BACK
小さなダオ花 12

夢と希望
高原に咲く「小パリ」
カムラン湾の補給利用要望
ベトナム北部投資加速
ヒエン君の近況
紙芝居で広がる世界
ベトナムの試練
読者の声
あとがき



夢と希望

グエン・スアン・ジュウ(ベトナム)

 私は15歳の時に、家族と日本にやって来ました。 初めての外国に足を踏みいれて、好奇心でいっぱいでした。 1997年2月に日本に到着しました。貧しい国からやって来た私は高い建物、高速道路や贅沢な生活に驚きました。 家族の再会は私にとってすごく幸運だと思いましたが、準備不足の私は恐怖感を感じ始めていました。
 私たち家族は、東京にある国際救援センターに入所しました。 全く日本語が分からない私は、これからどうやって日本で生活できるだろうと考えました。 そこで4ヶ月ほど日本語を猛勉強しましたが、日本人と接触する機会が少なかったので、日本語があまり上達しませんでした。 センターでの勉強が終った時、私は高校1年生の年齢でしたが、いろいろ考えて中学校に編入しました。
 初めて日本人だけの中で学校生活を送り、日本人の友達をたくさんつくろうと思いましたが、怖くて不安ばかりでした。 幸運にも熱心な先生と親切な日本人学生に出会って少し安心感がありましたが、学校生活は退屈で、孤独感を感じました。 今まで持っていた夢が消えてしまい、最後の学年になって、高校に進学せずに就職しようかなと思いました。 しかし、あの熱心な先生がいつも私を励ましてくださったおかげで高校に進学できました。 日本語も少しずつ理解できるようになり、楽しい高校生活が送れたのは本当によかったです。
 この前「現在のベトナムの姿」というビデオの中で、路上で勉強している少女の姿を見て、 今の自分自身はなんて幸運だろうと思いました。 また、自分の足で物を食べる体が不自由な少年の姿を目にして本当に気の毒に思いました。 貧しい生活から脱出できるように一生懸命頑張っている彼らにとても感激しました。 世界中に不幸な子供がたくさんいます。それぞれの国々は国民の生活を保護しなければなりません。 また、義務教育を導入し、眠っている才能を最大限に生かすことが国の発展にとって重要な政策であると思います。 しかし、発展途上国はまだ限界がありますので、世界中の国々の援助が必要です。 また、日本に住んでいる若者は彼らの立場になって考え直すべきだと思います。
 私は大学を出て、世界にいる不幸な子供たちに何ができるのかまだ分かりませんが、 世界が一つになって彼らに夢と希望を与えるべきだと考えています。 そして私たちも不幸な子供たちの立場になって、今の自分を考え直さなければなりません。 また、途中から日本にやってくる若者は日本語が不自由で思いどおりにならないかもしれませんが、 夢と希望を捨てずに頑張れば、いつか成功すると思います。
グエン・スアン・ジュウ(定住新聞)@


