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小さなダオ花 19

「越僑」が支える経済
過去を忘れ一つの国目指す
「輸入美人」に人気集中
人口集中 水に悩む
連綿ジャーナリスト魂
読者の声
あとがき



「越僑」が支える経済
ベトナムの光と影 解放30年 

帰国者には優遇措置 「旧敵」米の製品も浸透

 ホーチミン市の海外ベトナム人事業協会のバン・タン会長(54)が所有するリゾート施設の壁にはベトナム戦争を描いた大きな木彫りがあり、 「米国帝国主義は敵だ」と書かれている。1セット数千jはする自然木のテーブルやいすが並ぶ宴会場は共産党幹部らの接待用だ。

建国の父、ホーチミン主席の自画像が飾られている通りをオートバイが疾走する=28日、ホーチミン市で、浅野哲司撮影
 30億ドルを送金
 タン氏は74年に出国、カナダに渡って事業に成功した越僑と呼ばれる海外在住ベトナム人の一人。 85年帰国し、ハノイやホーチミン市のホテルなどに投資する。
 越僑は海外に300万人ともいわれ、 半数近くが米国、他はフランス、カナダ、オーストラリアなど60カ国にいる。 04年越僑が海外から送金した資金は30億ドル(約3200億円)に達する。
 04年は約40万人の越僑が一時期帰国。今年2月の旧正月に代表を集めて共産党幹部が開いた歓迎会でファン・バン・カイ首相は力説した。 「越僑はわが国にとって欠かせない。党と政府は越僑の権利を最大限保証し母国での事業を手助けする」
 市場経済化を進め、国際経済への参入を目指すベトナムにとって、越僑の財力と頭脳は、即戦力として価値が高いからだ。
 越僑は国内企業家と同じ扱いが受けられ、多くはベトナムと外国の旅券を持つ。外国とベトナムを自由に行き来し、ベトナム経済を支える。

 企業進出続く
 越僑だけではない。旧敵の米国からも企業が続々進出している。
ベトナム戦争の激戦地だったダナンの約100キロ南にあるチューライ空港に3月下旬、初の商業便が飛来した。
 もともとは米軍が65年に建設した軍用空港。 政府は「敵の遺産」を経済発展の起爆剤としようと、旅客ターミナルを整備。ホーチミン市へ週2便の運行を始めた。秋にはハノイ便も就航させる。
 周辺には巨大な解放経済区の建設が進み、観光開発計画も目白押し、米国も含め内外からの投資家がこの空港を使って現地視察に訪れる。
 米国は94年にベトナムへの経済制裁を解除し、95年に国交正常化が実現。 01年には米越通商協定が発効した。ベトナムの米商工会議所によると、94年の設立当時には十数社だった会員企業は460社になった。
 03年には米国がベトナムにとって最大の輸出国に。貿易額の合計は98年の8億3千万ドル(約880億円)から、05年は70億ドルに達する見通しだ。
 米国の製品も生活に徐々に浸透してきた。消費文化の象徴ともいえるペプシコーラなどを生産する「ペプシコ・インターナショナル・ベトナム」は、 ホーチミン市やハノイなど3ヶ所に工場を持つ。 売り上げは5年間で2倍以上になった。

 反感も薄れる
 進出企業は自動車やスポーツシューズ、保険業界まで幅広い。 ホーチミン市の中心部にあるフォードのショールームで新車を見ていた貿易商の女性(45)も「性能も安全性もデザインもいい。 戦争の記憶はあるが、それとこれとは別」と話した。
 米商工会議所のハーブ・コクラン事務長は「法律などの問題が解決し、世界貿易機関(WTO)への加盟が実現すれば米企業の活動はもっと活発になる」と言う。
 しかし越僑や外資に頼る経済発展は、裏を返せば国内産業が十分に育っていないことも示す。 共産党一党体制を堅持したままの「管理された市場経済」が成功するかどうか、結論が出るのはまだ先だ。
(ホーチミン市=真田正明、貝瀬明彦)
(朝日 新聞)@


