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小さなダオ花 17

ミラノ便り
天然ガス 成長の柱に
20世紀 どんな時代だったのか
清水の舞台 ベトナム色
コミュニティ問題を考えよう
あとがき



ミラノ便り
皆川一夫

 2年半ほど勤務したパプアニューギニア(PNG)から、ミラノに転勤になって、1年あまりが過ぎた。 PNGはとても治安が悪くて散歩もできず家族は大変だったので、自由に散歩のできる国へ転勤となっただけで家族は大喜びだった。
 8才の息子は日本人学校に通っている。学校はアパートの目の前で、歩いて2分。 昼間、校庭で友だちといっしょに遊ぶ元気な息子の声がアパートの部屋にまで聞こえてくる。 息子はPNGでは英語の国際学校に通っていた。 毎日英語で勉強し遊んで、家に帰ると私とは日本語で、ベトナム人の妻とはベトナム語で話していた。 ところが、ミラノに来てから息子は、家で妻とベトナム語を話さないようになった。 なぜだと聞くと、息子は「だって英語とベトナム語は似ているから、パプアの時は学校では英語を話して、家ではベトナム語を話したけど、 ここでは学校では日本語だし、日本語はベトナム語と似ていないから話しにくい」のだという。 ベトナム語と英語が似ているなどというのは、ふつうは「そんなバカな」と思うかもしれないが、たしかによく考えてみると、まず文章の構文、順番が似ている。 例えば、「私は本を読む」は英語でもベトナム語でも「私、読む、本」である。 そして発音も、単語はみな子音で終わり、単音節(ひとつの単語に母音がひとつ)が多く、 単語のほとんどが母音で終わる複音節(ひとつの単語に母音が複数)の日本語とは大違いだ。 もちろん、文字もアルファベットだからどちらも同じだ。 妻はがっかりだけれど、息子の言うことにも一理あるので、無理にベトナム語を話せとは言わないことにした。
 さて、ミラノといえばファッションやオペラなどが有名で、現にこの関係で日本から多くの人たちが勉強などで来ている。 だから、街はきれいで華やかだろうと思うと必ずしもそうではない。 有名な大聖堂(ドゥオーモ)のある中心部は別として、それ以外では、犬の糞やゴミ、乱雑な落書きが多くてとてもきれいとはいえない。 地下鉄も随分と汚いし、ジプシーの物乞いや泥棒もとても多い。 日本、隣のスイスやドイツなどとは随分と違い、むしろ前にいたPNGに雰囲気が似ているほどだ。
 公園も同様で、しかも緑が少ないので、息子はがっかりしている。川や湖などの水の風景がないのも街の景観に潤いが欠ける原因のひとつのようだ。
 でも、ミラノはなにかと面白い所だ。芸術が花咲く先進国のイメージとはかけ離れたことがらが多い。 同じ先進国といっても、前に住んだことのあるニューヨークやパリなどとは随分違う。 まず、ストがやたらと多い。地下鉄やバス、市電、列車、飛行機、空港などのストが頻繁で、去年は病院や学校、裁判所のストまであった。 つい最近では、怒った乗客による駅や線路の占拠もあり、さらに、スカラ座職員組合のストが急に決行され、楽しみにしていたオペラ鑑賞がふいになってしまった。 列車の脱線や衝突事故も多いし、公共交通はあまりあてにできない。 銀行や郵便局はサービスが悪くて遅く、あまり信用されていない。 キャッシュカードをもらうまでに普通2ヶ月以上かかるし、やっともらっても磁気入力されていなくて使えないなどということも多い。 口座を持っているだけで月になんだかんだと手数料を1万円も取られたりする。 このせいか、スーパーでの支払いは大体がみな現金でやっている。だから、スーパーのレジはいつも混んでいる。 転勤の時に私が日本から送った船便小包は4ヶ月以上かかってやっと着いた。 時々なくなることもあるそうだから、届いただけましと思わなければいけないようだ。
   物価は、レストランがバカ高いことを除けば、大体は日本と同じか少し高めの感じだ。 ただ、値段はみな20%の消費税込みだから、しょうがないのかもしれない。 それでも、野菜や酒、米は日本より安い。 酒税はゼロに等しいようで、ビールでもワインでも日本の3分の1くらいだ。 だから酒好きの私には天国だが、不思議にイタリアには酔っ払いはいない。 外で飲むとスーパーで買う値段の10倍もするので、みな家で飲むからかもしれない。 米は現地産だ。北イタリアでは昔からリゾットを食べるので米作りが盛んで、ミラノの回りには水田地帯が広がっている。 このためか、夏になると蚊が異常に多く発生し、日本の蚊取り線香やベープマットがよく売れる。 暑いのにエアコンや網戸は普通ないから、蚊は家の中に入り放題。 高級レストランで蚊取り線香の煙にまかれながら食事するというのはミラノの夏の風物詩だ。 イタリアの物価は、3年前に通貨がユーロに代わってから2倍近くにもなったそうだ。 特にミラノは高い。経済状況が悪くて仕事は少なく、給料は上がらないのに物価が上がるから、みな生活が苦しく大変そうだ。
