BACK
小さなダオ花 10

イラク、ベトナムと似ている
グエン・カオ・キ氏帰省へ
難民の気持ちになって6400キロ度してほしい
ぶつかり合いながら、理解し認め合う
ベトナム
ラオスは抜け道・潜伏他
読者の声
あとがき



イラク、ベトナムと似ている
「戦争には絶対反対 耐えられぬ人の死」
元従軍写真家アダムズ氏語る

 ベトナム戦争を象徴する写真の一枚、「解放戦線将校をピストルで撃つ南ベトナム国家警察長官」を覚えているだろうか。 68年にあの写真を撮った米国のエディ・アダムズ氏は、報道カメラマンとして計13の戦争に従軍した。 数々の悲惨な光景を目の当たりに体験したから今、声を大にして言う。「イラク戦争は間違いだ」。 イラクのベトナム化への懸念が強まるなか、アダムズ氏は体験的反戦論を、こう語った。 (ニューヨーク=五十嵐浩司)
 戦争には徹頭徹尾反対する。戦争はよくない。戦争をしたがるのはアメリカの政府であって、国民ではない。 どの国の国民だろうと、生身の人間。その人間がつまらん理由で殺されるのには耐えられない。
 私は老いぼれだが、まだ現役だ。でもイラクには行かない。このような戦争に巻き込まれたくないからだ。 だれも他国の人々に、その国をどうするか指示する権利はない。米国は独裁者になってはいけない。 66年にカメラマンとして初めてベトナムに派遣されたとき、私は心底愛国的で戦争支持者だった。 米国は正しいと信じていた。「悪いやつは皆やっちまえ」と血がたぎっていた。 
娘さんが描いた絵を背に語るアダムス氏=ニューヨークで、五十嵐写す
 2週間の派遣のはずがちょうど米海兵隊のダナン上陸があり、帰国したのはほぼ1年後。 米国に1ヶ月ほどいたが、家族を除けば、だれもベトナムで死んでいく兵士たちのことを気にかけていない。 ベトナムでけがをした松葉づえの元兵士をタクシーがひきそうになる。「何だこれは」。 アメリカってやつが分からなくなった。だからベトナムに戻ったのだ。
 戦争への見方が変わり始めた。アメリカ人もベトナム人も命の重さは同じと気づいた。 最後のベトナム戦争を撮ったのは68年。戦争は無意味でばかげたことだと分かっていた。 とはいえ頭を撃ち抜く瞬間を撮ったのは、ただ私がそこにいたから。 写真はベトナム戦争批判を強めたが、その意味を理解したのはピュリツァー賞を取ってからのことだ。
 イラクとベトナム。よく似ている。ちょうどベトナム戦争下のカンボジアで教一(ピュリツァー賞写真家・澤田教一)が狙撃されたように、 イラクでも各地で誰何(すいか)なしの攻撃が続いている。たぶん、米軍が撤退するまで続くだろう。 しかも、サイゴン(現ホーチミン市)では人々は米兵に温かかった。 ベトコンが交じっていると知っていたが、それでも心地よかった。 ベトナムで米国は多くの教訓を得た。それがイラクにまったく生かされていない。
 例えば65年に私が会った米海兵隊の将軍は、「ベトナムでは勝てない」と断言していた。 ゲリラ戦に対応するにはあまりに兵士が少なく、もし十分に兵がいても勝利まで15〜20年はかかるというのだ。 イラクでも現地を知れば、こうした判断になる。
 戦争取材は湾岸戦争(91年)まで続けた。世界中の難民キャンプを訪ねた。 いま、世界の有名人を専門に撮るのは、泣きながら仕事をするのが嫌だから。 レンズを通してかれらの痛みを感じて泣いた。「もう、たくさんだ。 こんなのは撮れない」と言いながら仕事をするのはもう嫌なんだ。