過去忘れ一つの国目指す
米から帰国 キ・南ベトナム元副大統領

 南ベトナム政権の副大統領で反共の闘士と呼ばれたグエン・カオ・キ氏(74)=写真=の米国からの帰国は、 戦中・戦後に国外に脱出した人々の帰国の動きを象徴するものだった。同氏に話を聞いた。
 私の帰国に長い議論があったが、訪米した政府代表団に帰国を促され、04年1月に初めて帰国した。今こそ和解の時だと思ったからだ。
 各地で政府関係者や市民と会い、我々は過去の殺し合いを忘れ、再び一つのベトナムに向かっていることを感じた。 人々は新しい生活やカネ、教育について話している。過去にさかのぼって善悪を問う必要はない。
 共産主義の時代は終わった。今の中国やベトナムは「開発独裁」のスハルト時代のインドネシア、朴政権の韓国、リー・クアンユー時代のシンガポールのようだ。
 ベトナムは新たな竜となる。今は過渡期だ。ベトナムは自由で民主的な国に向かいつつある。
 9割の越僑は私と同じ考えだ。特に若い世代はいつか故郷に戻り、何かをしたいと考えている。 
(朝日 新聞)A


「輸入美女」に人気集中
あこがれと誇り共存
   米カリフォルニア大ロスアンゼルス校に通い、スノーボードと株式投資が趣味だったラダ・エンチュエンシンさん(23)は大学の休暇を利用してタイに旅行した。 01年9月のことだ。それ以後、米国にはなかなか戻れない。タイの人気女優としてドラマやトークショーに出演し忙しい。
 「土産話のつもりでミス・ワールドのタイ代表の選考会に出場したら、優勝してしまった。 住む世界が変わったわ」。国籍はタイだが、ロスで生まれ育った。優勝の番号がアナウンスされても分からなかったほど、タイ代表はタイ語が不得意だった。
 ナンガム・インポーティド」(輸入美女)。90年以降、タイのミスコンテストや芸能界で造語された言葉だ。 94年のミス・ワールドになったアリーア・シリソバさん(32)は米ミシガン州育ち。 タイ陸軍のイメージアップのため報道補佐官に起用されたこともある。 女優のシリンヤ・ウィンシリさんは米国人を父に持ち、96年に青い目のタイ代表となった。
 「容姿に加えて、高学歴がタイで最も広告効果の大きい美女の条件。米国育ち、米国留学は洗練されたスマートさの象徴と受け止められ、国民の感性をくすぐる」。 バンコクの広告戦略会社役員、スリカンヤ・モンコンシリさんは、輸入美女がもてはやされる背景をそう説明する。
 タイは第二次大戦後、米国との同盟関係、積極的な外資導入によって国力を発展させた。90年代には輸入美女や西洋的容姿の俳優、歌手が増えた。 欧米へのあこがれと、タイもひけをとらないぞ、という複雑なナショナリズムが芸能産業に見え隠れする。
「アジアと欧米の価値観のバランスを心かけている」。ミスコンテストは、ラダさんが「タイ人とは」を深く考える転機となった。
 化粧品の宣伝、観光キャンペーンなど欧米向けのタイのPRにも動員されるラダさんは「流暢な英会話、社交性、臨機応変な表現力・・・・。 欧米の人たちに好感を持たれる交流の役割を期待されているんだなって感じます。米国の生活スタイルそのままを実践すればいいのですから楽です」
 だが居心地の悪さも感じる。「バナナってご存知ですか」。ラダさんが問いかけた。 「外見は黄色いけど、皮をむくと白い。タイ人だけど心は米国の価値観。『タイの文化を知らないくせに』という陰口も聞きました。悲しくなることもあります。
【バンコク小松健一、写真も】
(毎日 新聞)B


人口集中 水に悩む
ベトナム 下水処理場 後回し

 アジアの都市に人口が集中し、たくさんの水を使って生活するようになった。 上下水道の整備が追いつかず、水不足や汚水に悩まされる人たちも増えている。急成長を続けるベトナムと中国の現状をみた。 (伊藤宏、山口博敏)