高原に咲く「小パリ」
林芙美子の「浮雲」の舞台

ベトナム・ダラット

 浮雲
 放浪の小説家林芙美子、晩年の傑作。 第二次大戦下、主人公ゆき子は義弟との不倫を逃れて仏領インドシナに渡り、 ベトナム南部の高原都市ダラットで既婚の農林研究員富岡と出会い、激しい恋に落ちる。 終戦後、東京で再会した二人は、ダラットでの恋情をひきずりながら、戦後の混乱と非情な現実の前に、 身も心も消耗し、破滅へと落ちていく。
花の街ダットは新婚旅行の人気スポットだ
 猛暑の続くベトナム。気温40度と、20年ぶりの熱波が襲ったハノイ、ホーチミン(旧サイゴン)を経て、ダラットに着いた。 標高1500bの市街地に入り、最初に目にしたのが、涼やかにたたずむアジサイの花だった。
 仏領インドシナ時代、旧サイゴンは「小パリ」と称された。その北方約300`のダラットは、年間平均気温20度前後。 フランス人が避暑地と保養を目的に、二十世紀初頭から開発、整備した高原都市だ。
 ランビアン山(標高2163b)が北にそびえ、人造のスアンフォン湖を包むように、 仏総督や将校専用だったホテル・ランビアン(現ソフィテル・ダラット・パレスダラット大教会)、 千近い欧風別荘が、松林と調和しながら点在する。  従軍作家として東南アジアを"転戦"していた林芙美子が、ダラットに滞在したのは1942年秋ごろと思われる。 当時ベトナムは進駐した日本軍とフランスの二重支配下にあった。
 「高原のダラットの街は、ゆき子の眼には空に写る蜃気楼のようにも見えた・・・・小径の方でボンソアと挨拶している女の声がしている」。 林は主人公のゆき子にダラットの印象をこう語らせ 「ゆき子はかつてこんな生活に恵まれた事がないだけに、極楽以上のものを感じかえって不安であった。 富豪の邸宅に留守中に上がり込んでいるような不安で空虚なものが心にかげって来る」と描写している。
 ゆき子と富岡は「巨木の常緑広葉樹が鬱蒼と繁っている」山道で、恋情を吐露しあう。小説を手がかりに、その山道をたどってみた。
 湖北岸からランビアン山への道は舗装され、一帯にはダラットの主力産品となった花の栽培のビニールハウスと野菜畑が広がる。 林芙美子が、長い年月をかけて根気よく自然に取り組む「フランスの大陸魂」と驚嘆した大樹海は痕跡すらとどめず、 ベトナム南部特有のレンガ色の赤土が痛々しく露出している。
 林芙美子は先の一節で、道ならぬ恋の結末への不安とともに、「留守中に上がりこんだ」日本軍の末路をも暗示したのかもしれない。 しかし、60年の歳月は、「富豪の邸宅」の主だったフランス人を去らせ、大森林をも消してしまった。
 天空の小パリ、ダラットはベトナム現代史で特殊な存在感を誇ってきた。 最後の皇帝バイダイはダラットを天領とし、離宮を造営した。 旧南ベトナムの政府要人たちも競って別荘を構え、ベトナム戦争時、南北両軍は破壊を控えた。
 皮肉にも、ダラットの受難は1976年の南北統一後に起きる。 統一直後の経済難に中央政府の官僚主義が重なり、別荘は事務所などに起用され、 高原を覆っていた樹海は燃料や耕地確保のため、切り倒された。 乱開発にブレーキがかかったのは政府が市場経済を柱とするドイモイ(刷新)政策を導入した1986年以後のこと。 最近は景観再生による観光都市化が進むが、 市民からは「利益優先の再開発は、ダラットの表情をどんどん変えていく」との不安が漏れる。
 過去一世紀、仏植民地、独立、対仏、対米戦争、統一と波乱のベトナム史を映してきたダラット。 異人種、異文化が交錯したこの高原都市自体が、湖面を流れる浮雲のような存在なのかもしれない。
(文と写真 大江 志伸) (読売 新聞)A


カムラン湾の補給利用要望
米軍艦 歓迎受けベトナム寄航

 【ホーチミン市=宇佐波雄策】米海軍のミサイルフリゲート艦「バンデグリフト」が入港したサイゴン港では10日、 ベトナム海軍などが同艦の乗組員を歓迎した。
 「サイゴン陥落」以来28年ぶりの米軍艦によるベトナム寄港について、 レイモンド・バーガート駐ベトナム米国大使は「両国の新たな軍事関係を示す」と発表した。
 記者会見したバーガート大使は「95年に米越は国交を正常化したが、軍事面は正常化できていなかった。 今後多くの米艦がベトナムに寄港することを望む」と語り、軍事交流を活発化させたい意向を示した。
 また大使は「米国はベトナムに基地を造って存在感を示すようなことはしない」と述べ、 米軍が常駐する方針はないことを確認しつつ、ベトナム南部の要衝カムラン湾については、 「米艦が寄港を増やした際に燃料や水の補給に利用できればいい」と述べた。
 サイゴン港では、ベトナム国防省や外務省の高官、米国大使館、領事館スタッフが出迎え、 ベトナム海軍兵や民族衣装のアオザイ姿の地元女性が乗組員たちに花束を渡した。
 艦上ではリチャード・ロジャース艦長は「戦後初めて入港する米海軍の艦長として誇りに思う」 「乗組員は全員興奮気味で朝早くから起きてはしゃいでいた」と語った。同艦の米兵の大半はベトナム戦争を知らない若い世代。 ある乗組員(31)は「米艦がベトナムに戻る初航海に参加できてとてもうれしい」と語った。 乗組員らは同日夕、市内中心部にあるホーチミン記念公園を訪ね、花束などをささげた。
 ベトナム政府側のこの日の対応は、中国や米国嫌いの党内保守派に配慮してか、 質素な歓迎に徹し、一般市民らは港に入ることができず、大半の市民は米艦の入港を知らなかった。
(朝日 新聞)B


