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小さなダオ花 13

苦難を乗り越えて
悼 元サイゴン病院医師
ラオスで死亡弟の遺骨30年ぶりに
経済で依存度高く
不発弾の眠る国
訃報
カンボジア義肢学校アフガンから留学
寺子屋にカンボジアの未来
あとがき



苦難を乗り越えて


 私は22年前に難民として、故郷であるベトナムを捨てて、この日本にきました。 そして1991年(平成3年)の4月に日本に帰化し、名前を石田建に変えました。
 南ベトナムが戦争に負けたとき、陸軍大尉であった私は、北政府に捕らえられ牢獄に入れられました。 そこで共産政府の思想改造教育というより精神的苦痛を負わされた上、きつい労働をさせられましたが、5年半後に一時釈放されました。 一時釈放というのは、いつでもまた再び逮捕されるということです。 月に一度、政府に出頭しなければならないなど、制約も多く、私は将来を悲観して、息子たちのために祖国から脱出する決心をしました。 私は危険を乗り越え、舟で海へ出て国境を脱出することに成功しましたが、 台風にあって遭難してしまい、死を待っているときに、幸運にも日本の貨物船に救助されました。
 日本に来て、日本語や日本の社会に適応するために、姫路定住促進センターに入所し、 3ヶ月間の勉強をした後、日本社会に出ました。難しい日本語をたった3ヶ月しか勉強せずに、 日本の社会に出なければならない不安は相当なものでした。 私はどんなつらい仕事でも耐えられると自負していましたが、 最初の仕事は化学薬品をたくさん使う仕事で、体調を崩してしまいました。 罪の無い幼い子どもたちを連れて国を脱出した私の責任はたいへん重く、 万が一不幸になったら子どもたちはどうなるのかと考え、その会社をすぐに辞めました。 その後4回は仕事を変えまたしが、子どもたちにはお金の問題で進学できないということのないように、 新しい会社を選ぶ条件は残業が多いことでした。
 日本にきたとき、長男が14歳、一緒に育てた甥が13歳、次男が10歳、末の子が6歳でした。 子どもたちが何とか勉強できるように、入学の学年を引き下げることを要求した結果、前例がなかったのですが、 長男が6年、甥が5年、次男が4年、三男が1年に入学を許可されました。
 それでも長男はなかなか勉強が進んでいなかったようです。学校から帰って教科書を読もうとするのですが、 とても読めそうにないのを見て私の心が痛みました。何とか子どもたちを助けてやらないと、 ベトナムを脱出したことを後悔するに違いないと思って、子どもたちの勉強に力を入れました。
 まず教科書が読めるように、読めない漢字のすべてに読み仮名を書き入れました。 私も漢字が読めないので、辞書を調べてから書くよりほかに方法がありません。 そのため仕事がしんどくても、毎日、夜は11時、12時まで子どもたちと一緒に勉強しました。
 私の決心を見て、子どもたちも一生懸命勉強しました。その結果、長男は商船専門学校を卒業し、 船舶関係の会社に就職し、甥は工業高等学校を卒業して一流企業に入りました。 次男、三男も大学を卒業して独立し、それぞれ家庭を持って幸せに暮らしています。
 日本に来てから22年、つらいことがたくさんありましたが、幸せなこともたくさんあります。 いちばん幸せなことは、子どもたちが日本の優れた教育を受けられ、 日本の安定した社会の中で正しく成長したことです。本当に日本に住んでよかったと思います。
石田 建
 ベトナム難民として来日。1982年、姫路定住促進センター退所(18期生)。 2003年春、定年退職後、兵庫県住宅供給公社 播磨西事務所 嘱託として勤務するかたわら、同胞の相談助言に努めている。
@

 石田様
 大きな希望を実現し幸福な生活をなさっていらっしゃるご様子を、心から嬉しく思います。 私たちが関西でセミナーを開催する時、いつもご参加なさってくださったこと、 ある時はパネラーとして積極的にご意見を述べてくださったこと、ご自分のお子様は勿論のこと、 初めて来日した若者たちの進学のお世話をなさっていらしたことなどが今、懐かしく思い出されます。 今後ともますます幸せな日を送られますよう、お祈り申し上げます。
(事務局 田中悦子f.m.m.)