 「稼いだお金で生活をどう快適にするか、とことん考えました」ベトナム・ホーチミン市に住むブー・バン・ヒエンさん(49)は、そう言って新築の家を案内してくれた。
 鉄筋6階建て。欧州や中国から取り寄せた豪華な家具や装飾品が並ぶ。 浴室には、日本の陶器メーカー大手のINAXの最新式のシャワートイレがあった。なめらかな曲線デザインが目を引く。
 リモコンで操作できるんですよ。選んでよかった」。値段は国産品の50倍の2560万ドン(約18万円)。 入浴設備も充実させ、温水シャワーが大量に噴き出すジェットバスもあった。
 ヒエンさんは薬品の貿易を営むかたわら、不動産も取引する。小さな店だったが、90年代後半から商売が繁盛しはじめた。 政府の対外開放政策が追い風で、同国の成長率は7%台。東南アジアでも屈指の水準だ。豊富な労働力に注目した外国企業の投資が急増し、不動産価格も高騰している。
 「豊かになって、少々高くてもいいものを買いたい、というお客が増えている」とベトナムのINAXの川越啓次社長は話す。 90年代後半に現地生産を始めた同社は、三つ目の工場をハノイ近郊に建設中だ。 昨年は、ライバルのTOTOも工場を本格稼動。来年は二つ目が動き出す。水洗トイレの需要増が支える。

 ■ 悪臭で頭痛
 ホーチミン市の中心部を流れるタウフ運河。 川岸からせりだすように、数百件のバラック小屋が川の上に並び、スラム街をつくる。この一角にウェン・グェン・ザオさん(63)は妻、4人の子供と暮らす。
 川の中にくいを打ち、その上に床を張って小屋を建てた。水やジュースを売って生計をたてる。 「昔は川側の部屋で寝起きしていたが、いまは川のにおいがきつくて使えない」という。
 川は黒く汚れ、流れがとまっていた。悪臭が鼻をつく。川岸から数b先までヘドロがたまり、菓子の包みやサンダル、古タイヤなどが散乱している。 5軒先の女性(56)は「昔はこの川で泳いでいた。汚くなったのは7〜10年前。においがひどく、頭痛や発熱に悩まされている」と話した。
 排水は川に流す。ザオさんのトイレは、部屋のすみの板張りの床に、50センチ四方の穴をあけたもの。穴のむこうに、川面の真っ黒なヘドロが見えた。
 この10年、ホーチミン市の旧市街の人口は約400万人から約600万人に増えた。 国民の移動制限が緩められ、村からの流入が続く。市周辺部で配水管が整備されていない地域の住民も、 100万人から200万人いるといわれる。人口は20年には1千万人になるとの見通しだ。
 下水量もこの間、1日あたり約100万立方メートルと2倍になった。水洗トイレや電気洗濯機など、水を多く使う道具が普及し始めたことが背景にある。
濁った川沿いに並ぶ住居。道路の拡幅などで姿を消しつつあるが、生活している人たちは今でも多い。=ホーチミン市で、浅野哲司撮影
■ 改善急ぐが
 下水道局によると、市内には公共の下水処理場がない。経済成長に必要な交通網や電力のインフラが優先され、手が回らなかったという。 家庭には尿タンクはあるが、液体は生活廃水とともに、排水溝から河川に流れ込む。下水道網は、旧宗主国のフランス人など人口150万人を想定してつくられたものが基本。 れんがで約100年前に造られた下水道が今も一部にのこる。
 スラム街がある運河は、国際協力機構(JAICA)の調査によると、水質の目安となる生物化学的酸素要求量(BOD)で東京都心を流れる川の20倍の汚染度だという。 市内の赤痢や腸チフスの患者数は減っているが、病院で治療が必要な下痢の数は、 この10年間に20倍の約6千人に増えた、と保健省資料は報告した。
 市は排水路の新設や拡充、水路の改修などを進めている。昨年、着工したばかりの唯一の下水処理場と併せ、日本政府の途上国援助(ODA)プロジェクトだ。 下水道事業を統括する投資開発公社のウェン・カオ・カン所長は「改善を急いでいるが追いつかない」と話す。 インフラ事業の専門家は「処理場は一つでは足りない。人口増に対応するには五つが必要」とみている。
(朝日 新聞)C