ベトナム北部 投資加速
中国南部に隣接 分業化で利点

 ベトナム北部のハノイ周辺地域に対して、日本などからの海外投資が動き始めた。 部品の調達や商品の輸出にあたり、現地の安いコストと、中国・広東省などの華南地域に隣接する地の利が注目されている。 中国の一大生産基地、華南は国境を超えて膨張しつつある。  (ハノイ=吉岡桂子)

 ハノイ市中心部から車で30分。ノイバイ空港に近いタンロン工業団地で約3年ぶりの拡張工事が今春、始まった。 04年9月には6割増しの195fまで広がる。
 開発した住友商事は「華南に近い立地を有利とみたが進出が増えた。 中国沿岸部のほぼ半分の賃金なので、中国との分業を考えた戦略にも有効」(海外工業団地部)と売り込む。 ベトナム政府も北部地域の港湾整備や、北部と中越国境地域などを結ぶ道路の改善を急ぐ。
 松下電器産業は10月から、タンロン団地でガステーブルなど家電の生産を始める。 南部ホーチミンにも音響関係の工場があるが、労費がさらに安く、広東省に集積する家電部品が調達しやすい環境に目をつけた。
 02年春にはタンロンからインクジェットプリンターを初出荷したキャノンは、 8ヶ所の工場を持つ中国への一極集中に対する「リスクヘッジ」の意味からも進出を決めた。 「ホーチミンより資金は安いし、香港に近いので、華南工場周辺から部品を船で調達しやすい」(景山幸郎・キャノンベトナム社長)
 野村證券などが手がけた北部の主要港、ハイフォンに近い「野村ハイフォン工業団地」は日系のほか中国、 台湾、香港、韓国企業なども進出し始めた。 アジア通貨危機の影響や道路など社会基盤の不備から00年までは「開業休業状態」だったが、現在は毎月1件の進出が決まる。 01年に米越通商協定が発効、米国との経済が正常化したことを受け、 中国企業自身も進出、製品や輸出先に応じた分業体制を築きつつある。
 ベトナムへの累計海外投資の391億jのうち、産業集積がある南部ホーチミンが6割、劣勢だった北部への投資は、 中国経済の勢いを受けて01年ごろから動き出した。
 中国各地の産業調査を続ける関満博・一橋大教授は「今後も中国経済の存在感が強まることを考えると、 地勢、コスト、域内でのバランスなど様々な要因から、中国と隣接する北部ベトナムの重要性が強まる」と指摘している。
(朝日 新聞)C


