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小さなダオ花

新年にあたり
知ることから心のつながりへ
日本語スピーチフォーラム開催(難民事業本部主催)より
  ベトナム人として
  親子
実子5人+養子5人=10人
はじめまして
こんにちは
感謝のひととき・明日への力
ドイモイ政策の支柱に
読者の声
あとがき



新年にあたり
 新年おめでとうございます。ついに2004年を迎えることになりました。
 日本に定住したインドシナの人たちの人権を尊重し、未解決の問題、 日本で生まれた子どもたちの国籍、教育、 心の病に苦しむ人たちへの支援などを共に考え行動する目的で小さな会を始めて3年目に入ろうとしています。
 その間皆様には特別なご支援をいただき現在に至ることができました。一同心から感謝しております。 私たち一人ひとりの力は小さいものですが、みんなが一致するとき何かが出来上がって来ると思います。 時間のかかることもありますが、不思議なくらい神の摂理を感じます。
 現実は忙しさに追われる毎日で、問題は山積しています。「知らせのないことは良い知らせ」といいますが、 私たちの知らないところに他の問題も隠れているようです。
 新しい年の上に神様の豊かな祝福を祈りつつ今後とも宜しくお願い申し上げます。 
ベトナム人友好会代表 石川 能也


知ることから心のつながりへ

 インドシナ難民二世と呼ばれる人がいるという事をご存知でしたか?
 ベトナム戦争によって人生が狂わされてしまった人が心を病んで生活していることをご存知でしたか?
 私は昨年シスター田中とお目にかかるまで、ベトナム戦争は記憶の中に動きの止まった写真でした。 しかし、この「小さいダオ花」を通し、 世の中から忘れ去られてしまったインドシナ難民定住者のためいろいろな努力をしている方々がいらしたことにとても驚きました。 ベトナム戦争が終わり30年近くになろうとしている今でも傷ついた心、 想像を絶する体験を経てやっとの想いで日本にたどり着いたのに、安住する事も出来ぬまま一部の心ない人々のさらなるいじめにより、 より深く傷つき、生きていくことにも自信がなくなってしまった方々のお話が、 前回の「小さいダオ花」に紹介されていました。彼らに心の平安が一日も早く訪れることを願わずにはいられません。
 そこでボランティアとは何なのか、この機会に少し考えてみました。 日本人はあまりボランティアに積極的でないと思われているようですが、 実は自分をアピールすることが下手なだけなのではないでしょうか。 あれこれ相手の好みを考えた筈なのに"つまらない物ですが・・・""お口に合うかどうか分かりませんが・・"と言って渡したり。 私としては少し控えめで良いと感じるところですが、それが消極的にとられがちです。 "プライバシー"という言葉が幅を効かせて始めると、控えめでちょっとシャイな日本人は、 どこまでがプライバシーなのか迷い始めてしまったのでしょう。
 ボランティアはこまっている人のために何かをしてあげるという一方通行ではないのです。 何かすることにより今までと違った世界と多くの人々に出会え、 どんなにお金を払っても手に入れる事が出来ない心の成長を感じた時"してあげる"から"させていただいている" ことに気付くのではないでしょうか。
 私は、今そこに心の病んでいる友の為に心を添わせ、 自己満足で終わることのない真のボランティアをめざして努力していきたいと考えております。 「小さいダオ花」を通して彼らの声を聞き、少しでも難民の現状が理解され、 さらに手を差し出してくださる方があればと思いつつ、 願わくは作り手の方には小冊子を手にした方にもう少し具体的な呼びかけをし、 私たちの心の中に眠っている"助け合い"の気持ちを呼び覚ましていただきたいと思います。
網野 厚子


