考える時であったかも知れません。 痛ましい戦争やテロの犠牲となった方々のことも忘れられない出来事でした。
 私たちの身の回りに起こる問題をとらえて見ると、どこかで「いのち」の問題に触れ、そこに接点を見いだすように思われます。 自分の生まれ育った所で生活することは、それ程困難なこととは思わない人々もいるかも知れませんが、 よく考えてみれば、家族、社会的人間関係、経済的な問題、さらには心身ともに自分の居場所を保つということは簡単なことではありません。 まして、言葉も習慣などもちがう他国で生活することは並大抵のことではありません。 そこで私たちが皆で考える手掛かりとして、次のような文章を引用してみることにしました。
 「わたしたちの人生には、時として、すべての慰めの光が奪われて、恐ろしい闇に覆われて、 それ以上生きていくための光を見いだすこともできないほどの絶望的な状態に追いつめられてしまうことがあることも事実です。 ・・中略・・闇に中には二つの扉があるといわれます。一つは簡単に開けられる、絶望の世界に導く扉です。 もう一つの扉は開けるのは難しいけれども、希望の世界に導く扉」(『いのちのへのまなざし』日本カトリック司教団著p.85)です。 私たちを取り巻く環境がどのような状態であっても、希望の世界に導く扉を開ける努力をしながら前進したいと思います。
 そのようにして、自分自身をとりまく環境を大事にして、自分と他の居場所を確認しながら、「生きていく瞬間」を共有していきましょう。 便利な生活に慣れ、食料にも恵まれている環境にある私たちは、水すら十分に得られず、 生きるために最低限必要な食糧も与えられず、幼くして「いのち」を失う人達がいることをどれだけ思い起こしているでしょうか。 小さい事でも何かできることをしているか、 この時期に私も深く反省しながら皆さんと一緒に重い扉を開けながら希望の世界に近づきたいと思っています。
(中里 昭子)

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