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小さなダオ花 18

アジアの大地に生きる女性たち
自由を求め、努力は成功への道
子どもの権利は平等に
南の苦難伝える試み
ベトナム首相米へ
天声人語
あとがき



アジアの大地に生きる女性たち
女医として迎えるベトナム戦争終結30周年

 この二十数年間、世界を旅しながら、ふところの深い人、たくましい人、またそれ以外の形容詞をつけたくなる魅力的なひとたちに、私は出会ってきた。 女性、男性、セクシャルマイノリティーの区別はあるにしても、それぞれ大地に根ざし、真剣に何かにこだわって生きている。 そうした人たちの中から、単純に、私が紹介したいと思う女性たちをフォーカスして連載をはじめたい。

 ホーチミン(旧サイゴン)市第一区。何百という数のバイクが大河のようにとぎれることなく走る一方通行の大道り、ディエンビエンフー通り沿いに、 ホーチミン市眼科総合病院がある。 かつて、フランス系の女子修道会によって創立され、聖パウロ病院として知られたこのカトリック系の大病院は、 1975年のベトナム戦争終結と、それにともなう南北統一以来、政府に没収され国立眼科専門総合病院なって今日にいたっている。 この大病院の中央口から一機のみのエレベーターに乗り込むと、フランス時代のアンティークなこのエレベーターの格子の間から、 ホーチミンの胸像を中心に大きな赤布に金字で記された革命、団結、奉仕といったプロパガンダが目に留まる。 そこには、1975年まで修道女がこの病院を運営していたころ、毎日、朝晩の祈りのミサに使われていた病院の中心、つまりチャペルだったことが構造上、容易に見て取れる。
 エレベーターで2階にあがると、母親に付き添われた小さな子どもたちがたくさんいる。 その半分近くは眼帯をし、そのまた半分くらいの子どもたちが、泣きべそをかきながら若いお母さんにまとわりついている。 小児眼科部総責任者であり、私のベトナムにおける大親友のひとりチーラン女医は、この病院に赴任して今年で十五年になる。

 南ベトナム崩壊
 彼女は、裕福な家庭の七人兄弟姉妹の長女としてサイゴンの高級住宅地で生まれ、そこで育った。 しかし、戦争の悪化と貧しい人たちの激増は彼女の目にも日常のこととなり、 医者になって貧しい人たちを助けたいという思いで1973年、十八歳のときにサイゴンメディカルスクール、現在のホーチミン市医科大学に入学。 しかし、その二年後の75年4月30日、ついにサイゴンは陥落し、南ベトナムは崩壊してしまう。 生まれ育った彼女の家は、共産政府に没収され、同年のうちに四人の男兄弟はベトナムを脱出。 また、残った両親と二人の妹は、水も電気もまともにない新経済地区に強制移住させれられてしまった。
 しかし、三十年間続いたベトナムでの悲劇は、国土の荒廃、貧困、医薬品の不足など多くの問題を残し、 医療体制の整備、医師の確保は、当時の政府にとって最重要課題の一つであった。 そのため、医学部の学生は優遇され、共産党政権下で不利な背景をもつ彼女であっても、勉強を続けることが許された。 その一方、新経済地区での過酷な生活を強いられていた両親と二人の妹は、78年、命をかけて小船でベトナムを脱出、 運良くボートピープルとしてアメリカに亡命することができた。 この時点で、彼女は、ただ一人ベトナムに取り残されてしまった。
 当時ベトナム国内は復興するどころか、ラオス政府のモン族部隊討伐への軍事支援、 カンボジアのポルポト軍との国境紛争からはじまるカンボジア内戦への軍事介入、さらに中越戦争と戦争は終わるどころか、ますます経済を悪化させ、 また、たくさんの若者を戦場に送り込む結果になってしまった。チーランが言った。「家族のいるアメリカに逃げるなんて考えられなかった。 傷ついた青年たちが、カンボジアから大勢悲惨な姿で戻ってきた。国内でも薬も他の物資も極端に不足していて、一人でも多くの医者が必要だと思った」。
 事実、医師はますます必要となった。そして80年、チーランは眼科医となる。 卒業の二年前、専門を選ぶ際、戦争が続いていたので外科か眼科が役立つと思って二つの希望を出した。 そして政府から眼科に行くよう命令が来た。その年、同級生の医大生は、約140名、そのうち眼科は、五名だけだったそうだ。 しかし、そのうちの二人は、卒業直前にボートピープルとして国外に脱出し、一人は、何かの理由で卒業できず、結局80年に、 ベトナム南部全域で眼科医になれたのは二人だけだった。