日本語スピーチフォーラム (難民事業本部主催)より
ベトナム人として
トルオン ティ トゥ トラング 在日19年

 皆さんこんにちは。私の名前は、トルオン ティ トゥ トラングです。 現在日本赤十字病院で看護師として働いています。ベトナム難民です。 19年前に家族と小さな舟でベトナムを脱出しました。当時私はまだ5歳でした。 もちろんこれからどこに向かうのか、なぜベトナムを出るかも知りませんでした。
 日本に来て今まで一番つらかったことは差別を受けたことです。 義務教育の中では「難民」「外国人」「ベトナム戦争」「国へ帰れ」と、同級生から目に見える差別といじめにあいました。 そして社会に出てからは目に見えない差別を受けています。 数年前に看護師の試験に合格し、病院に就職活動で行ったときでした。 看護師の募集広告があり、電話をしました。電話の話し合いがスムーズにいき、 最後に面接の日時を決めるのに「氏名と連絡先を教えてください」と言われました。 そのときに、カタカナの私の名前を言ったところ「少々お待ちください」と言われました。 数分後に「たった今募集が終わりました」と面接を断られました。 数分の間で募集が終わることがあるのでしょうか。差別があってはならない医療現場でさえ、私という人間を知りもせず、 私のカタカナの名前だけで私を受け入れてなかったのです。
 また、以前の病院で、ナースキャップを被り、看護師として働いている私に対して、 患者さんは「日本語読めるの?漢字分かるの?」「仕事大丈夫?できるの?」「日本に稼ぎにきたんでしょう? 国に持って帰れば金持ちになれるよね」いくら私が難民ですと伝えても「お金いいもんね。看護師は」と言われました。 看護師の国家試験に合格した私は、一人の看護師としてではなく、日本人ではない外国のよそ者でした。
 私は患者さんを看護するにあたり、日本人だから、外国人だからという意識で看護したことは一度もありません。 日本国籍にしてしまえば心無い一言に傷つくこともありません。しかし、私は国籍を変えようと思ったことは、 今までに一度もありませんでした。なぜなら国籍を変えても私の体内に流れているのは両親からもらったベトナム人としての血だからです。
 また、ベトナム人や外国人を色眼鏡でしか見られない一部の日本人の方々に、 外国人も日本人同様の生活力や学習力、そして賢明に働くことがことができることを私のカタカナの名前で伝えていきたいのです。
 そこでここにいらっしゃる皆さんにお願いがあります。私たちの国は違いますが、同じ地球人です。 同じ人間として私たち外国人を差別しないでください。 そして、これからそのような日本人がいらっしゃったら、どうか一言教えてあげてください。 同じ地球人、同じ人間、文化がちがうだけだよ、ということを伝えてください。お願いします。ご静聴ありがとうございました。


日本語スピーチフォーラム (難民事業本部主催)より
親子
ペットソンブー アンポン(川村愛)在日18年 ラオス

 私が今回ここでスピーチをしたいテーマは「親子について」です。 いざスピーチを始めるとなると、何を先に言っていいのか迷いますが、まず、私の両親を紹介したいと思います。 私の父ペットソンプー カムワンは、ラオス出身で性格はとても頑固で昔の日本のお父さんいたいな人です。 母のほうは、ペットソンプー ブアソンもラオス出身です。 母のほうは父に比べるとそんなに頑固ではないのですが、頑固の部類に入ります。
 ラオスやベトナム近辺は親の言うことは絶対で反抗、ましてや口答えも許されないという家族の文化があるから、 そういった親の背中を見てきた子どもたちもまた、頑固な親へとなっていくような気がします。 子どもですから、思春期という時期があって、世の中の矛盾に過激に反応して、それをどうしても相手にぶつけたくなります。
 そのときは、頭ごなしに叱らず、子どもの存在を否定せず、 大きな心をもって子どものひとつひとつの言葉に耳を傾けてあげてほしいのです。 その子が自分に何を伝えたいか感じとってあげてください。 そして、そのことについて、怒らずに話し合ってみてください。 そうすればきっと、頭ごなしに叱るよりもその子どもの心がずっと成長していくと私は思います。
 また、危険な道へ行きそうなとき、どうか無理やりに自分の元へ戻そうとしないでください。 無理やりに自分の元へ戻そうとすれば、またその道へ子どもは走っていくでしょう。 子どもが聴く耳を持った時にさりげなくその道の危険さを話してあげればちゃんと、 今自分のいるポジションについて考え直してくれるはずです。 なんだかんだ言って子どもは結局、親の愛、助けが必要なのです。 どうかそのサインを感じ取ってあげてください。そんな時の子どもは、ちゃんと覚えています。 その数が多ければ多いほど親に対する感謝の気持ちは大きいはずです。 そのやりとりができてこそ、親子それぞれの立場が確立してくると思います。
 最後に、お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとう。 心配や迷惑をたくさん、たくさんかっけぱなしで、何一つまだ親孝行できていません。 これからも何かと迷惑をかけて苦労させたりするかも知れないけれど、 この先、絶対親孝行して幸せにします。これからもよろしくね。そして、最後まで聞いてくださった皆さん、ありがとうございました。
ていじゅう@