連綿ジャーナリスト魂
ニッポン 人■脈■記 ベトナムの戦場から @

近藤紘一さん(1940-86) 塩ネ井健陽さん
 イラク戦争のさなか、幼い3人兄弟が空爆で死んだ。その墓標に誰かが書いた。
 「お父さん泣かないで。私たちは天国で鳥になりました」
 切ないことばが、フリーのビデオジャーナリスト綿井健陽<わたい・たけはる>(33)の胸を突いた。
 綿井は、03年の開戦後1年半にわたってイラクを取材。膨大な映像から今年4月、戦火の中の家族を描くドキュメンタリー映画を作った。 題名は墓標から「リトル・バーズ(小さな鳥たち)」とした。

 泣くのはいつも弱い者。そんな、戦争への怒りを込める。
 開戦が不可避になっていた03年3月11日未明、撤退を始めた日本の新聞、テレビと入れ替わるように、綿井はバグダットを目指した。 「爆弾を落とされる側」から報告したかった。
 紛争地報道で実績はある。だが、いつにない不安に身を硬くしていた。バグダットは真っ先に空爆の標的になるだろう。市街戦も予想された。「無謀だろうか」  揺れる綿井を、ベトナム戦争報道で名をはせた新聞記者の言葉が支えた。「一国の崩壊に立ち会えれば、記者冥利に尽きる」
 サンケイ新聞の近藤紘一。75年4月30日、南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)が陥落し、 戦争が終わる。国外へ逃れる人々で恐怖状態の中、近藤はこの言葉を自分に言い聞かせ、現地からニュースを打電し続けた。綿井が3歳のときだ。
酒井淑夫さん撮影した「より良ころの夢」。1968年度ピュリツァー賞を受賞した=upi・サン村田信一さん
 「【四月二十八日夕 サイゴン発】/クレジットを打ったあと、しぜんに文章がでた。『サイゴンはいま、音をたてて崩壊しつつある。 つい二カ月、いや一カ月前まではっきりと存在し、機能していた一つの国が、いま地図から姿を消そうとしている・・・・』」(「サイゴンから来た妻と娘」」=文芸春秋=から)
 近藤はサイゴン特派員時代、ベトナム人と再婚し、妻の実家に転がり込んだ。妻も再婚で11歳の娘がいた。 市場に近い下町の暮らしが、記事に「人のにおい」を吹き込んだ。 妻子を連れて帰国、「サイゴンから来た妻と娘」で大宅壮一ノンフィクション賞を受けた。だが、86年に45歳で早世する。
 綿井は長じて、戦争と人間を活写した近藤のルポに感銘を受ける。インドシナも訪ね、ジャーナリズムの世界に導かれていった。
 03年3月20日未明。米軍の空爆で戦争は始まった。米地上軍がバグダットに迫る。市内から警官が消えた。制服を脱いで一般市民にまぎれたのだ。 大統領宮殿が制圧された4月7日、綿井は中心街の広場から日本のテレビに向けて中継リポートをした。
 「フセイン政権がいま、音をたてて崩壊しつつあります」
 ここ一番の場面で使ったのは、28年前の近藤の言葉だった。
 開戦時、バグダットには約20人の日本人フリーランスがいた。綿井と同じホテルに村田信一(41)がいた。炎上する大統領宮殿に向けてシャッターを切った。
 元自衛官。最前線で銃撃戦を撮るのが生きがいだった。いつしか「撃った撃たれたは戦争の一部」だと気づく。銃後にも膨大な光景があるのだ、と。
 村田の脱帽する一枚が、米UPI通信の酒井淑夫(99年没)がベトナムで撮った「より良きころの夢」だ。酒井は繊細だった。 「無残な死体や、瀕死の負傷者がどうしても写せない」と悩んだ。 一歩引いた目標で本領を発揮する。砲弾のやんだ雨季の戦場、つかの間の眠りに安らぐ米兵の写真は、68年にジャーナリズム界最高とされるピュリツァー賞を受賞した。
 ベトナム戦争が終わって30年。「泥と炎」と形容された戦場から、報道写真やドキュメンタリーの多彩な群像が生まれ出た。
 (このシリーズは編集委員・福島申二、写真は山本荘一郎が担当します)
(朝日 新聞)D