 しかし、こうした物価高のミラノに外国人労働者の姿が多く目につく。 一番多いのはフィリピン人で3万人以上もいる。主に家政婦などをやっている。 次に多いのはエジプト人、エクアドル人、ペルー人、モロッコ人で、レストランや建設現場で働く人が多い。 イタリア全土では、220〜260万人の移民者(EU諸国外)がいて、その数はここ5年ほどの間に2倍となり、毎年増えている。 多い国別で見ると、ルーマニア(全体の1割以上)、アルバニア、モロッコ、ウクライナ、中国、フィリピンの順となっており、 その6割は北部、3割が中部、1割が南部に分布している。 不法移民も年間10万人前後が主に北アフリカなどから海路で南部を通じて流入していて、政府は対応に頭を痛めている。 イタリアの失業率は全国平均9%弱で決して低くないが、 労働条件のきつい工事現場などイタリア人が嫌がる分野では外国人が働く余地があるので、彼らは危険を冒してやって来るようだ。 イタリア全人口の4%を占めるようになっている移民たちは文化や宗教的背景も多様で、 カソリックのイタリアが彼らをどのように受け入れていくかが大きな課題となっている。 
 でも、元来がイタリアは、ギリシャ文明を通じ東の世界と、そしてスペイン、フランス、 オーストリアによる支配などを通じてヨーロッパ諸国民と濃厚に交わりつつ形成されてきた国だ。 イタリア人の風貌を見るとこれが誠に顕著で、ピノキオの国だけあって一般に鼻の尖った人が多いが、 背の高い人や低い人、肌の白い人やそうでない人、髪の毛が黒い人、紅い人、金色の人、目の黒い人、青い人、灰色の人、 などなど実に多彩で、多様な人種が混交して出来た民族であることがよく分かる。 だから、新たな移民たちもこうしたイタリア独特な歴史的混交の流れの中で自然に吸収されていくのかもしれない。 「非先進国的」なことがらも、いわばこうしたイタリア独特の融通性や柔軟性の表れなのかもしれない。 素晴らしいオペラやファッションなどの芸術が生まれ、育つのもこうした自由な土壌があるからだろう。 だから、「先進国的」な日本がイタリアを真似ることはそう簡単なことではなさそうだ。
 イタリアの国民文学者マンゾーニはその代表作「いいなずけ」(1842年)の中で登場人物のクリストフォロ神父を通じて、 「試練は神の意思で与えられるものであり、それには我慢と信頼をもって、憎しみを持たずに耐えなければならない。 そうすれば、今起きていることがらは全てが最善のためであったということの分かる日が必ずやって来る」と述べている。 イタリアの人々は、基本的にはこうした人生哲学で、当面する問題に対応していくのかもしれず、日本はこうした点をイタリアに学ぶ必要があるのかもしれない。
 ミラノでこんなことを考えながら、私はベトナムの国民文学者グエンズーの名作「キンヴァンキュウ」(1813年)のことを考える。 マンゾーニもグエンズーも同じ頃に優れた文学作品の創造を通じて民族の魂としての言葉を結晶させた偶然性の不思議さに感銘を覚えながら(国の地理的形もよく似ている)、 ふと、今年はサイゴン陥落後30年の歴史的年であることを思い起こす。 この30年の間、天地が逆転するようなことが世界的規模で随分たくさん生じた。 難民として日本へやってきたインドシナの人々にとっても試練に満ちた30年であったろう。 そして、個人的には、今年は今の妻とサイゴンで結婚して10年目となる記念すべき年だ。
 そんなわけで今年は、30年以上も前に留学した懐かしのサイゴンに10年ぶりに戻り、 これまでのことを振り返りつつ新たな将来を見据えることができるような機会が与えられたら嬉しいものと、心より願っている。
(2005年2月記)
※皆川一夫氏は元UNHCR駐日事務所次長(1984〜1986年)でいらっしゃいました。 ご寄稿は2月に頂きましたが、編集上の理由から5月号の掲載となってしまいましたことを、深くお詫び申し上げます。(編集部)