 米社会に深い傷跡

 《解説》「ベトナム化」― イラクの状況をベトナムと比較する米社会の空気は10月末のラマダン(絶食月) 入り後に米軍などへの攻撃が激化したのを受けて強まった。 ベトナム戦争の様相が67年秋から、68年初めのテト攻撃までの間にくっきり変わったことを想起させたからだ。 長期化・泥沼化への懸念が米社会に深い傷跡を残す「ベトナム」の記憶をよみがえらせた。
 論者は一様に「多くの点でイラク占領はベトナム戦争と異なっている」(ナショナル・ジャーナル誌)と確認している。 ベトナムでは @ゲリラの背後に北ベトナム正規軍がいた Aそれをソ連、中国の核保有大国が支援する冷戦構造があった B米国に南北ベトナム統一など国家再編成の意図がなかったーからだ。
 「ベトナムではゲリラを支持する『人民の海』があったが、 イラクでは反米の人の多くも旧体制に反対だ」「イラクでは圧制からの解放という大儀までは否定されていない」との指摘も多い。 こうした客観条件の相違を認めつつも、なお類似点が指摘される。 @なぜ戦うのか、米指導者が国民を十分に納得させられない Aイラクでは「大量破壊兵器」、 ベトナムでは偽りの「トンキン湾事件」を使って情報操作を行った Bこの結果、国際社会の支持も著しく低い C現地に関する知識が欠如しており、 それが不適切な政策や抵抗の度合いの見誤りにつながっているーという点だ。 つまり、「最も重要な共通点は、戦場ではなく、米国で起きていることにある」(同ジャーナル誌)というのである。
 ナイトリッダー系新聞のコラムニスト、ジョセフ・ギャロウェー氏の11月末のコラムは、こう書いている。 「イラクがベトナムでない理由は百ほどもある。だがほんのわずかしかない類似点は実にぞっとするものだ」。

キーワード

 ベトナム戦争
 60年の南ベトナム解放民族戦線結成に対し、米軍は62年、サイゴンに援助軍司令部を置いて公然と介入し、 第2次インドシナ戦争が始まった。64年8月のトンキン湾事件を機に翌65年2月、北爆を開始。 米軍は当初、戦況に自信を示したが、68年1月の解放戦線と北ベトナム軍による8万人を動員した「テト攻勢」で戦況が逆転。 ゲリラ攻撃に苦しめられ、73年のパリ協定で撤退した。75年4月30日サイゴン陥落で戦争は終結。 死者数は米軍5万8千人、ベトナム側は200万〜300万人といわれている。

 エディ・アダムス氏
 米ペンシルベニア州生まれ、70歳。AP通信、タイムス誌を経てフリーに。これまで約500の賞を受けた。 撮影した国家元首は70人近い。ニューヨーク市内にスタジオを構え、郊外に後進育成のための研修所も設ける。 今年、若手カメラマンのため、友人だった澤田教一にちなんだ賞などを創設した。 
(朝日 新聞)@


グエン・カオ・キ氏、帰省へ
ベトナム政府許可 和解をアピール

 【ハノイ共同】7日付ベトナム警察専門紙「コンアン・ニャザン」によると、ベトナム政府は、 旧南ベトナム政府大統領を務め米国亡命中のグエン・カオ・キ氏(73)が、21日から始まるテト(旧正月)休暇の間に帰国することを許可した。  ベトナムはドイモイ(刷新)路線の一環として01年末の憲法改正で、 かつて敵視してきた在外ベトナム人(越僑)の地位向上をうたっており、ベトナム戦争で敵として戦った政権要人の帰還は、 国民和解をアピールすることになる。
 キ元副大統領は、1975年4月のサイゴン(現ホーチミン)陥落直前に脱出。 米カリフォルニア州で酒店を経営する一方で、社会主義統一ベトナムに抵抗する姿勢を強調していた時期もあった。 しかし、92年ごろから望郷の思いを語るようになり、このほど現地領事館に正式に帰国許可を申請、承認されたという。 郷里、北部ハタイ省を訪ね旧友と再会する予定。
 グエン・バン・チュ―元南ベトナム大統領らが既に死去。キ元副大統領は、旧南ベトナム政権内部の深層を知る数少ない要人。 米国をはじめ海外に居住する在外ベトナム人は300万人。 ベトナム政府の緩和政策で一時帰国した人数は90年の3万6000人から01年には50万人に拡大した。
(毎日 新聞)A


