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小さなダオ花 11

この子供たちは平和を誰から学んだのか
癒えぬ泥沼の傷
答辞
クックさんのその後
NGOの活力もっと使って
ベトナムの花嫁海を越え台湾へ
読者の声
あとがき




バンコクから
「鶏疫」があぶり出す言論界

 タイのプポミン国王が、飛ぶ鳥落とす勢いのワンマン宰相、タクシン首相に「権力者は傲慢にならず、 報道にも耳を傾けよ」という意味の諭しを去年12月、満76歳の誕生日のスピーチで表明した。
 鳥インフルエンザ問題で窮地にあるタクシン首相はいま、国王のその言葉をにがくかみしめていることであろう。
 タイ、ベトナム、カンボジアなど東南アジア一円で感染が広がっている鳥インフルエンザについてタクシン首相は、 1月17日まで「何度もチェックしたが発生はしていない」と明確に否定し、 「大げさに騒ぐことは養鶏業界、その従業員にもマイナスだ」と述べた。
 ベトナムでの感染確認からタイにも感染の疑いの目が向けられる中、 タイ政府は「国内で発生しているのは鳥のコレラと呼吸疾患」という奇妙な説明を繰り返した。 強気のタクシン首相は、閣僚とともに昼食会に鶏肉料理を食べ、報道を通じてタイ産鶏肉の安全を訴えた。
 しかし、消費者団体や野党の間では、政府の安全発表をよそに鳥インフルエンザを疑う声が出ていた。 それが大きな声にならなかったのは、政府の圧倒的な情報量と、発表をうのみにするマスコミの姿勢もあった。 「タクシン政権を恐れるマスコミの自主規制こそ、今回の政府の隠蔽に加担した。 政府の情報操作の誤りを正すのが言論人の役割だが、今は政府言いなりの記者が多い」 (タイ・ジャーナリスト協会前会長のカウィ・チョンキタボン氏)。 もともとタクシン首相は政府や自らに対する批判を毛嫌いし、 政府に批判的なマスコミは広告主などを通じて疎まれ、肩身の狭い思いをしてきた。 はからずも、今回の鳥インフルエンザ問題はタイの「言論・表現の自由」の実情をあぶり出すことになった。
 タイ産鶏肉は、日本や中国、欧州連合(EU)への有力な外貨稼ぎの輸出品目である。 タクシン政権を支持する大手農業加工会社は、タイばかりかベトナム、中国にも投資し、国境を超えた企業活動をしている。 インドシナ紛争がカンボジア和平で終息する前後から、 タイ企業の国境を超えた企業活動は目を見張るべきものがあり、文字通り、「バーツ経済圏」はラオス、カンボジアを巻き込んでいる。 従ってタクシン政権が、タイ国内での鳥インフルエンザの発生ないし、 発生の報道に異常に神経質になったのは、企業利益を重視すれば自然な成り行きでもある。

 ネウィン農業・協同組合副大臣は、「誤った情報を流す者たちを阻むためにも法的規制をすることが必要だ」と発言。 タイ言論界では「報道を牽制するための恫喝」という反論も起きた。
 しかし、22日にタイ国内で少年の感染が発覚し、それが確認されると、タクシンは手のひらを返したように感染の事実を認め、 拡大防止の姿勢に変わった。「君子豹変す」。機を見るに敏なビジネス宰相というほかない。
アジア総局長  宇佐波 雄策 (朝日 新聞)@