天然ガス 成長の柱に
ベトナム 国内敷設ずみ、「構想」につよい関心

 ハノイの町中を歩いていて、練炭を配達する光景によくぶつかり、驚きもし懐かしくもなった。 ひとつの国のある一面でアジアのエネルギー問題を代表させるのは無謀であることは十分承知だが、それも百聞は一見にしかずとベトナムの事情に触れてみることにした。 ベトナムには日本の日石三菱の子会社が開発した、いわゆる自主開発油田があり、さらに石炭輸入では日本との関係が深いという事情からだった。
   東南アジアのエネルギー問題を考える時、先進国の見方はそのままでは通じない。 ベトナムの練炭はその象徴だろう。生活エネルギーとしては、特に農村部では9割が薪、ワラ、練炭などだという。 ベトナムの一次エネルギーの生産は石油換算で約1100万トン(1996年)で、ほぼ日本の2%にあたる量を占めるに過ぎない。 ひとり当たりのエネルギー消費量をみてもベトナムは同約150キロで、日本人ひとりの約4%を消費しているだけだ(エネルギー統計年鑑)。
 まさにこれからの経済成長でエネルギー消費拡大が急速になることが確実ということもできる。
 訪れたハノイの中心部にあるペトロベトナム(ベトナム石油・ガス公社)で、グエン・ヒエップ副総裁の話を聞くことができたが、 「生産される石油はほぼ全量輸出、石油製品はほぼ全量輸入している」という。 しかし、ベトナムは90年以降は石油の純輸出国というのも事実だ。 国内に十分な石油精製施設がないための結果であり、エネルギー関連のインフラの立ち遅れが目立つ。
 それでもエネルギー消費量の伸びは高い。 93年から96年の年間消費の伸びは約11%。 アジア経済危機で一時停滞していたが、今年あたりから再び着実に回復基調に入ってきているという。
 従ってエネルギーの確保はベトナムにとって成長のカギだが、なかでも期待は天然ガスだ。 主力は南部海上のバクホー油田のガスで、すでに陸上までパイプラインが敷設され、発電用の燃料になっているという。
   副総裁らはトランス・アセアン・パイプライン構想にも強い関心を示した。 「参加の用意あり」というのだが、輸出、輸入の両面で近隣国との関係強化が必要という認識なのだろうか。 しかし、問題も少なくない。アジアのエネルギー問題の共通問題といわれるエネルギー価格問題だ。 エネルギー価格は政策的に低価額で抑えられている。外資との合弁企業であるベトナムLPG(液化石油ガス)の消費量は年間25万トン程度。 うち2万トン程度が輸入となるが、価格は輸入LPGの方がトン当たり百ドルほど高い。国内価格が抑えられている結果だ。大きな問題とは思われなかったが、 実はこれが石油・ガスの開発を遅らせる結果になっているのだ。
 開発にはメジャー(国際石油資本)などの協力が欠かせない。 しかし、外資は国内価格の関係で開発をためらってしまう。資金回収の見通しが立たないからだといわれている。エネルギー問題はそう単純ではない。
 ペトロベトナムからは「わが国には原子力発電の計画もある」という話も出た。 2017年実現のめどで今、議論が高まっているという。垣間見たベトナムだけからでも、アジアのエネルギー問題から目が離せないことが分かる。 
(読売 新聞)@