渡辺 栄さん
元サイゴン病院医師 9月15日死去

 洋光院越南仁栄居士」と書かれた位牌の脇で、額縁に納まった白髪の渡辺さんはほほ笑んでいた。 その横にはグエン・バン・チュー南ベトナム大統領(肩書きは当時)から贈られたベトナム語の感謝状が立てかけられていた。
 「医は仁術なり」。この言葉を胸に渡辺さんは66年、海外技術協力事業団(JAICAの前身)派遣の外科医として、戦火の南ベトナムに赴いた。 その前年には米海兵隊3500人がダナンに上陸するなど、空爆主体だった米国が泥沼の地上戦に突入していった時期だった。 68年の旧正月(ベトナム語でテト)には、初めて首都サイゴン(現ホーチミン市)で激しい市街戦が起きた。
 しかし、渡辺さんは「危険は承知のうえ」として任期途中からは夫人を日本から呼び寄せ、 75年にサイゴンが北ベトナム正規軍の入城で陥落するまで、国立サイゴン病院の指導医師として活躍した。
 東京に生まれ、戦前の満州(現中国東北部)に渡り、ハルビン軍医学校で学んだ渡辺さんにとって、 「診療報酬点数の計算に追われる」狭い島国での医師生活は、退屈きわまりないものだったに違いない。
 南ベトナムから一時帰国した折り、渡辺さんは請われて「サイゴンの日本人外科医師」(72年、時事通信社刊)という本を上梓した。 担ぎ込まれてくるベトナム庶民ばかりでなく、自ら投げた手りゅう弾で口も聞かない解放戦線の若い女性ゲリラなどを、医師の目で描いた。
 偶然ではあるが、渡辺さんの訃報を旅先のホーチミン市で知った。以前ベトナムを訪れた際、ベトナム戦争中に渡辺さんと親交のあった、残留日本兵という過去を持つ老人から、「ぜひバクシー(ベトナム語で医師)から話を聞くように」と言われていた。しかし、その機会を得ないまま渡辺さんは逝かれてしまった。  サイゴン陥落から四半世紀以上がたち、人口の6割が戦後生まれとなった現在のベトナム。 だが、渡辺さんがまいた種は、体制や世代を超えて、ベトナム南部の医療現場で「地の塩」として生き続けている。
【鈴江康二】
(毎日 新聞)A


ラオスで死亡 弟の遺骨30年ぶりに
米民主党・ディ―ン氏

 【ワシントン佐藤千矢子】
 04年米大統領選の民主党指名争いの首位を走るハワード・ディ―ン前バーモント州知事(55)=写真=の弟チャールズさんの遺骨が、 死亡から約30年たってラオス中部で発見されたと18日米国防省筋が明らかにした。 当時、南ベトナム戦争に反対する若者の一人だったと見られる同氏は旅行中にスパイ容疑でラオスの共産主義勢力に拘束され、殺害された。 イラク戦争反対を掲げるディ―ン候補が脚光を浴びる中、弟の遺骨が発見されたことは、不思議な偶然として関心を呼んでいる。
 AP通信によると、遺骨はハワイの米軍基地に運ばれ、身元確認検査を受けた後、米国本土に移送される。 ディ―ン候補は、遊説先のニューハンプシャー州で「長い道のりだった。 複雑な思いだが、つらい出来事がようやく終わろうとしていることに喜んでいる」と語った。 26日にハワイで開かれる遺骨の移送式典に出席する。
 ディ―ン候補は、裕福な投資銀行家を父に持つ4人兄弟の長兄で、チャールズさんは次兄。 ベトナム戦争中の74年、当時24歳だったチャールズさんは、 世界旅行中にオーストラリアの友人と共にラオスで共産主義勢力パテト・ラオス(ラオス愛国戦線)に捕らえられた。 米豪両政府は「2人は単なる旅行者」と抗議したが、数ヶ月の拘束の後、殺害された。 米国防総省の捕虜・行方不明兵の捜索チームが今月初め、2人の遺骨を発見したという。
(毎日 新聞)B