この子供たちは平和を誰から学んだのか

 ベトナム戦争が終った時、南ベトナム地方のたくさんの病院が閉鎖になりました。 負傷者や難病者などは病院から追い出されたのです。 平和になったはずの街には田舎から避難してきた人々や病人などがあふれていました。 その街に住んでいた少年、少女たちの心の底にこの出来事が極めて深く刻みこまれていたのです。
 その中の一人にグエン・ゴク・ヒェンという少女がいました。 彼女はそれから二十年後、日本で准看護婦になりました。彼女は七人兄弟と姉妹の長女です。 「あかつきの村」に来たのは中学二年生の時でした。 最初に会ったとき、彼女は「私はいつか看護婦になって、 ベトナムに帰れるようになったら、病気のひとのために働きたい」と笑顔で言いました。 このように祖国のために働きたいという青少年が非常に多いのには驚かされました。
 彼女は高校を卒業して、名古屋の聖霊病院で看護助手をしながら、聖霊病院付属準看護婦専門学校に通う予定でした。 しかし、最初の受験は失敗しました。ベトナムでは父親が共産主義の教育を嫌い小学校には行かなかったのです。 そのため基礎学力が足りませんでした。失敗はある程度予期したものでした。 しかし、二年目も失敗しました。補習授業にも熱心に出ていたので合格するのではないかという期待があったので、 精神的打撃は大きいものでした。自信を失いかけてきました。 しかし、総婦長のシスター河原からの力強い励ましがあり、もう一年頑張ることになりました。 消えてしまいそうになった看護婦になるという決意は蘇ってきました。そして三年目にして合格しました。
 普通二年間で卒業できるところを三年間かかりました。 しかし、卒業の年に検定試験に落ちてしまいました。またもや試練が始まりました。 どれほどの勇気が必要だったかと思います。一年間、努力につぐ努力をかさね見事に准看護婦の資格をとりました。 長い七年間でした。何度も失敗し、悩み、それでもたちあがり、先が見えない暗闇をよく歩き続けてきたと思います。 その力はあの幼児の時に見た病気で苦しむ人、薬がなくて手当てもできないで死んでゆく人の姿であったと思います。
 戦争、そして難民と、人と人が憎み合い殺し合う時代を生きてきた子供は傷つき、 病み、死んでゆく人々の中で人の生命がどれほど大切であり、平和が何にもまして大切であることを不思議にもよく学んでいたのです。 平和が五十年以上も続いた日本社会の中で育った子供たちは人の生命について、人の心について、 平和な社会について何を学んでいるといえるでしょうか。
(さいたま教区司祭 「あかつきの村」前施設長 石川能也)


癒えぬ泥沼化の傷
米大統領 イラクの影 ベトナム後遺症

 「イラク戦争とベトナム戦争はかなり多くの類似点があると思う」米メディア界の重鎮、 ウオルター・クロンカイト氏(87)が9日、久しぶりにテレビに出演し警告を発した。
 「両方とも私たちがよく知っている戦争とは違う。ベトナムはジャングルのゲリラ戦、イラクは砂漠のゲリラ戦だ。 経験に基づいて対処できるような戦争ではない」と言い切った。
 「アメリカで最も信頼される男」と呼ばれたCBSテレビのキャスター時代、ベトナム戦争への懸念を表明し、 当時のジョンソン大統領を動かした。それだけに、発言はワシントンの外交界に静かな波紋を広げた。
 米国は、ベトナム戦争の挫折から「犠牲を出す戦争はできない」という後遺症(ベトナム・シンドローム)に長く悩まされた。 現大統領の父、ブッシュ大統領は91年の湾岸戦争で勝利すると「我々は『ベトナム・シンドローム』を完全に克服した」と胸を張った。 しかし、実際はその後も尾を引いた。
 クリントン政権時代の93年、ソマリアに駐留していた米軍がゲリラに攻撃されて20人近い死傷者を出すと、大統領は撤退を命じた。 その後ケニアとタンザニアの米大使館がテロ攻撃を受けても、反撃は巡航ミサイル「トマホーク」の発射にとどめた。 「トマホーク大統領」と揶揄されたが、米兵死傷者を出さないよう地上兵力の投入を避ける「死傷者ゼロ原則」を守った。