難民の気持ちになって6400キロ旅してほしい
マイケル・ウインターボトムさん

 100万人のアフガニスタン難民が暮らすパキスタン北西部・ペシャワル。ここで生まれた少年といとこの青年が、 陸路ロンドンへの密入国を企てるドキュメンタリータッチの映画「イン・ディス・ワールド(この世界で)」で、 今年のベルリン映画祭金熊賞を受賞した。
 出演者はみな素人。難民に取材して脚本を作り、あとは状況に任せて小型デジタルカメラを回した。 14歳のジャマール少年の明るく生命力にあふれる演技が絶賛された。米軍によるアフガン空爆直後に撮影を始めたが、 アフガン難民だから関心があったのではない。
 「中国福建省からの密入国者58人の死体が、ドーバー港のコンテナで発見された。 欧州では難民受け入れが社会問題となっている。難民を毛嫌いする風潮に反論したかった。 難民たちが大きなリスクを冒して旅してくることも描きたかった」。 銃撃を受けたり、コンテナで移動させらたれたりの、死と背中合わせの危険な旅。 撮影中も不可解な尋問や難民である主役への嫌がらせを、ひしひしと感じたという。
「映画は大海の一滴。でも、難民の気持ちになって6400キロの旅につきあってくれれば、きっと見方が変わってくる」。 帰国したジャマール君が英国に戻り、難民申請して却下されるという予想外の展開もあった。
次作は上海を未来都市に見立てた恋愛サスペンスで、作風は一変する。

マイケル・ウインターボトム
 英国生まれ。映画は15日から日比谷シャンテシネほかで公開。順次全国で上映。(42歳)
文と写真・佐藤由紀
(毎日 新聞)B


ぶつかり合いながら、理解し認め合う

 みなさん、こんにちは。 NGOベトナムの活動に参加して2ヶ月たちました。 私にとってベトナムといえば・・・"料理がおいしい☆雑貨がかわいい♪アオザイ素敵!"という典型的なイメージのみでした。 活動を通して、また教会などでみなさんとお話したり同じ時間を過ごしたりするにつれ、 日本とは違うベトナムの文化や考え方を知ることができ、ちょっと得した気がします。 また先日、黄色のアオザイをいただいたのですが、 これがまたよく似合うと自画自賛♪♪ぜひ中秋月のお祭りの時に着たいと思います。 ベトナム文化に触れ、多くの方に"ベトナムは楽しいよ!"と言われ、 ますますベトナムに行きたい気持ちが高まり・・あとはお金ですね。 宝くじでも買おうかなぁ。
 活動に参加して今まで見えなかったさまざまの問題を知ることとなりました。 国が違い、文化が違い、考え方が違い、十人十色と言うとおり、みんなが違うからこそおもしろい。 しかしその違いの分だけ問題も起こる。互いの違いに気づき、 時にはぶつかり合いながら、理解し認め合うことの大切さと難しさをつくづく感じさせられています。 日本人とベトナム人の障壁を少しでも取り除けるよう、日本での生活が少しでも快適に過ごせるよう、お手伝いできたらと思います。 特に私は大学で看護学を勉強しているため、皆さんの健康に関して何か役に立てたらと思います。 皆さんの意見をぜひきかせていただきたく、よろしくお願いします。
藤原 瞳
(NGOヴィエト ニュース)