経済で依存度高く
インドシナ3国と米国

 ベインドシナ3国は近年、中国との経済関係を緊密化し、東南アジア諸国連合(ASEAN)の対中国政策をけん引している。 一方で、3国は経済面での対米依存度も高く、対テロ、民主化など、米国の価値観普及への協力も求められている。   【バンコク小松健一、竹之内満】

 ◇ カンボジア ◇
 「アメリカ合衆国カンボジア州」。経済の米国依存の高さを、そう自ちょう気味に表現するカンボジア政府関係者が多い。
 同国の国内総生産(GDP)の36%を占める縫製産業は、輸出総額13億jの約70%が米国向けだ。 従業員総数は22万人を超える。大部分が米jで給与を受け取り、 買い物から食事に至るまで広がったドル払い経済の原動力となっている。 カンボジア通貨リエルで生計を維持しているのは「公務員くらい」(情報省職員)とも言われる。
 米国は1999年、衣料品の米国への安定輸出を保証する輸入枠割当制度をカンボジアに適用したが、 労働環境の改善、労働組合の保護などに応じ輸入枠を上乗せする「ボーナス」を与えている。
 プノンペンで米国向けのセーターやTシャツを製造する会社のシンガポール人副社長、 タン・キム・テックさん(44)は「従業員トイレの数、休憩施設、専従組合員の数…。 カンボジアの法律ではなく米国の顔色を見ながら人事管理している」とため息をついた。 
 ◇ タイ ◇
 「《eシール》をぜひ、導入してほしい」。 バンコクで昨年10月に開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)に出席した米国パウエル国務長官は、タイの海運業者らと会い懇願した。 「その熱心さはビジネスマンの商談のようだった」と参加者の一人は苦笑する。
 eシールは電子チップを埋め込んだ信号発信装置で、インターネットなどを利用した海上輸送貨物の追跡監視を行う。 米国はAPECでテロ対策として導入を提案した。
 タイはベトナム戦争以来の米国同盟国で、現在も東南アジア最大の合同軍事演習「コブラ・ゴールド」を実施、 イスラム過激派の情報収集を米国と共同で行っている。米国は海上輸送の安全策でもタイを東南アジアの拠点と位置付け、 今年1月にはバンコク南部のラムチャバン港と米シアトル港で実験運用を開始。 4月にはトレーラーを積んだままコンテナをX線検査する施設がラムチャバン港に建設される。
 ただし、タイはeシール導入を見送り、衛星利用の全地球測位システム(GPS)による海上貨物の運航監視が主体となった。 タイ国家海運業評議会のパイブーン事務局長は「eシールは一枚250jもする。負担に耐えられない。 貿易関係は相手に要求することだけでなく、公平さも重要だ」と強調する。

 摩擦の一方、連携を摸索
 ◇ ベトナム ◇
 「ベトナム経済が米国の言いなりになることはない」。グエン・ティ・ホン・ミン副水産省は昨年、 米国との間で起きた「ナマズ戦争」について、そう強調した。01年に米越通商協定が発効し、 ベトナムは最盛期に生産量全体の約30%にあたる年間約2万トンのナマズを米国に輸出した。 しかし米国内業者の反発を受け米商務省はダンピングと認定し、切り身製品に40%近い関税を課した。
 「ナマズは昨年、輸出総額が22.5億j(約2360億円)だったが、今年は25億jを計画している。欧州や日本にも輸出拡大したい」。 米国との摩擦をめぐる同副水産相の発言は強気だ。しかし、言葉とは裏腹に、ベトナムは米国との包括的連携を摸索しつつある。
 旧南ベトナムを中心に海外に移住したベトナム人(越僑)は約300万人で、うち米国には80万人がいるとされる。 越僑がベトナムの親族らに送金する金額は25億jに上るといわれ、越僑のベトナムへの投資も増加傾向にある。 在米越僑がベトナムで配偶者を見つける帰省結婚が流行しており、 インターネットでは両国のベトナム人同士の出会い系サイトが最も人気を集めている。
 ◇ 米国の援助強化 ◇
 米国は東南アジアでの援助外交を強化するため、昨年6月、援助機関の米国際開発局(USAID)バンコク事務所を再開した。 バンコク事務所は95年、タイが援助対象国から脱したとして閉鎖されたが、 「東南アジアを包括的に見る地域事務所が必要であると判断した」(同事務所幹部)との理由で復活した。
 タイの新事務所はエイズや環境、人身売買問題など地域横断的な課題に取り組むが、 ラオス、ベトナムといった事務所未設置国への足がかりにしたい意図もうかがえる。
 同幹部は「カンボジアなど周辺国の活動は、交通の便やインフラの末整備で請託を受ける。 今日、タイそのものが周辺国への支援に関心を持っており、われわれの活動は容易になるはずだ」と話す。 職員は22人、03年には2800万j(約29億円)の予算を計上した。
(毎日 新聞)C