●「原則」破る
 テロとの戦いに臨んでブッシュ政権は、この原則に挑戦、「戦争では死者ゼロということはありえない」(パウエル国務長官)と宣言した。 アフガニスタン、イラクと相次いで大規模な地上軍を投入した。 同時多発テロのショックから、米国民も方針転換を受け入れたかのように見えたが、戦死者への抵抗感が再び強まってきた。
 一つのピークが昨年11月だった。イラクで米軍を狙った攻撃が激しくなり、米兵犠牲者は1カ月で68人に上り、10月の2倍強に急増。 5月の「大規模戦闘終結宣言」以降の死者数が、それ以前の合計を上回った。
 ギャラップ社の世論調査で「米国がイラクに軍隊を送ったのは誤りだった」と回答した人は39%に上った。 イラク駐留米軍の「全軍撤退」を求める世論も19%に上り、「戦争離れ」が急速に進んだ。 米メディアはイラク戦争を「新しいベトナム」と呼び、ベトナム戦争時代に使われた「泥沼化」という言葉が躍った。 ブレマー暫定占領当局(CPA)代表も「とても困難な状況だ」と認めざるをえなかった。
 そんな重苦しい空気を変えたのが、昨年12月のフセイン大統領拘束だった。 ブッシュ政権のイラク政策に対する「支持」は12月上旬に46%だったのが、拘束直後には65%まで急上昇、今なお61%を維持する。 しかし、ブッシュ政権もまだ、米国民がベトナム・シンドロームを完全に克服したと思ってはいないようで、 犠牲者が国民の目にさらされないよう手を打っている。
 ベトナム戦争時代の慣例だった死者数の発表をやめている。 さらに犠牲者が急増した11月以降、米兵の遺体が帰還する空軍基地での取材を禁じた。 ひつぎが放映され、国民の間の厭戦気分が広がるのを恐れてのことだ。
 さらにラムズフェルド国防長官が率先して、上下両院議員のバグダット視察を推進している。 ベトナム戦争は、悲惨な状況を目の当たりにした議員が戦争反対に回った。 その反省に立って、イラクでは視察場所を復興の進む現場に限定し、イラク国内には泊らせない。

●2つの懸念
 それでも「泥沼化」の懸念は払拭し切れない。
 戦争と世論の関係を研究しているオハイオ大のジョン・ミュラー教授は過去の戦争を踏まえ、 「犠牲者が増え続けるかぎり、政府への信頼は損なわれていく」と語る。
 さらにベトナム戦争当時と異なり、「米国民はかつてなく財政赤字に敏感になっており、 1ヶ月40億jと言われる駐留経費が増え続けても信頼は失われる」と指南、「財政の泥沼化」とう新たな危機を警告する。
 ベトナム戦争を拡大したジョンソン大統領は、戦況の泥沼化に足を取られ、再選出馬をあきらめた。 先代のブッシュ大統領は、湾岸戦争に勝ちながら経済の泥沼化で再選に失敗した。 二つの本格的戦争に踏み切った現ブッシュ大統領が、再選を果たすことができるかどうかは、 ひとえに戦況と経済の「泥沼化」を避けることができるかどうかにかかっている。
(ワシントン=渡辺勉) (朝日 新聞)A