読者の声
自分を幸せな人に育てる道

 「人間の幸福とは他者のために献身することである」とは、アジアにおいて最初のノーベル賞受賞者となったインドの詩人タゴールのことばです。
 私たちは、今日のような情報過多の社会にあっても、また、どんな社会が訪れようとしても、人と人との係わり合いが機械を通してではなく、 互いの直接的な心の通い合いを大切にした交わりであってほしいと望んでいるのではないでしょうか。
 それだけではなく、私たちひとりひとりが創り主である神に愛されている存在であることをわきまえ、 他者の幸せに貢献することの喜びを知る人間に、日々成長していきたいと思います。
 人を愛することは、自己中心を排除して、他者に仕える謙虚さが要求されますし、他方自分が正しいと信じた時は、実行する勇気も必要です。 「つよさ」と「やさしさ」は矛盾するものではなく、両者が渾然と交わり合って人格を形づくる上での大きな種になると言えると思います。
 助けを必要とする人には、優しい思いやりを示し、自己中心を除いて、他者に謙虚な、ごく自然な態度で接することができる友人であることが出来るなら、どんなにすばらしいことでしょう。 それに向かっての自分の訓練を生涯続けていきたいものです。

 先日の尼崎の列車脱線転覆事故について、連日事故の解明、お気の毒な犠牲者の状況が報道されていました。 その中に「心救われた周辺市民の救助参加」の見出しで、現場近くの会社の社員が事故に気付き急遽工場の操業を中止して会社ぐるみで駆けつけ、 警察、消防に引き継ぐまで必死で、初期救助活動を行った。・・・・・という話に心が救われた。
 「今、人のなすべきことは何か?ということや『人の心』について学んだ気がする」とありました。私たちは他人への配慮をすることを努力して実行するのではなく、 習慣として手がだせるように、一人一人の中にあるやさしい思いやりのこころを常に育てていきたいと思います。
(一読者)
資料
@ 朝日新聞2005年4月30日
A 朝日新聞2005年4月30日
B 毎日新聞2004年2月20日
C 朝日新聞2005年5月28日
D 朝日新聞2005年6月13日(夕刊)


あとがき

 近年、「スローライフ」という言葉が注目されています。「『心とものを大切にした急がない生活』を取り戻す運動」です。 1986年、北イタリアの小さな村ブラ(Bra)で起こった「スローフード運動」が始まりといいます。この年、ローマにマクドナルドのイタリア1号店が開店。 どこでも、すぐに、同じものを食べられるというファーストフードに対し、その土地にある材料を使い、 料理をし、ゆっくりと味わいながら食べようという異議申し立ての意を込めて、この運動の名はつけられたそうです。 転じて、食べ物だけでなく、私たちの生活全体を見直そうという思潮として広がり、スローライフといわれるようになりました。 このためスローライフとは、特定の決まった形を勧めるものではない、とのことです。
 さて、私自身はというと、ファーストフード店を見つけては飛び込み、レジ前で列を作ることさえもどかしく感じ、 即刻食べ終え、音を立ててトレーを片付け、足早に店を出る、ということを繰り返しています。 ゆっくりと味わうこと、コミュニケーションを大切にすること、自分自身の生活を見つめ直すことから、なんと遠い生活を送っていることでしょう。
 本号の記事の中にも、スローライフの意義と困難とがあちこちに見いだせます。 ベトナムで水洗トイレの普及にホッとするとき、水量の増加で下水処理が追いつかないという現実まで視野に入れることができたら…。 ベトナム、タイでアメリカ資本の製品を手にするとき、それに決して劣るわけではない地元の工芸品のことまで思い浮かべることができたら…。 列車ダイヤの乱れに苛立つとき、その運行システムを要求する自分自身の生活を改めて見つめ直すことができたら…。 こうしたものの見方は、一部の人にとっての簡便さをさておき、むしろみんなにとっての、ほどほどの快適さを重視する姿勢といえそうです。
 2003年、イタリア・ナポリにて新たに採択されたスローフード宣言はいいます。
スローな生活という思想を、単に食事を急いでとることに対して反対したり、ファースト・フードに反対するためだけのものでなく、 時間の価値が認められ、人間と自然が尊重され、喜びが存在理由となる世界を守るために発展させて行かなければならない。
私たちの身のまわりから、互いに尊重し合う豊かな世界を守るための一歩を始めることができれば、と思います。
(山本直美)

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