ベトナム
ピリッとアジア

 【暑いな〜と思ったら、刺激のある食べ物でしゃきっとしようー。 ベトナム、タイ、台湾料理店を訪ね、「ピリッとした刺激で元気になる」料理を教えてもらった。【大西康裕】
 「食卓にはいつもトウガラシがあった。子どもの頃は辛くて苦手だったけど、そのうちに食べられるようになった。 あの赤いソースも平気です」通訳を頼んだベトナムからの留学生、 レ・バン・コアさん(21)はベトナム料理店Yサイゴン代官山(東京都渋谷区南平台町8)のチーフコック、 グエン・ヴァン・ユンさん(44)が作ったトウガラシ5本入ったソースを見ても驚かない。 ユンさんは「ベトナム人は暑いときには焼き物を食べるのが大好き。元気がでます。 日本に豊富な魚介類を使いましょう」と海鮮野菜のくし焼きを勧めてくれた。
 ポイントはソースだ。ピリッとくるトウガラシとレモングラスの香りが特徴。 ちょっと酸っぱさを感じるのはニョクマム(魚醤=ぎょしょう)のためか。 種類を問わず白身魚の焼き物に合うという。焼く前につけて味をしみ込ませる。 ユンさんは「うまく魚介、野菜にからまらなかったら、スープスプーン2杯分サラダ油を追加して」と話し、レンゲを手にとった。 レンゲ?ー 「ベトナムでは調味料の量をティースプーン何杯、スープスプーン(レンゲ)を何杯で教えるんですよ」とユンさん。 ソースは多めに作った方がおいしいという。あまっても冷蔵庫で数日持つので、他の料理にも使える。
 もう一品は鶏肉の手羽先の肉詰め。ユンさんが「大きめのキュウリやニンジンが体の中を落ち着かせてくれます。 これはそれほど辛くないけれど、暑いときにはこういう料理もいい」。 煮てもいいのだが「蒸して10点満点だとすると、煮ると8点くらい。 味が逃げるから」と話す。蒸すときに器とフタの間に紙をぐるっとまくとなおいい。

海鮮野菜のくし焼き
 ≪材料≫ 2人 (4本)分
 エビ4匹 ▽ホタテ4個 ▽イカ小4枚 ▽スズキ200c ▽ピーマン、タマネギ各適量、 ▽A(生トウガラシ5本、短いレモングラス5本、砂糖小さじ1、鶏がらのスープのもと小さじ1/2、塩少々、サラダ油大さじ4)
≪作り方≫
 @ エビは皮のまま、イカを半分に、スズキは4等分、ピーマンとタマネギは3a角に切って、 くし一本につき3、4枚刺せるようにする
AAの生トウガラシ、皮をとったレモングラスは細かく刻み、 ボウルに入れて他の調味料、サラダ油を加えて混ぜる
B魚介類と野菜をAに入れてかき混ぜる
C魚介と野菜を交互にくしに通す。イカは大きいので適当に切る
Dフライパンかオーブンで焼く
E塩とコショウを半々で混ぜたものにレモン汁をかけ、それに肉などをつけて食べる。

鶏肉手羽先の肉詰め
≪材料≫ (一人分)
鶏肉の手羽先一つ ▽豚ひき肉50c▽シイタケ10c ▽キュウリ小1/2 ▽ニンジン1/4本 ▽鶏がらスープのもと小さじ1/2 ▽ジャガイモ小1/2個 ▽ニラ、万能ネギ、香菜の葉各適宜 ▽水2カップ ▽A(砂糖少々、鶏がらスープもと小さじ1、ニョクマム小さじ1/2
≪作り方≫
@手羽先から骨を抜く
A豚肉に細かく刻んだニラ、万能ネギ、香菜、鶏がらスープのもとを加えて混ぜる
BAを@にしっかり詰め、手羽先の端の硬い部分は切り離す
CBと、それぞれ食べよい大きさに切ったシイタケ、ジャガイモ、キュウリ、ニンジンを約10秒間ゆでる。
D大きめのふたつきの器に水を入れ、AとCを加え、1時間蒸す。
(毎日 新聞)C


ラオスは抜け道・潜伏地
脱北者やテロリスト 警戒心薄い辺境利用

 「陸の孤島」といわれた山国ラオスが、周辺国との交通網が次第に整備されるにつれ、人の往来や物流の要路になりつつある。 とくに北部は中国からの商人や旅行者が増え、中国人経営の簡易宿舎も目立つ。 しかし、外国人に対する警戒心がまだまだ薄い辺境の町は、北朝鮮から中国を経由して逃れて来る脱北者や 、カンボジア方面から潜入するテロリストの格好の「抜け道」や潜伏地となっている。 (ルアンナムター<ラオス北部>=宇佐波雄策)