 患者に食べ物をもらって生きのびた
 卒業後、彼女は直ちに地方の省立病院に送られた。 独身の女医がひとりで地方に送られることは非常にまれなことのようだが、それだけ医師が不足していたのだろう。 ドンナイ省の唯一の病院に赴任すると、検査設備のない検査の部屋だけがあてがわれ、ここに眼科病棟を創設するよう命令を受けた。まったくのゼロから全てひとりで始めた。
 当時の生活の辛さをはじめて彼女が話してくれた。 「給料は、毎日の朝食代を出すのが精一杯だった。 あとは、患者が食べ物を持ってきてくれるか、どうしようもないときには、家族がアメリカに脱出する前に少しおいていってくれた米ドルを、ヤミで換金してなんとか生きのびた」。 彼女は、そのような状況の下で十年を掛けて、ドンナイ省唯一の眼科病棟を創り上げた。
 今年、ベトナム戦争終結三十周年を、彼女はどう受け止めているのだろう。
 「この三十年間、悲しい、取り返しのつかない多くの代償を払ったと思う。 ドイモイ(刷新)政策による改革は、評価できるもものの、解放政策によって新しい社会問題もたくさん生まれてきている。 親になる準備のできていない、また全てが用意された社会システムの中で苦労せず、問題が起きても自分で解決できない若者の増加。 それに関連した母子家庭や離婚の問題。また仕事優先で家族のために時間がさけなくなっても深刻にとらえない、 ある意味でエリート的な女性の増大と、その一方で、家畜のように働いている地方の女性たち。昨年私はがんの手術を受けた。 でも、また今、働けるようになった。だからこそ、医師として、女性として、そしてこの数十年の悲しい、 しかし多くを学ばざるを得ない環境におかれた者として、家族の大切さを、また、ひとを大事に愛することのたのしさを伝えながら、体制がまたどう変わったとしても、 患者がいる限り、貧しい人がいる限り、十分な教育を受けられない人たちがいる限り、私はこのひとたちと、この地でいき続けようと思っている」。
(山口 道孝)@


「自由を求めて、努力は成功への道」
平川 孝美(ブィ ティ ミン ヒュー)

 私はベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)の出身で、ボートピープルとしてマレーシアのビドン島の難民キャンプを経由し日本へ来ました。 ベトナムでは勉強できないとの判断から、母の意思もあって、私は兄2人と共に国をでることを決意したのです。 長さ9メートルの小船へ乗せられ、海へ出ました。幸いに、マレーシアへ向かう船に救助され、灼熱のマレーシアに渡ったのです。 難民キャンプは年中蒸し暑く、環境は悪かったです。 食事は、国際機関から配給される缶詰のチキンが多く、野菜が不足していました。また、台風が来ると島へ渡ってくる連絡船がなく、 食料が不足して、ひもじさからねずみを食べることもありました。こういったこともあり1日も早くビドン島を出たいと思っていました。
 そういう中、アメリカ、カナダ、オーストラリア、日本から難民キャンプに定住意思を確認する調査団が来ることになりました。 私たち兄弟は安住の地として、また兄弟全員が一緒に行ける自由がある国日本を希望し、1984年4月関西の伊丹空港へやってきました。 
学校での授業風景(写真中央が筆)
 姫路定住促進センターには、1984年4月から9月の間日本語の勉強をするため入所しました。 センターでの生活は、難民キャンプに比べると食事や環境面で雲泥の差があり、日本に来てよかったと実感しました。 午後3時までの勉強の後教室に残り、漢字の勉強や教科書の予習、復習をしました。 私が熱心に勉強する姿をみてくれていたセンターの所長さんの口添えもあり、センター退所後は賢明女子学院中学校の聴講生として認めてもらい、 後に正規生となって卒業しました。 在学中には姫路市の国際弁論大会に出場し、世界平和を訴えたこともありました。 最初は日本語が分からなくて戸惑うこともありましたが、友人たちがとても親切で、本当に恵まれていたと思っています。 勉強がしたくて日本に来たこともあり、賢明女子学院高等学校卒業後は、上智大学の理工学部数学科へ進学し、 1年目は同大学の制度で学費無料、2年目以降は、成績優秀につき一部免除や奨学金をもらうなどして一生懸命勉強したことを覚えています。
 大学卒業後は、自分の教育経験を少しでも多くの人に伝えたいという気持ちになり、横浜雙葉学園の教諭に就きました。 結婚を機に地元へ戻りたかったところ、賢明女子学院で数学の教諭の求人があり、1998年からお世話になっています。
 私は頭がずば抜けて良かった訳ではなく、とにかく強い精神力を持ち、あきらめずに目標に向かってまい進しつづけて今の職を手に入れました。 暗記が最も苦手だったのですが、克服するために紙が真っ黒になるまで繰り返して書いて覚えました。
 日本に暮らすベトナム人の子どもたちは、英語、数学、理科は得意な人が多いけど、国語、社会は苦手な人が多いと感じています。 私の知る中学1年生のベトナム人生徒も文化の違いや家庭環境も影響してか授業についていくのが難しいようです。 ボランティアの方々など周囲の助けを借りて、 一人でも多くの人が目標の学校へ進学し、将来は国際社会に貢献してくれるような人材に育ってほしいと考えています。
A