答辞
グエン・ティ・ホン・ハウ

 雲間から差し込む光が暖かく感じられる今日のこの佳き日に私たちはついに卒業の日を迎えました。 それなのに私は卒業という現実をうまくのみ込めず取り残されていくような空しさと少しの迷いを感じています。 すっかり体になじんだこの制服や授業中でさえも笑い声の響く教室、居心地の良かったこの校舎に、もう別れを告げなければならないのですね。 この惜別の時となって心に浮かんでくるのは不思議と大きな諸行事よりも授業中や休み時間、 部活動などのいつまでも続くと思っていた毎日の何気ない光景なのです。
 とても落ち込んでいた時もクラスのみんなと話すだけで楽しい気持ちになれたことや、 くじけそうな時みんなの頑張る姿が勇気をくれたこと、教室を包んでいたみんなの温かい空気が今も私の心に残っています。
 先生方は常に私たちのことを思い、厳しく指導してくださいましたね。 そんな先生方に対し、反発心で頭をいっぱいにしたこともありました。 しかし、こんな後になって先生方の言葉の一つ一つが何を意味していたのか、 先生方がどんな想いでそのようにおっしゃっていたかがわかったような気がするのです。 それすら察することのできなかった未熟な私たちを先生方はなおも温かく見守り続けて下さいました。
 後輩の皆さんには先輩らしいことも何ひとつできなかった私を、それでも「先輩」と呼んでくれましたね。 私たちは皆さんのその声に何度も励まされ、いつも支えられていました。
 この三年間で私たちが学んだことを考えてみると、それは「いかに自分自身を持つか」であったように思います。 時に私たちは誰かに勝ることで自らを誇示しようとし、ある時は誰かに必要とされることで自らに存在意義を見いだそうとしながら、 それでも満たされない想いを抱えています。そんな想いに気がつかないふりをして、 私はここにないものばかりを追い求め、恐れながら、ここにある「自分自身」そして「今」という時間から逃げ、 それらを見失っていたように思います。 自分自身に嘘をつき自分に負けることは周りの人に嘘をつくことよりも誰かに劣ることよりも悲しいことです。 ですから、これから私たちは自分から逃げずに真実であり続けなければならないと思います。 そして、この世で唯一の自分だからこそあるものを見つめ、一番大切なものを見つけられたのなら、 決して放さずにこの手に握りしめ大人になっていきたいと強く思うのです。
 入学当時、この三年間でいろいろなものを手に入れられるだろうと思っていましたが、高校生活を終わろうとしている今、 ここにあるのはただこの体一つだけ―。しかし、その中は一人では抱えきれない程の思い出であふれているのです。 あんなに辛く苦しかったことでさえ今はこんなに優しい気持ちで思い起こすことができます。
 高校生活は恐ろしい程に早く駈けぬけていってしまいました。 そして、あの幸せな日々にはもう二度と戻れないことを今ここで実感しています。 しかし、ここで過ごした日々はただ過去のものとなり消えてしまうのではなく脈々と現在の私たちに繋がり私たちを形づくり、 そして未来へと導いてくれるのです。
 私たちの前に広がる未来は明るく輝かしいものというより、 おしつぶされそうに白く深い霧のようで不安に立ちつくしてしまいそうになりますが、 自分の中にある思い出や想いがこの霧の中で「そっちではない、負けるな!」と私たち導き、励ましてくれるでしょう。 傷つくことを恐れずに自分を信じて歩いていけば絶望の中から希望を見つけ、日々成長していけるはずです。 目の前にあるものは自分で創造していく未来だけ!全ては自分自身の中にある!! 恐れることは何もありません。
 最後になりましたが、私たちを見守り続けて下さった皆様とご臨席を賜わりました皆様に感謝申し上げると共に 私たちを育んでくれた母校のますますの発展をお祈り申し上げ、答辞と致します。
平成十六年三月一日
栃木県立矢板東高等学校全日制過程卒業生代表 グエン・ティ・ホン・ハウ

★ハウちゃんは県下の進学校、矢板東高校二百人の卒業生の代表で答辞を述べました。 これは私たちにとって大変嬉しいことです。その後推薦入学で宇都宮大学国際学部に入学することができました。 おめでとうございます。  (事務局)


クックさんのその後

 「皆様クックさんのことを覚えていらっしゃるでしょうか? 皆様のお陰で二年前に暁星国際高等学校を無事卒業し、同校のご父兄佐野様のご好意で働きながら美容専門学校を卒業し、 このように立派に成長されました。ここまで来る事ができましたことはひとえに佐野様のご苦労のお陰です。 佐野様本当にありがとうございました。また、暁星国際高校の下辻先生にも御礼申し上げます。 九月には美容師の国家試験があります。 無事に合格しますよう皆様のお祈りをお願い申し上げクックさんの近況のご報告を申し上げます。 (事務局)