ヒエン君の近況

 ベトナム友好会の皆様
 いつもお世話になっております。心から感謝しています。
 お正月にお会いして以来、シスターと皆様はお元気でしょうか。 ベトナムに来てから何のお知らせもせず本当に申し訳ありません。 東京は変化の激しい所なので、僕のいない間に変わったことが多いことでしょうね。なんだか寂しさを感じます。
 僕は矢崎ハイフォンで仕事に頑張っています。 先日は今年からベトナム国内の販売が始まるので、トヨタさんに矢崎の製品を買ってもらうための見積もりを作りました。 なかなか難しい仕事で、聞きなれない日本語が多くて大変でしたが一生懸命作りました。 会社の方も僕が短期間で仕事ができたことを褒めてくれました。とても嬉しいことでした。 現在、自分の仕事を追いかけて今やっていることが僕の将来につながっていると信じています。
 これからどのように生きていったらよいか考えて何回も落ち込むこともありました。 そんな時、いつも皆様のご援助を思うと頑張る力が湧いてきました。 現在僕は日本人になりましたが現地採用なので、日本人扱いではなく、またベトナム人扱いでもありません。 中間的存在です。日本人から少し冷たい対応をされたり、 ベトナム人たちとはあまり深く付き合えないようなことがあると心の拠り所がなく、どういう心構えで生きていけばよいのか迷います。 ここでも日本でのシスターたちと皆様のご親切で分け隔てなく僕に接してくれたことをとても幸せに思います。
 中には日本人でもベトナム人でも、とても僕に親切にしてくれる人もいます。 やはり人間は何人(人種)とかではなくてその"人"の人間性が大事なのだという気がします。 これから楽しいこと、つらいことがたくさんあると思います。いつも前向きに頑張ろうと思います。 日本で元気いっぱいのシスターの笑顔を心の中において、、、、烏山のシスターたちにも宜しくお伝えください。 またメールを送ります。皆様お体を大切にしてください。
ビエン・ミン・ヒエン


紙芝居で広がる世界
ベトナムとの交流会も

 普及の支援から発展

 子どもからお年寄りまでみんなが楽しめる紙芝居は、外国でも静かな人気を集め、 この夏、日本とベトナムの紙芝居関係者の交流会が開かれた。 国内でも、紙芝居を文化的に再評価しようという動きが盛んになってきた。
 東京吉祥寺で7月、ベトナムとの紙芝居の交流会が開かれた。
 ベトナム紙芝居協会会長グエン・タイン・ダムさんが自作品の「2つのたまご」を演じると大きな拍手と笑いが起きた。 アヒルとニワトリの子が競争しながら互いに助け合うことの大切さを知る物語だ。
 「言葉は違っても、気持ちは通じ合える」翻訳家の野坂悦子さんはいう。  ベトナムに紙芝居が紹介されたのは91年。93年には国立児童出版社のキムドン社から独自の作品が出版されるようになり、 戦争で帰らない父を描いた「象牙の櫛」など約100点の作品が生まれ、「KAMISHIBAI」の歌もできた。
 「全土に普及し、山村などで教材として活用されている」とキム・ドン社副社長のレ・ティ・ダットさん。
 ベトナム大使館のドアン・ゴク・カイン参事官は、 「戦後、子どもたちに楽しみは何もなく、簡単な道具でできる紙芝居は待ち望んでいたものだった。 ベトナムの紙芝居には平和の願いがこめられている」と話す。
 交流会を主催した「日本・ベトナム紙芝居交流センター」は「普及を支援する会」から「交流の会」を経て、今年6月、発足した。 「紙芝居がベトナムで大きく育ち、今、私たちが学ぶことがたくさんある」と翻訳出版を続けてきた酒井京子・童心社社長はいう。

 【共感する力】に期待

 「この場面はもっとゆっくり演じたら」「演じ手の顔も見えたほうがいい」
 年に何回も開かれる「紙芝居文化の会」の研究会では、北海道から沖縄まで全国から集まった参加者から活発に意見が出る。 家庭文庫で子供たちに聞かせているが、自分のやり方でいいのだろうか。ほかの人はどんな工夫をしているのだろう。 さまざまな悩みについて、情報を交換する。
 同会は紙芝居の奥深さをもっと探ろうと、作家や翻訳者、教師、書店の担当者らが集まり、01年にできた。 会員は約400人。代表をつとめる作家のまついのりこさんは 「紙芝居はともすれば下級なものとみなされてきたが、本当は世界に誇れる文化」と話す。
 全国各地で出前講座を開いたり、フランスやイタリアなど海外を視察したり、様々な活動をしている。
 紙芝居は、抜く、挿す、という動作を演じ、作品の世界が広がる。演じ手と聞き手が向かい合い、 コミュニケーションをとりながら、感動を共有できる。
 「大人も子供も共感することや心を伝えることが苦手になっている。 紙芝居の持つ力に期待したい」と事務局の松井エイコさんはいう。
(朝日 新聞)D