20世紀 どんな時代だったのか
戦後体制
   濃霧の夜空へ、米空母コンステレーションから、攻撃戦闘機スカイホーク3機が飛び立った。 しんがりはエブ・アルバレス中尉(当時26歳)。厚い雲が視界を遮り、暴風雨に機体が揺れた。 高度約1万メートル。雷雲を抜け、北ベトナム・ロン沖の上空に向かった。
 1964年8月4日、北ベトナム軍艦船や基地に対する空爆が始まろうとしていた。 「トンキン湾の米軍駆逐艦マドックスに対する北ベトナム軍の魚雷攻撃」への報復と聞かされた。 「敵は本当にいるのか」「どこを爆撃するんだ」・・・・無線機から混信した仲間の声が聞こえてくる。 信号弾で湾上を照らすのが中尉の任務。光る海面に無数のロケット弾が吸い込まれていく。
 当時のロバート・マクナマラ国防長官が「(報復のきっかけとなった)北ベトナム軍による2度目(8月4日)の攻撃はなかった」と95年に著書で暴露、物議をかもす。
 シャープ海軍大将は作戦直後、長官に「北ベトナムの攻撃がなかった可能性が、わずかだがある」と告げていた。 航行中の北ベトナム軍用船の音を、悪天候と緊張のためレーダー分析兵が魚雷攻撃と誤認したのかもしれなかった。
 だが、「公海上の船への攻撃を見逃せば共産勢力になめられる」という冷戦の論理が軍部を支配、一片の懸念は退けられた。 駆逐艦へのレーダー照射と、空軍機への対空砲発射などを根拠に、長官は「攻撃は存在した」とジョンソン大統領に報告した。
米兵捕虜第1号になったアルパレス中尉
 ベトナムに冷淡だった米世論は、この事件を機に「北の脅威」に強く反応するようになる。そして、大統領演説が報復攻撃へ「ゴー」を出す。
 「政府は自由を支援し、東南アジア和平の防衛にあらゆる手段を尽くす決意であり、それを明記した決議を即刻可決するよう議会に要請する」
 連邦議会は、8月7日、大統領の決意を承認する「トンキン湾決議」を採択した。この決議は事実上の宣戦布告だった。 これを受け、約1万6千人だった南ベトナム駐留米軍は、最大54万人(69年6月)にまで膨らんでいく。
 政権は他方、北ベトナムの背後に、冷戦のもう一方の主役・ソ連と中国の影を見ていた。大統領はホットラインで「戦争を拡大する意図はない」とソ連へ伝えた。
 国家安全保障会議の元メンバーでジョージア大学教授のロック・ジョンソン氏(政治学)は、「本格介入や北への地上軍投入が、 中国の進攻、ソ連の直接介入を招き、第三次大戦を招く、との恐怖感が常に政府にあった」と語る。
 この結果、一気に大規模な軍事行動に踏み切れず、段階的な兵力投入を続けざるをえなくなり、米国は戦争の底なし沼へ引きずりこまれる。
 事件の翌5日午後2時半、アルバレス中尉は、中国国境に近いホンガイ爆撃のため再び出撃、北側民兵組織の陣地を探索中、対空砲火で撃墜された。 危機一髪で機体から脱出したが民兵に捕まった。米捕虜第一号だった。
 孤独、粗末な食事、空腹、病気、拷問・・・・あらゆる苦しみを、61歳になったアルバレス氏は「間違いなく死ぬと思った」と顧みる。 73年のパリ協定後に釈放されるまで約8年半の収容所生活。生き延びられたのは「奇跡」のせいばかりではない。「自分との戦い」に勝ったと信じている。
 「北ベトナム軍の拷問は、米軍が罪の無いベトナム市民を殺し、病院や学校を爆撃した、と私にW自白≠ウせるためのものだった。 敵を利するウソをつかずに通し、繰り返される拷問に正気を保ち、 共産側の宣伝戦に利用されないための戦いだった」それが、失われた青春≠ヨの自分なりの回答である。
(ワシントン 林 路郎)
 トンキン湾事件 64年1月、米中央情報局(CIA)が秘密作戦計画34Aにより北ベトナム軍の基地、補給路への攻撃、レーダー網かく乱を開始。 8月2日、トンキン湾公海上にマドックスが展開。これを34Aの一環と見た北ベトナム軍が、同艦を魚雷攻撃。 4日にも魚雷攻撃が報告され、米国はこれを口実に攻撃を開始したが、現在では4日の攻撃はなかったとの説が有力。