NGOの活力、もっと使って
途上国援助
小野 浩美  NGO ジャパ・ベトナムスタッフ

 外務省は川口順子外相を議長とするODA総合戦略会議を設置し、国別援助計画の見直しを進めている。 その第一弾のベトナム国別援助計画の見直し作業は、同国の開発・援助にかかわる人々や組織から広く意見を聞く オープンネットワーク方式で行われている。
 その一環として、昨年11月から今年4月まで計3回、ベトナムで活動するNGOと外務省との意見交換があり、十数団体が参加した。 私も毎回参加し、議論に加わった。NGOに門戸が開かれ、政府側と同じテーブルを囲んで話し合いが持てたことは、画期的と評価している。
 一連の議論を踏まえ、外務省から見直し原案が示された。 インフラ整備を通じてベトナムの経済成長促進を支援することが重点に据えられた。 同時に貧困を含む生活・社会面の改善を支援していくこと、 開発に伴う環境・社会への影響に配慮すること、NGOとの連携の強化、などの内容が盛り込まれた。
 この見直しの方向には賛同できる。しかし、これを机上の空論に終わらせてはいけない。 日頃の活動を通じて感じていることを述べてみたい。
 私たちの団体は、ベトナムの住民の自立を促すプロジェクトにかかわり、年間300万円規模の支援を続けている。 具体的には、現地のグループと連携し、農村部では道路、橋、飲料水施設の建設、養豚農家への援助、病院での保健衛生教育、 都市部では、スラムの子どもたちの教育、起業資金の援助、エイズ対策などに取り組んでいる。
 この10年、ベトナムは変わった。主要幹線道路が整備され、ホーチミン市やハノイ市の中心部には高層ビルが立ち並ぶ。 しかし、農村部や都市スラムでは、暮らしぶりはほとんど向上していない。 急成長による経済格差や、都市への人々の流入で、生活環境はむしろ悪くなっている。
 見直し原案の通り、インフラも貧困対策も同時に解決する必要があると痛切に感じている。
 インフラ整備に伴うひずみをチェックする場を外務省とNGOで共同でつくってはどうか。 その上で、ひずみ解消のため、ODA予算の一部運用についてNGOが関与できる仕組みができたらすばらしい。 貧困対策は、現地で活動を根付かせているNGOの得意の分野である。私たちの活力を使ってほしい。
(朝日 新聞)B

子供たちに夢とチャンスをあげたい
ポンサバン・ピラバンさん 奨学金支援を求めるNGOラオス事務局長
 小学生のころ、毎日午前4時に起こされ、母親からサンドイッチを渡された。 ほおばりたい気持ちを抑え、裸足で市場へと急いだ。市場で売って教科書や学用品代を稼ぐためだった。
 ラオスは義務教育の小学校でも教科書などは自己負担で、貧しくて就学できない子供が多い。 農村の小学校卒業率は20%にも満たない。10人兄弟の6番目。食べるのがやっとの生活だったが、 高校を卒業後「もっと勉強したい」と大学を夢見た。奨学金をもらえる大学を探し、旧ソ連の国立大学に合格した。
 卒業後、病院に勤務していた96年、NGO「日本民際交流センター」(本部・東京都)が奨学金制度を始めると知った。 「今度は私が貧しい子供たちに夢をあげたい」と、同センターの現地事務局長に応募した。
 身長150a。消え入りそうな細い声。昔話をすると涙声になるが、事務局長は勇敢に行動する。
 「双子は不吉。殺せ」。そんな因習の残る少数民族を再三訪ね、就学をしぶる親を説得する。 オートバイでの道中、豪雨に遭えば、野宿してでも通う。
 一万円の寄付で、小学生一人が一年間就学できるが、今年は提供者が激減した。 「9月に入学予定の400人分が足りない」と、緊急支援を呼び掛ける。 支援者には奨学生のプロフィル入り証書=写真=が送られる。
 問い合わせは同センター本部(03・5292・3260)
文と写真・大治明子 (毎日新聞)C 