 ラオスの古都ルアンプラバンから北に約290キロ、車で7時間ほどで中国国境の村ボーテンに着く。 国境の出入国管理事務所で雲南省に向かうラオスの大型トラック二十数台が出国手続きを待っていた。 雲南省のダンプ4台が砂利を満載して国境を越えていった。
 ●1泊2、3ドル
 国境の西60キロにある宿場町ルアンナムターにはラオス各地に向かうバスの発着場があり、 約20軒の簡易宿舎や「住宿」や「ゲストハウス」といった看板を掲げている。 大半が雲南省や湖南省などからきた中国人の経営だ。食堂を兼ね、中国テレビ放送を受信している。 1泊2、3ドル、相部屋なら1ドル。中国の人民元も通用する。宿泊客の多くが中国人や欧米のバックパッカーだ。
 市場前で客待ちをする乗り合いトラック運転手から「ときどきカオリー・ヌア(北朝鮮人)の人も来る。 数日だけいてどこかに行ってしまう」。という話を聞いた。 国境地帯の旅行者事情に通じている運転手たちには中国人なら分かるはずだ。やはり出北者のことらしい。 彼らが宿泊するという簡易宿舎の中国人経営者は「中国人しか来ないよ」と不機嫌そうな顔で否定した。
 だが、どの宿も客に旅券や身分証明書を求めない。どこのだれが泊まっているかは分からない。 ルアンナムターと並ぶ宿場町のムアンシンや通商のムアンサイでも、中国語が少し話せるか、 中国人の付き添いがいればまず不審に思われない。脱北者の多くは中国に数年住むうちに簡単な中国語会話はできるようになるという。

 ●陸路と川舟で
   脱北者の密入国と摘発が一番多いタイ北部チェンライ県。 1、2年前からラオスから密入国して逮捕される北朝鮮人が増えている。 逮捕されるのはほんの一握りと見られているが、メコン川に臨むチェンセンで逮捕された脱北者は01年が4人、 02年8人、03年には17人と2倍に増えている。 7月末、バンコクの日本大使館に駆け込んで韓国に亡命した11人の脱北者の中にも、ラオス北部経由組がいた。
 逮捕された脱北者の多くが、入管当局の調べに対し、雲南省から陸路でラオスのルアンナムターやアンシンに入り、 乗り合いトラックでメコン河畔のシエンコクに出て、そこで川舟を雇って入国したなどと供述しているという。 治安当局によると、脱北者たちはシエンコクの港から早朝や夜間に川舟を雇い、3、4時間かけてタイ領に密入国する。 船の借り上げ代は約二千バーツ(約5400円)前後だという。
 チェンライ警察は、中国南部からラオス国境一円には少なくとも数百人の脱北者が潜み、入国の機会をうかがっていると見ている。 タイ・アユタヤで8月に逮捕された東南アジアのイスラム過激派ジェマー・イスラミア(JI)の最高幹部ハンバリ容疑者も メコン川のラオス側フエイサイからタイ側チェンコンに密入国している。同容疑者はカンボジアに長く潜伏し、 ラオス南部国境から陸路で潜入したとみられている。
 外国人旅行者もたどるようになったラオス南部国境は、カンボジアに向かう脱北者や、 潜伏地を求めるテロリストの新たな越境地となっている。

 ★キーワード
 「陸の孤島」ラオスは、タイ、中国、ベトナム、カンボジア、ミャンマー(ビルマ)の5カ国と国境を接する交通の要衝にあるが、 大半を山岳地帯が占め、タイ国境などメコン川が流れる。第2次大戦後のラオス内戦、 ベトナム戦争を経て75年8月、社会主義国家となった後は西側との往来を制限。 国内道路線の整備も進まなかったが、冷戦終結後、ラボップ・マイ(新制度)と呼ばれる経済改革路線が本格化、道路網の整備も始まった。
 3、4年まえからは中国雲南省との間の路線が改修され、カンボジア国境も開放された。
(朝日 新聞)D