不発弾の眠る国
ラオス報告 作業、死と隣り合わせ

 ベトナム戦争後、ラオスでは不発弾で1万2000人が死傷している。98年、国連開発計画(UNDP)と国連児童基金(UNICEF)の支援で、 ラオス政府内に「UXO LAO」(ラオス不発弾プログラム)が設立された。 約600人のスタッフが、国土の約3分の1に当たる2861村に残る不発弾の除去や、事故回避の広報、教育を行っている。
 最も不発弾の多い地域の一つ、同国南部のセーコーン県ジャッカンニャイ村で、UXO LAOの除去作業を取材した。 現場は約20人が住む集落の隣の畑だ。近くに小学校もある。畑はくいとロープで20区画に区切られていた。 5人前後で1区画ずつ金属探知機で探し、11日間で半分を完了した。不発の砲弾4個を見つけた。
 スタッフの一人が、私にラオス語の文書を差し出して言った。「これにサインすれば、畑に入れるが、どうするか」。 死んでも文句を言わないという誓約書だった。
 サインをして、スタッフの後から畑に入った。中央付近で金属探知機を使っていたディンラボンさん(28)の説明を受けた。 「金属を感知したら、まずシャベルで掘ってみるんだ」。
 その時、50b離れた捜索中の畑に牛5頭が入ってきた。「危ない」。 思わず全員がスタッフの顔を見た。全員が無言で注視している。牛は30秒ほど歩き回り、出て行った。 スタッフは「よくあるんだ。放牧が多いからね。牛に入るなと言えないし」と話した。
 ディンラボンさんに「怖くないか」と聞くと、「初めは怖かった。でもこの仕事も4年目だから」と言う。 設立7年の組織にベテランはいない。大半が農家出身だ。
 20`ほど西へ移動した。森に到着すると、「踏み固められた所以外は歩かないように」と指示された。 多数の不発弾が残っているという。5分歩くと直径1bの穴の脇に小型の砲弾約10個が積んであった。 これから埋めて、爆発処理するという。
 200b引き返し、大型乗用車の脇にしゃがむように言われた。発火装置のケーブルが短く、いつも車を盾にして爆破するという。 スタッフをまねて、頭を両腕で抱えた。スタッフがスイッチを押すと空を裂くような爆音が響いた。 頭を上げると、爆風で木が揺れていた。
 起爆装置を解除する装置は高価でラオスにはない。小型爆弾は爆破処理し、大型爆弾は火薬で起爆装置付近を破壊し、 爆弾の中の火薬をかき出して処分する。しかし爆弾本体が爆発してしまうこともあり、 これまでにスタッフ2人が死亡、1人が片腕を失った。 右ほおにえぐれたような傷があるキンサヌーンさん(36)は「爆破処理中、金属片が飛んできた。 大した傷じゃないよ」と笑ってみせた。
 スタッフの月給は約1万5000円。地元の小学校教諭の5倍だ。作業で死亡した場合の給付金は給与の6ヶ月分だという。
【大治朋子、写真も】
(朝日 新聞)D