ベトナムの試練
課題は産業構造改革

 100人近くの若い女性が、学校の体育館ほどの広さがある工場の中で、男性用ワイシャツをミシンで縫い続けている。 別の棟では、女性たちが、コンピューターを使った新しい洋服のデザインの余念がない。
 ハノイ市北東部にある国営企業「サーメント10」社は、国内有数のアパレルメーカーだ。46年に軍服の製造を始め、 ベトナム戦争後は男性用洋服を中心とした洋服を欧州連合(EU)や日本に輸出して急成長した。 国内経済の落ち込みをよそに、売上高は92年200万米jから99年には2000万米jと、5倍に増えた。
 同社の敷地内では、今、新たな工場の建設が急ピッチで進んでいる。 「今後はアメリカへの輸出が増えるでしょう。今から増産体制を整えておかねば」と、ヌエン・バン・ビュー社長は話す。
 ベトナムは、99年7月にアメリカと通商協定を結ぶことで基本合意した。 「ガーメント10」が増産に乗り出すのは、年内にも正式に協定が結ばれれば関税が大幅に下がり、輸出が増えるとの思惑からだ。 世界銀行も、協定によって、ベトナム対米輸出は繊維品を中心に現在の約1.7倍の年間8億米jに増加すると試算している。
 通商協定の締結には、ベトナムのもう一つの期待がある。 アメリカからの直接投資の増加によって、外資流入の激減に歯止めがかかることだ。 だが、人権問題を巡る両国の姿勢の食い違いから、正式調印までは、かなりの時間が必要という見方も根強く、見通しは不透明だ。
 一方で、95年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟したベトナムはASEAN自由貿易協定(AFTA)によって2003年までには、 対象品目のうち85%の品目の5%に引き下げなければならない。 今から国際競争力を高めておかなければ、中国などライバル国からの輸入品がどっと流れ込み、 国内産業が大きな打撃を受ける可能性もある。
 工業製品の国際協力化と並ぶベトナムのもう一つの課題は、市場経済システムの導入だ。 86年にドイモイ(刷新)政策を導入して以来、 政府の価格決定は電力、灯油、交通機関などの一部品目に限られるようになったが、 国営企業の株式会社化や証券市場の整備はこれからだ。
 ベトナム政府は、約5500ある国営企業のうち、これまでに約300社を株式会社化した。 2000年中にはさらに1000社の株式会社化を計画しているが、スピードとともに経営効率化の実が問われている。
 国営企業改革は、証券市場の整備とも密接に関連している。 国家証券委員会のグエン・バン・ズン国際局次長は 「早ければ6月末には、わが国初の証券取引所をホーチミン市に開設したい」と意欲を見せるが、 上場予備軍である国営企業は構造的赤字企業が大半だ。海外からの投資を呼び込むのには、 余剰人員の整理や意思決定の迅速化などの"経営努力"が必要になる。
 ベトナムは、東アジアの中でも工業化が最も遅れている国の一つだ。首都ハノイ市の中心部から車を15分も走らせれば、 田んぼが一面に広がる。農業には労働人口の70%が従事しているが、 生産性は低い。外貨の獲得資源(輸出品)も、コメや水産物、原油など、国際市況に価格が左右される一次産品の割合が高く、 産業構造の高度化が急務だ。
 日本は、ベトナムにとって最大の貿易相手国であり、援助国である。投資国としても第3位だ。 投資の継続や技術移転などを通して、構造改革を支援することが強く期待されている。 
(ハノイで、浦崎直樹、写真も)  (読売 新聞)E