読者の声

 「小さいダオ花」いつも拝読させていただいています。シスターと皆様の活動のために、小さいですが何時もお祈りしています。 何かありましたときは何時もお知らせください。ご一緒にお祈りしたいです。またお会いできる日を楽しみにしています。祈りのうちに
(クララ会 八王子)
 聖イグナチオ教会の信徒です。「ちいさいダオ花」楽しみにしています。 ベトナム語を勉強したくなりました。どこで勉強できるのか教えてください。
(H.N.)
 祈りのうちに「小さいダオ花」拝読しています。少しですがお手伝いできましたら嬉しいです。領収証は不要です。
(聖体奉仕会修道院 秋田)
 わずかですがクリスマス献金です。
(カルメル会 西宮修道院)
 今年も宜しくお願い申し上げます。通信費などにご利用ください。
(水上洋一郎)

 この他に「こひつじ会」の皆様方、越みどり様、堀田裕子様、無原罪の聖母宣教会、聖心の布教姉妹会、 善きサマリア人修道会、トラピスチン(那須)修道院、カルメル会東京修道院、聖ドミニコ修道会松山、 聖母訪問会、聖ヨハネ病院修道会、お告げのマリア会(久が原)、カトリック志家教会、 シト―会伊万里修道院、聖心侍女修道会、の真心こもるご支援に心から御礼申し上げます。
ベトナム人友好会
資料
@朝日新聞2003年12月6日 A毎日新聞2004年1月8日
B毎日新聞2003年11月14日 C毎日新聞2003年7月22日
D朝日新聞2003年11月12日


あとがき

 ちょっと立ち止まって考えてみるーそのきっかけを、本誌が提供できれば幸いです。 毎日、目を覆いたくなるようなニュ―スが流れてきます。 その中で一番怖いのは、ほかならぬ「私」がそうしたニュースに慣れっこになってくることです。 ニュースを、新たな目で読み直すこと、別の事実と重ねあわせてみると、そうした視点を忘れないでいたいと思います。
 今号の第1記事と第3記事は、軍事力をもつ国が「民主化」「近代化」と称して他国に軍を置くとき、 皮肉にも、しかし必然的に一般市民に犠牲を出すことを改めて教えてくれます。 現在のイラク、アフガニスタン、1960〜1970年代のベトナム、そして1940年代の日本統治下アジア、太平洋諸地域もそうでした。
 第2記事と第3記事とを続けて読むと、人の命の重さというものが、特に非常事態においては、残念ながら、 しかし確実に差をつけられてしまう、ときづかされます。 グエン・カオ・キ元副大統領は、きっと軍機か大型船で渡米したのでしょう。 他方、小舟で荒波に乗り出し、または裸足で国境を越え、 「大きなリスクを冒して」移動する多くの人々がおり、私たちのよく知るベトナム人定住者の皆さんも、その一部です。 なお現在は、日本の自衛隊が「イラク復興支援」に派遣されていますが、非常事態になるとき、 非武装のイラク市民と、武装した他の自衛隊員とのどちらかを先に助ける、という必要に迫られることもあるのでしょうか。
 第5記事は、一見社会情勢とは無関係とも思えますが、チーフコックさんの発言は意味深いです。 「ベトナムでは調味料の量をティースプーン何杯、スープスプーン(レンゲ)何杯で教えるんですよ」。 1884年以来フランス植民地支配下で、カフェ文化が発達してきたこと、 また紀元前2世紀以来の再三の漢民族ベトナム侵攻下で、その食文化が流入してきたこと、など想起させられます。
 藤原瞳さんは言います(第4記事)。 「互いの違いに気づき、時にはぶつかり合いながら、理解し認め合うことの大切さと難しさをつくづく感じさせられています」。 つくづく感じさせられる「私」であるために、考え続ける「私」であるために、 第10号を迎えた本誌と共に、今後も歩み続けられれば、と思います。 
(山本直美)

BACK