訃 報
シスター村岡のご帰天

 「シスター田中、お電話です」と夕の祈りを唱えるため聖堂に入ろうとしていた私は、呼び止められました。 電話の主は烏山のランさんで、半分泣き声でシスター村岡の死を告げるものでした。 あまりに突然のことでしたので私は驚きました。ご高齢とはいえ先日までお元気でいらしたので、想像ができませんでした。
 私がシスター村岡を知るようになったのは、今から二十年ほど前で、烏山のインドシナ難民たちを、 ジョージ神父様の手となり足となってお世話をしていらした時のことです。
 シスターは小さなお体で何時も柔和に真心込めて働いていらっしゃいました。 町役場に、福祉事務所に、学校に、就職探しにと、あの山道の多い烏山の町を、文字通り、 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、、、、、」ひたすらに難民たちのお世話に身を捧げられたお姿が目に浮かびます。 このお姿は、ベトナムの人たちにはもっと印象深かったことでしょう。
 烏山修道院のシスター長窪のお話では、最後までミサにあずかり、共同体の祈りを皆様とご一緒になさり、 その他の時間はお休みくださいとお勧めしても、何時もご自分のお部屋で静かに聖書をお読みになっていらしたそうです。 亡くなられる一週間前、食欲がなくて床につかれました。嚥下作用がうまく出来なかったようで、 シスター長窪はすぐにかかりつけの医院にお連れして、そこで初めて「苦しい」との言葉を聞かれたそうです。 医師のすすめにより救急車ですぐに南那須病院に搬送されましたが、 そのまま昏睡状態に入り、一週間後に息を引き取られたそうです。 シスター村岡の最期は、烏山修道院のシスターたちがよくご存知のことと思います。
 シスターは幼いときにご両親を亡くされたそうですが、目立つことなく静かに、 痒いところに手がとどくような思いやりのあるお世話をなさってくださいました。 シスターを私たちに与えてくださった神様、そして聖心の布教姉妹会のシスターたちに、心から感謝申し上げます。
 シスター村岡、本当にお疲れさまでした。これからは神様のお側で私たちを見守ってください。 心を込めて、ありがとう、そしてさようなら。
(事務局 田中悦子f.m.m.)


カンボジア義肢学校
アフガンから留学生
「地雷被害、共通の経験」

 地雷の被害に苦しむアフガニスタンからカンボジアの義肢養成学校に、初の留学生2人が入学して、義肢づくりの技術を習っている。 カルザイ政権による国づくりがはじまって2年がたつが、アフガンでは今も年間千人以上が地雷や不発弾で死傷している。 「同じ経験をしたカンボジアで学ぶことは励みになる」と厳しい授業に取り組んでいる。
 養成学校は、地雷被害者を支援する非政府組織(NGO)「カンボジア・トラスト」(本部英国)などが94年にプノンペンに開校した。 99年から外国人を受け入れミャンマー(ビルマ)、ラオス、スリランカなどのほか、今年は東ティモールからの留学生も初めて受け入れた。
 アフガンからの留学生はムハマド・サディク・モビビさん(28)とワヒド・トキンさん(23)。ムハマドさんは中部バーミヤン近郊の出身。 15年前、自宅が爆撃された時に負傷し、足が不自由だ。「周辺の山には今も地雷が残る。障害者も多いのに、支援がない。 彼らが働いたり自立したりするのは難しい」と話す。
 南部カンダハルから来たワヒドさんは「アフガンでも義肢は作られているが、技術が十分ではない」と言う。 「カンボジアは混乱から安定した国だし、ほかにも国づくりの途上にある国からの留学生がいる。 彼らの経験を学ぶことは精神的な励みになる」とも語った。2人は10月に入学、3年間学ぶ。
 カンボジアでも地雷や不発弾の被害は続いているが、内戦終結から10年以上がたち、地雷撤去や義肢製作の技術が向上した。 学校には義足利用者が通う診療所もあり、実習も経験できる。先進国にはない「利点」を生かすのが留学生受け入れの狙いだ。
(プノンペン=木村文)
(朝日 新聞)E