子どもの権利は平等に
国籍法
    国籍って、何だろう。親のどちらかが日本人であれば、日本の国籍を持つことができる。 ところが、日本人の親から生まれた子でも日本国籍を持てない場合がある。 そんな法律の不備は憲法違反だ、とする判決が東京地裁であった。
 訴えているのは、フィリピン人の母親と日本人の父親の間に生まれた7歳の男の子だ。 父親は別に妻子があり、男の子はいわゆる婚外子である。 生まれて2年後に、自分の子だと父親が認知した。ところが、法務局は日本国籍を認めなかった。
 国籍法では、出生の時に父か母が日本人であれば、その子は日本国民とする、と定められている。 生まれた後に認知したのでは、出生のときに父が日本人だったことにならない。だから、子どもには日本国籍を与えられない。それが役所の解釈だった。
 生まれた後の認知でも、両親が結婚すれば子どもは国籍を得られるという条文もある。 だが、今回の場合、東京地裁は、父母が法律上の結婚をしていないので、あてはまらなかった、 というだけで、認知された子が国籍を得られないのは法の下の平等に反すると判断した。
 結論は妥当だ。現代の結婚はさまざまな形がある。事実婚の国会議員カップルさえいる。 政府の統計によると、日本で生まれる子の50人に1人は婚外子だ。
 だが判決にはひとつ疑問がある。内縁関係の実態があるのを国籍を認める理由にしたことだ。 この父親は週末に母と子の家に泊まり、幼稚園の行事にも参加していた。 しかし、例えば数ヶ月に1回しか来なかったり、認知しても養育費を払わなかったりした場合は、国籍を認めないのか。あいまいさが残る。
 ここは、生まれた後の認知であっても国籍を認めるように国会が法律を改正すべきだ。 認知が出生前だろうと、出生後だろうと父親が日本人であることに変わりはない。 国会がすぐに反応できなければ、当面、最高裁が司法の場で、こうした子どもたちの人権を守るべきだ。
 法務省は国籍を得るための偽装認知を招くと反論しているが,その時は国籍を取り消せばよい。 婚外子に対する差別をやめようという動きは様々な場で強まっている。 
 民法では法定相続分が法律上の夫婦の子の半分だ。この差別をなくそうという改正案を先月、野党が国会に提出した。
 婚外子が戸籍の続き柄の欄に「子」と書かれるのはプライバシー権の侵害だ、と東京地裁は昨年、判断した。 これを受けて法務省は「長女」「二男」などと書くよう規則を変えた。
 日本が批准している子どもの権利条約では、国は子どもの出生による差別をしてはいけないと定められている。 人と人とのつながりが国際的になり、家庭のあり方も多様な時代である。それに合うように、法律も変えなければならない。
(朝日 新聞)B


南の苦難 伝える試み
解放30年 ベトナムの光と影

 南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)が陥落し、ベトナム戦争が終結して30日で30年。 経済解放政策の下で暮らす若者にとって戦争はすでに歴史となった。 政府が描く「北による解放」という戦争観からは見えない「南」の民衆の姿を正面から取り上げる試みも見られ始められた。 (ホーチミン市=真田正明)

元ゲリラ告白/元将校の物語・・・・・・北の描いた「正史」風化

 米ヘリが数人の兵士を降ろしていった。1人が、南ベトナム解放民族戦線の女性ゲリラ、バイ・モさん(57)が仕掛けた地雷の真上に座った。 彼女は同僚の男性ゲリラと塹壕の中から様子をうかがっていた。
 米兵を殺せず
 66年4月ごろ、サイゴン北西約70キロのクチ。モさんは18歳だった。地下には解放戦線のトンネルが張り巡らされていた。
 米兵3人が、地雷の上の兵士を囲むように座った。真ん中で兵士がポケットから手紙と写真を取り出すと読んで破り捨てた。そして泣き出した。 ほかの兵士も泣いた。わずか数メートル先。モさんは地雷の点火装置を押せなかった。同僚に「自分が撃つぞ」とせかされた。だが、できなかった。  米兵は立ち去った。ちぎられた写真には赤ん坊と母親らしい女性が写っていた。英語の手紙の意味はわからなかったが、家族だろうと思った。
 同僚は一部始終を上層部に報告した。モさんは叱責された。「可哀想だった。米兵も駆り出された普通の人だ」−懸命に抗弁する。