読者の声

 小さいダオ花11号に掲載されたグエン・ティ・ホン・ハウさんの答辞を読ませていただき、先ず驚き、次いで感動いたしました。 驚きは、3年間の高校生活の営みを立派な日本語で綴っていらっしゃることです。 感動したのは、恐らく入学当事は十分な日本語ではなく、苦しい体験も多くあったでしょうが、 自分を失うことなく、勇敢に困難の一つ一つを受け入れてそれを乗り越え、 自分の成長の糧として、今日の喜びの日を迎えられたことです。本当におめでとうございました。 どうぞ、これからも神様のお恵みの中でハウさんが大きく成長し、後輩の助力者として活躍なさるようお祈りいたします。 (一読者)

 小さいダオ花9号でトルオン・ティ・トラングさんの記事の中に 「・・・国は違うが、同じ地球人です。同じ人間として私に外国人を差別しないでください。文化が違うだけ・・」との記述がありました。
 差別が、それを受ける人をどんなに苦しませ、傷つけることか。それを分からない人たちがいます。 思いやりのないことです。しかし神様は、人間一人一人をご自分の愛の対象としておつくりになりました。 その真実を思うとき、差別をする人の心にも、その奥底には愛の火が燃えているにちがいないと考えます。 彼らが、それを表現できるチャンスを与えていただけるよう、祈ります。
 鐘はうたれるまで鐘でない/ 歌は歌われるまで歌ではない/ そして心にある愛は、しまっておくためにあるのではない/ 愛も与えるまで愛ではないのだ(Jハヤット神父 太陽のほほ笑み「愛の本質」より)  (K.Y)


資料
@ 定住新聞 25号(03年 難民事業本部発行)
A 読売新聞 03年6月21日
B 朝日新聞 03年11月20日
C 朝日新聞 03年8月27日
D 朝日新聞 03年9月8日
E 読売新聞 00年3月8日         


あとがき

 「一人殺せば犯罪者だが、百万人殺せば英雄だ。」 チャールズ・チャップリンが、映画「殺人狂時代」の最後で口にした言葉です。 (この映画を機に、チャップリンは反米的とみなされ、結果としてアメリカから追放されました)。
 私たちは、個人の犯罪に対しては憤り、危機感を募らせます。それが少年犯罪であればなおさら、 加害者とその家族を非難の対象とし、加害の動機を詮索すると共に、被害者とその家族に対して感情移入しがちです。 しかし戦争・占領状態での死に対しては、「どうしようもない」と、あまりにも初めから脱力してしまってはいないでしょうか。
 イラク戦争の「終結」から1年強。イラクに治安の安定は訪れません。 米軍の攻撃によるイラク民間人の死亡者数は、1年半で9420人にものぼるといいます。 (英米の非政府組織「イラク・ボディーカウント」調べ。6月11日現在。 http://www.iraqbodycount.net/bodycount.htm)。 またイラク難民の帰還を支援するはずのUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の事業は、 イラク南部の情勢悪化のため、中止に至りました(6月6日現在)。 こうした状況において、私たちは、真剣に考えること、心から感じることをやめてはいけないと思います。 どのような勢力が、どんな理由で対立しているのか。どのような環境にある人が、 どんなふうに苦しみ、さらにはむなしく死に至っているのか。 そして私たちは、厳しい目と判断力でもって、 国の指導者たちの動静を、また世の中の動きを、随時点検しなければならないと思います。
 国際関係・社会問題のニュースを耳にするとき、「私」一人の考えや行動はいかにも無力に思われます。 しかし、次の祈りを胸に、歩む力を得たいと思います。  
(山本直美)

 私たちにとっていちばんの誘惑は、己の弱さ、ふがいなさに絶望すること。 やりなおす努力を放棄したくなること。 「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」「わたしは弱いときにこそ強い」(Iコリント12・9〜10) というあなたの教えを信じて、立たせてください。
 また、「なにごとも争わず、対立せず、波風をたてずに納めたい」という思いも、大きな誘惑です。 私たちのやさしさが、不正に満ちた体制を支えることになりませんように。 いまの社会の仕組みにともなう抑圧と差別から、私たちを解放してください。
(本田哲郎著『続・小さくされた者の側に立つ神』1992年、新世社、277頁より)

BACK