連載の単行本化第3弾「日本の戦争」が発売されました。
(読売 新聞)A


清水の舞台 ベトナム色

 日本とベトナムの国交樹立30周年を記念して、京都市東山区の清水寺で2日夜、ベトナムのデザイナーによるファッションショーがあった。
 「清水の舞台」で知られる国宝の本堂をステージに、ベトナム人モデルが次々に登場。民族衣装のアオザイを素材にした約60着を披露した。
 仏壇販売大手のはせがわ(福岡市)が出資するホーチミン市のデパートが企画した。  清水寺には江戸時代を初め、ベトナムと貿易していた朱印船を描いた絵馬(国重要文化財)が奉納されるなどした。
(朝日 新聞)B


コミュニティ問題を考えよう
在日ベトナム人 世代別ワークショップ

 昨年12月から兵庫県の「生活復興のためのNPO活動事業」と難民事業本部の「コミュニティ活動支援事業」の二つの助成を受けて、 ワークショップを開催しています。このワークショップでは、ベトナム人コミュニティが抱える6つの問題を取り上げ、 各テーマについての経験者や有識者を中心に参加者どうしが語り合います。
  第一回は12月11日(土)に「いじめと非行について」、第二回は12月18日(土)に「麻薬・アルコール中毒について」、 第三回は今年1月15日(土)に「国際結婚について」、弟四回は1月29日「帰化、通名、本名」というテーマで、討論を進めました。 当初、計画の段階では、親の世代と子の世代の2グループ毎に討論を行う予定だったのですが、 予想外にベトナム人参加者が集まらず、結局はベトナム人の親の世代も子の世代や日本人参加者交えて一緒に討論する形になりました。 
 第一回は、非行に走った経験のある若いベトナム人青年の経験談を中心に話を進めました。 日本社会においてマイノリティであるベトナム人ということが青少年のメンタリティになんらかの影響を与えて、 非行に走る一因となっているのかと参加前は想像していたのですが、必ずしもそれが原因ではないということが分かりました。 人より目立ちたいという気持ちや、集団の心理の方が原因であるというお話でした。
 第二回では、薬物中毒から立ち直り、更生したベトナム人が参加し、来日してから薬物と出会い、その中毒から抜け出すまでの経緯について、勇気を持って話してくれました。 中毒症状は本当に苦しくて恐ろしいものであるということや、中毒者に他人が薬物使用を止めるように説得しても聞く耳を持たないということ、 一方で家族や親友が中毒者を見放さず、説得し続けるということが、中毒から立ち直る大きな力になるということを、経験から話してくれました。
 第三回は、テーマである国際結婚に関心のある人が多く、非常に盛り上がりました。若い世代のベトナム人からは、 日本人との結婚に対してもはや「国際結婚」という意識がなく、自然な結婚の形として考えられているという意見が出て、印象的でした。 日本に生まれ育ち、これからも暮らしていく若い世代が日本人と結婚するということはコミュニティとして容認せざるを得ないこと、また、両親からの反対に遭つた場合、 説得するためにお互いの文化を理解してもらう努力が必要だということが参加者の最終的な共通意見となりました。
 第四回では子どもにとってクラスの中で自分の名前だけがカタカナだけで表記されているというのが一人だけ浮き上がるようで、 心理的に負担があると意見が出たことが印象的です。大人の場合でも例えば病院の待合室で、ベトナム名で呼ばれると目立つため公の場では通名を使うといったように、 日本では「日本人と違う名前」で暮らすということがまだまだ自然にできない空気が残っているということが浮き彫りになりました。
 四回実施してみての感想としては、ベトナム人の若い世代の子どもたちが自分の意見を臆せず話してくれることに驚きました。 世代を超えて自分の意見を出し合い、自分たちのコミュニティのことを考えるのがこのイベントの趣旨ですから、 まさに願ったり叶ったりです。ただし、ベトナム人の参加者全体の数は毎回とても少ないのが大変残念です。 もっと多くの人が自分たちの問題に関心を持ち、討論をさらに活発なものにしてくれることを願っています。
(K.N)
NGOヴィエトニュースC