ベトナム戦争中のバイ・モさんの写真
 テレビで放映
 この話を、かつては北の兵士だったドキュメンタリー監督バン・レさん(56)が取り上げ、2年ほど前、ホーチミン市のテレビで放映された。
 「英雄的な戦いは多くの苦難ももたらした。民衆が望んでいたのは戦争ではなく平和だ」。
 普通の人びとにとっての戦争に、ようやく日が当たるようになった。モさんは今では観光名所のクチ近くの村で暮らしている。 74年に結婚、3人の子どもがいる。クチ地区の女性部隊48人の生き残りは18人。3月下旬、8人が集まった。
 「南の政府がつくった戦略村から抜け出して解放戦線に加わった」「訓練はなし。武器も敵から奪ったものだった」
 「米軍の作戦はスパイ情報で事前にわかった」
 「私は米兵を10人以上は殺した」そう当時を語る彼女たちにも結婚,子供、そして孫と、一見平和に見える暮らしが訪れていた。
 北ベトナムの従軍記者だった作家タイン・ジャンさん(57)はホーチミン市に住み、戦争を題材に書き続けている。
  「パゴダに昇る月」という作品がある。南の将校だった主人公が戦後、社会主義教育を受ける再教育キャンプに送られている間に、 妻と子供は船で米国への脱出を試みるが、死んでしまう。主人公は開拓地に新たな生活を見いだし、 そこで解放戦線兵士の妻だった女性と知り合う。だが、周囲は結婚を認めない。
 最後は落選したが、文芸賞の候補になった。「南から見た戦争」にも薄日が射し始めた。

 融和狙う政府
 「サイゴン陥落はあと2年かかると考えていたが、南部の解放が予想より早く、75年4月、雨期前の作戦を決意した」
 3月下旬、サイゴン攻略作戦の司令官直属だったホアン・ズンさん(78)は記者会見で大きな地図を前に昨日のことのように語った30周年行事に引っ張りだこだ。
 別の日、南ベトナムの軍や警察の幹部だった4人も会見した。「再教育キャンプでは1日8時間は働いたが、きつくはなかった。 今は毎年、家族のいる米国へも行ける」。「南北融和」を演出する政府の意図が見える。
 戦後生まれが人口の半数を超えた。「サイゴン陥落30周年」は若い世代の興味をひかない。
 ホーチミン市の国立社会科学人文大学の学生(22)の父は軍医だった。叔父は戦死した。「子供の頃いろんな話を聞いたが、あまり覚えていない。 戦争のことは高校の70分授業で2回勉強しただけ」と話す。解放戦争の「正史」にも歳月の波が寄せる。


ベトナム首相、米へ
6〜7月 戦争後初、外交を強化

 【ホーチミン市=貝瀬明彦】 ベトナムのファン・バン・カイ首相が6月下旬にも同国の首脳としては75年のベトナム戦争終結後初めて米国を公式訪問する見通しになった。 95年の国交正常化10周年を機に外交関係をより安定させるとともに、経済発展に向け米国からの投資を呼び込むねらいがあるとみられる。
 外交筋によると、6月下旬から7月上旬にかけての予定で、外相から主要閣僚のほか国内の有力企業の代表らも同行する。
 ベトナムにとって「経済発展には米国の存在が欠かせない」(ベトナム外務省筋)。 01年に通商協定が発効し、03年には米国は最大の輸出相手国になったが、米国からの直接投資は8位にとどまっている。
 カイ首相は今回の訪米で米国側により活発な投資を促すとともに、世界貿易機関(WTO)への早期加盟についても支持を訴えるとみられる。

 ベトナム戦争
 東西冷戦が深まる中、米ソの対立を局地化しようとの戦略からベトナムは南北に分割された。 ベトナム戦争は共産主義を恐れる米軍の戦いであり、分割されたベトナムの民族主義の戦いでもあった。 米国が後押しした南の政府は腐敗して頼りにならず、米国は初の敗戦を経験した。 68年の「テト(旧正月)攻勢」後、大きな犠牲を出した米国と南に対して北側が主導権を握った。 米国と南の死傷者は、100万人、解放勢力側が300万人近く、1000万人近くが難民となった。
(朝日 新聞)C