寺子屋にカンボジアの未来
志賀の栗本さんの活動が一冊に

 内戦が続いたカンボジアで子どもたちに教育を受けさせようと「寺子屋」づくりを続ける日本人がいる。 滋賀県近江八幡市出身の栗本英世さん(52)。40人でスタートした寺子屋は、16村に広がり5千人が学ぶまでになった。 なお100以上の村から開校要請がきているという。そんな活動が児童文学作家の手で一冊の本になった。=写真
 栗本さんは96年からカンボジアに住み、99年からタイ国境近くの村々に寺子屋を建て始めた。 お金のない子どもは学校に通えない。カンボジアが自ら国づくりを進めていけるようになるためには人材が何よりも大切だと考えたからだ。
 内戦で死んだり、難民として他国に移り住んだり、先生のなり手も不足している。 寺子屋づくりは、現地で先生を雇い、養成することから始まる。 それでも「本当に学びたい子が通ってくる寺子屋では、子どもたちが食い入るように先生の話を聞き、 "すいとり紙"のように吸収していく」と栗本さん。
 子どもたちを取り巻く環境は難しい。貧しさのあまり売られていく子、物乞いやスリになる子。 あちこちに埋まったままの地雷と隣り合わせの生活でもある。
 こうした栗本さんの活動を知り、興味を持った児童文学作家の今関信子さん(61)が、 00年7月に1週間カンボジアに滞在するなどして、本にした。
 「地雷の村で『寺子屋』づくり カンボジアひとりNGO栗本英世の挑戦」(PHP研究所)は小学校上級生以上に向けて、フリガナもふってある。 本体1300円。売上の一部は、子どもたちの支援に使われる予定だ。
(朝日 新聞)F
栗本英世さん


資料
@ 愛2001年12月(アジア福祉教育財団)
A 毎日新聞2003年11月15日
B 毎日新聞2003年11月20日
C 毎日新聞2004年2月15日
D 朝日新聞2003年2月20日
E 朝日新聞2003年12月27日
F 読売新聞2003年11月26日         


あとがき

 今年の夏を、皆様はどのように乗り切られましたでしょうか。そしてまた、オリンピックのご感想は?
 一年間の行事の中で、夏に思い出されることは数多くありますが、 戦争を少しでも知っている世代を中心に、多くの人が関心を寄せる広島、 長崎での原爆の痛みと核廃絶の願いを込めて行われる行事が、第一に挙げられるのではないでしょうか。
 人間は苦しみ無しに生きることはできませんが、戦争ほど大きな傷と苦しみを与えるものはありません。 もちろん現代人だけではなく、古くから記録の残っているものだけでも数え切れないほどの「戦い」が行われてきました。 一つの例として、皆さんもよくご存知のヘロドトスの「歴史」の中の一部を見てみたいと思います。
 「平和より戦争をえらぶほど無分別な人間がどこにおりましょうや。平和の時には子が父の葬いをする。 しかし戦いになれば、父が子を葬らねばならぬのじゃ。」(ギリシャ・ローマ名言集 65番 岩波文庫) これは深い意味を持つものですが、 まずはここから、戦争が起こったとき法的にそして話し合いでも解決できなくなってしまう人間の真実を、 現代にも目を向けて考えたいと思います。戦争によって破壊されたものは戻ってきません。 そして失われた命も。戦争が終わっても悲劇の幕は閉じられません。 戦争というものに反対し、平和を創りだすことに対してもっと真剣に考え関心を高めるために、 自分自身積極的にならなければと痛感しています。
 日本で過ごしていらっしゃるベトナムのみなさんともご一緒に、世界の中で起こっている戦争や、 人間として矛盾するような生き方などについて考え話し合っていきたいと思います。 日本で苦労していらっしゃることも私たちが理解を深めることができるように、伝えてくださるのは有り難いことです。 これからも、紙面を通してでも現状を把握し、お互いに本音で交流できるように努力していきたいと願っています。
 (今回は、訃報を載せましたが、お会いになったことがない方もどうぞお祈りください。 きっと天国から私たちを励まして下さることでしょう。)
(中里昭子)

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