 2004年度協力者
こひつじ会、お告げのマリア会、カトリック志家教会、村越みどり、石館悦子、サレジアン・シスターズ、聖心の布教姉妹会、 甲斐節子、聖体奉仕会、福音の光修道会、東京カルメル会女子修道院、 アントニオ・ツゲル、レデンプトリスチン修道院(長崎)、聖クララ修道院(西宮)、 カトリック淳心会、コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会、お告げのフランシスコ姉妹会、 水上洋一郎、今井久子、堀口裕子、マリアの宣教者フランシスコ修道会東京第一修道院、その他数名の匿名希望者 (順不同、敬称略)

 私たちの小さな働きに日本中からご援助をいただけます喜びの中に、神様の摂理の偉大さを感じさせられます。 大きなご援助の「こひつじ会」をはじめ、難民定住委員会の初期より何時も定期的にお送りくださる方、佐渡島から暖かいご好意をお寄せくださる方など、 お一人おひとりに勇気づけられております。心から感謝申し上げますと共に、今後とも宜しくお願い申し上げます。

 資料
 @読売新聞 2000年9月27日 
 A読売新聞 1999年3月9日
 B朝日新聞 2003年12月3日 
 C「NGOヴィエトニュース」(NGOベトナム in KOBE発行)2005年3月号


あとがき

 今年は、太平洋戦争が終わって60年目に当たるということで、それにまつわるさまざまな歴史が見直されています。 60年目にしてはじめて見つかった資料もあるという報道もありました。 世界の人々も私たちも、凄まじい、そして悲しい戦争をしなければ、平和の尊さが分からなかったのでしょうか。 幸せに生きることを願いながら、なぜ全く逆の方向を目指して進んでいったのでしょうか。 目的達成のためには、非人間的なことも行われる戦争に対して、今までよりももっと声をあげなければならないと思います。
 さて、今回「小さなダオ花」にミラノからご寄稿下さった皆川様に感謝しております。 世界の動きや日本の状況を客観的にご覧になれる状況での国際感覚が、私たちにも良い刺激になったと思います。
 他の記事からも多くの重要な問題が提起されていることに気付きます。具体的にはコミュニティー、家庭、結婚など、人間の大事な生き方の根本に触れられています。 なかでも若い世代のベトナム人たちが、日本人との結婚をもはや国際結婚とは意識せず、自然な流れの中で体験されているということが印象的でした。
 戦いとか差別とか、マイナスに働く考えはますます狭められ、自由も平和もない穴の中に閉じ込められてしまいます。 すべてを心地よい方向に導いてくれるのは、本当の優しさ、愛情の深さだと思います。 心には本来国境もなく、厚い壁があるわけではありません。 しかし、自分自身を見ていると、ある時何かのきっかけでそこに壁を築いてしまっていることに気付きます。 それがやがて戦いや差別意識などマイナス思考になっていったとき、悲劇的な結果をもたらすことになってしまうのでしょう。 個人の自由と幸せが家庭やコミュニティーの自由と幸せにつながって、こころの底から生きていると実感できるような流れを作っていけたらと願っています。
(中里昭子)

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