天声人語

 ―何人も、国籍を離脱する自由を侵されない。この憲法22条に着目したのが、井上ひさしさんの小説「吉里吉里人」だった。 農業問題に不満を持った東北の寒村が、日本国憲法をそっくりもらい日本から分離独立してしまおうという話だ。
 ▼ 現実の世界では、国籍の離脱には相当の覚悟や準備が要るだろう。一方で、国際化を反映して、日本の国籍を求めて訴える人が続いている。
 ▼ 両親が法律上の結婚をしているかどうかで子どもの国籍取得を区別する国籍法の規定は違憲とする判決を、東京地裁が出した。  法の下の平等を定めた14条に違反する、と。
 ▼ 訴えた男児は7歳、母はフィリピン人、父が日本人だ。「3人は、完全同居ではないものの内縁関係にあり、 家族としての共同生活と評価できる」とした。「評価観が多様化している今、『父母の婚姻関係は正常でない』などと言うことはできない」とも指摘した。 国籍認定の幅を広げる判決だ。
 ▼ 国籍法は84年に改定された。それまでは条件の一つは「父が日本国民」だった。「父または母が」となって20年ほどにしかならない。 日本の社会と時代とを映す鏡のような法律だ。
 ▼ 「私たちは国籍を、日本人でないことも、選べる。逆に言うと・・・・日本人であることを選び直さなきゃだめなんですね」。 井上さんは以前、「吉里吉里人」に込めた思いを本紙に語っていた。多くの日本人にとっては、生まれて以来の国籍は、 空気のような存在だが、選び直すと考えれば、その重さが少しは実感できる。 
(朝日 新聞)D


読者の声

 初夏の陽気に草木もいきいきとしてきました。
 小さなダオ花」をインターネットで読ませていただいています。 数年前からベトナムの方(ベトナムからの留学生・アメリカ国籍のベトナム人・在日のベトナム人)と時々お会いする機会があり、 いろいろと考えさせられています。長くご支援を続けてこられた皆様に頭の下がる思いです。
 他にも送っているところがある関係で少額で申し訳ありません。何かのお役に立てばと思い送らせていただきました。 皆様のご健康とご活躍をお祈りしています。

 資料
 @ 「あけぼの」2005年5月号
 A 「愛」アジア福祉教育財団発行 2004年12月
 B 朝日新聞 社説 2005年4月15日 
 C 朝日新聞 2005年4月29日
 D 朝日新聞 2005年4月15日


あとがき

 本号では、折しも話題になった国籍に関する記事を掲載しました。皆様方の多くにとっては、国籍は、「空気のような存在」かもしれません。 しかし、同じ地域社会の住民の中にも、日本国籍をもたず、そのことによる不利益にしばしば直面し、 しかも日本国籍を取得できないか、あるいは取得しないことを選択し続けているという人びとが、少なからずいらっしゃいます。 その人びとの中に、本会が親しい関係を築いているベトナム出身の人びとも含まれます。
 日本には、かつて「インドシナ難民」と呼ばれた人びととその子・孫たちが、2万人ほど生活しています。 その多くが、「定住者」という在留資格で、3年ごとに入国管理局に出向いて在留期間の更新を行うことを義務づけられています。 彼らは、故国において亡命者として国籍を剥奪されている人びと、およびその子・孫たちであるにもかかわらず、 日本において、まるで故国の国籍があるかのように、一般の外国人と同様に取り扱われています。
 「インドシナ難民」の子どもたちの多くは、日本で生まれ育ちながらも、「無国籍」のまま、就学し、歳を重ねています。 そして、ほどなく、就職という大きな壁にぶつかります。 社会の無理解のなか、3Kの職、あるいはフリーターに甘んじることになりかねません。 また、秀でた才能や能力の持ち主の場合も、海外での研修、留学、遠征試合などに際して、 「無国籍」ゆえにパスポートの発給を受けられず、級友・同僚たちにおくれをとり、涙をのむ、という例は決して少なくありません。 もっとも子どもたちは、20歳に達すれば、個人として帰化の申請を行うことができます。 しかし、よく言われるように、帰化申請の過程は、煩瑣な手続きと永いながい審査期間とを要します。 しかも皮肉なことに、将来の夢を見据えて勉学に励む若者たちほど、帰化の認可を得られにくいという現実もあります。 法務局は、在学中の若者たちに対しては、生活力がないという理由で帰化を認めないのです。 こうして彼らは、勉学に励んだ後もなお「無国籍」として、やはり就職の大きな壁にぶつかることになります。
 国籍を得られないとは、なんと不安定な、疎外された状態でしょうか。本会では、今後もこの問題について、 行政に、社会に、必要な働きかけを行っていきたいと考えています。
(山本直美)

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