ベトナムの花嫁海越え台湾へ

 【バンコク=宇佐波雄策】
 台湾男性と結婚するベトナム女性が近年増えており、90年代半ばから昨年末までに6万5千人が台湾に渡った。 多くの女性が台湾での豊かな生活にあこがれて結婚している。6日、ベトナムの国営紙「ラオドン」(労働)が報じた。
 ホーチミン市にある社会科学研究所のファン・アン教授が、台湾男性との結婚実態について約2千人のベトナム人妻たちにアンケートした。  大半が南部メコンデルタやホーチミン市の貧困な家庭の出身。約70%が「結婚は豊かになるため」と経済的理由をあげた。 85%は「結婚に満足している」と答えたが、15%は習慣や言葉の違い、家庭内のいさかいなどで不幸な境遇にあり、「失敗した」と回答した。
 台湾の夫は農民が多い。妻が20代なのに対し、夫は40代と大きな年齢差があった。
 同教授によれば、夫側は結婚をあっせんする業者に平均1万jを払い、業者は妻の実家に1千〜3千jを渡すという。 司法当局は「人身売買と変わらないような行為は厳しく取り締まる」といっている。
(朝日 新聞)D


読者の声

 私は大学の推薦入試のとき、「小さなダオ花」の中の(あかつきの村)について書かれたものを読み、とても大切なことを学びました。 それは、入試の論文にも、非常に参考になりました。とても感謝しています。
 さて、四月からは大学に入ります。自分のやるべきことをしっかり見すえて頑張ろうと思います。 (グエン・ティ・ホン・ハウ)


資料
@朝日新聞2004年2月1日
A毎日新聞2004年1月16日
B毎日新聞2003年5月5日
C毎日新聞2003年8月7日
D朝日新聞2004年1月7日


あとがき

 地球上の人々が、必要とされる食糧を得ることができて、経済的にもある程度安心して過ごすことは、無理なことなのでしょうか?  戦争に巻き込まれて生命を奪われたり、 食糧不足のために健康を保つことができずにいる人々が数多く存在していることは日々のニュースでもわかるように世界の現実なのです。
 最近、あるグループの人たちと雑談する機会がありました。皆20代の若者でした。 食事の好みとかダイエットなどについて話しているうちに、話題が「飢え」の問題になってしまいました。 今の日本では、厳しい生活を余儀なくされても、もし100円か200円ほどのお金があれば、 おにぎりを買って一時的に空腹をしのぐことができます。しかし、お金を100円持っていても物が無ければどうしようもありません。 まさに、50余年前の日本が戦争をしていた頃の状況が後者だったのです。 一般市民が味わった飢えが簡単に言えばこのような事だったのです。 そして現在も世界の多くの地域では戦争や自然現象のために飲料水を始め、 生きるために基本的に必要とされるものさえ手に入れることができず、苦しんでいるのです。
 今の日本の社会を振り返って見ると、便利さと心地よさが余りにも重視されていて、無駄使いのみならず、 ややもすると計画性に乏しくなり、「今欲しいものは夜中でもコンビニに行けば買える」し、 顔が見える距離にいても携帯電話で話しをするような生活になってきていると思います。 私も便利なことや心地よさを否定しませんし、むしろ高齢者になると必要なことだとも思っていますが、 自分の計画性を失わず周りの人々に対して思いやりをもった分かち合いと約束の守り方に心がけたいというのが正直な気持ちでしょうか。
 人間らしい生活を実現するために、健康の保持、学びや遊び、 働くことにおいて、国家や民族の違いを越えてすべての人に機会が与えられるべきだと思います。 日本で種々の困難を乗り越えて立派に生活しておられるベトナムの方々、 とくに今回掲載された「答辞」にも見られるような真剣な学びの結果を出された方々が、 社会の進歩には遅れず、自分自身を見失わずにこれからも人間らしく生きていって欲しいと思っています。
(中里昭子)

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