実子5人+養子5人=10人
貧しさものともせず…ベトナム カトリック夫妻

 【ホーチミン(旧サイゴン)ベトナム4月30日UCAN】
 ベトナム南部のあるカトリック夫妻は、長年自分たちの五人の子どもたちの物質的な必要のために苦労して働いてきた。 しかし別な意味で豊かな彼らは、親のいない子どもたち五人を養子にしている。 こうしたわけで、グエン・ティ・フォンさん(48)と彼女の夫で土木工事員のボ・タン・バンさん(49)には、 一歳から二十一歳までの十人の子どもがいる。一家は2001年に購入したホーチミン(旧サイゴン)の六十平方メートルの家に暮らしている。
 フォンさんは、夫妻が子どもたちを養子にしたのは、一家が苦難のただ中にあった時、神が助けてくださったからだと言う。 そして彼らは自分たちよりも貧しい人々と分かち合う義務についてもよく理解している。 と彼女は説明し、神が貧しい子どもをもっと送ってこられるなら、受け入れるつもりだと付け加えた。
 フォンさんは振り返る。三年前のある日、最初に養子にした三人と出会った。 その子たちは、彼女の自宅近くの木陰で、ボランティアに勉強を教わっていた。 貧しく身なりも清潔とはいえない子どもたちの中にいた。そのうち十歳と十三歳、十五歳の兄弟三人が親を失い、 北部の地方から来ていて、祖父と共に路上で生活をしていることを知った彼女は、心を動かされた。 彼女はたちどころに、この子どもたちの苦しみを身に感じたという。 「私自身も家のない生活をしたことがありました」から、 「この子たちのおじいさんに、彼らとわたしと一緒に住まわせてくれるよう頼んだのです」と彼女は話した。
 彼女のこの寛大な申し出は、一家の豊かではない家計を圧迫した。 夫のバンさんは言う。「あのころ、私たちには十分な食料もありませんでした。 時には"チャオ"(米のかゆ)、または配給された米を食べるか、そうでなければ、仏教寺院で米を無心するしかありませんでした。 それでも、三人の子を養子にしたのです。」夫妻は2000年に四人目を、昨年には五人目を養子にした。 最後の子は、少数民族のラグライの女の子だった。

 「神の助け」で新居を建てる
 フォンさんによれば、夫妻の家が「一九九九年に、道路建設のため取り壊された時、 政府の補償金は六百万ドン(約四万八千円)で、代わりの家はとても買えなかった。 一家は仕方なく、他人の家の屋根裏部屋を借りて住むことにした。 しかしその後、「神が私たち一家を助けてくださいました」と彼女は語った。 政府が補償金を追加してくれたので、六十平方メートルの家を買えたのだという。
 夫のバンさんは思い出す。三人の養子が家族に加わったことは、 実の子どもたちに、特に貧しい人との分かち合いの精神を教えるのに役立った。 「その後子どもたちはもう、人をうらんだり、すねたりしなくなりました」と言う。
 夫妻の実の子ボ・バン・ダイさん(22)はこう言う。「私たち兄弟は、食べ物がなくなり、 両親の愛も奪われるのではと、正直恐れていました。でも三人の子どもたちのことが分かると、 私たちはこの子たちがいとおしくなったのです」四人目の養子ブイ・ミン・タムさん(13)は、 「毎日ママとパパが、勉強と要理を教えてくれます。ママの教え方がとても好きです。 勉強と遊びがいっぺんにできるから」と話す。
 外国人の子どもたちの保育施設で教師をしているフォンさんは、 聖書や人生の価値について子どもたちに教える時には、ゲームと外国語教授法を取り入れているという。

 末娘の手術もきずな深める
 五人目の養子でグラフイの女の子ボボ・ティ・ミ・リンちゃんは、一歳で引きとられた時、顔に腫瘍(しゅよう)があった。 外科医がなかなか見つからなかったが、この一月やっと手術を受けることができたという。 夫妻の実の娘ボ・チャウ・トアン・タムさん(17)は、「最初私たちは、リンの顔を見るのは嫌でしたが、 だんだんかわいくなってきて、代わる代わる面倒を見るようになりました」と語る。 リンちゃんが手術を受ける時、両親は残りの子どもたち九人全員に、小さな妹のために祈るよう頼んだという。
 夫のバンさんは、リンちゃんが泣き続け、世話が大変なので、時には施設に送りたいと思うこともあったが、 「彼女が一生懸命抱きついているのを感じて思い直した」と語った。
 妻のフォンさんは、パートタイムで保険外交員として働き、家計を助けているが、 「夫と私には子どもたちが正しく育ち、幸せになる助けができるなら、こんな苦労は何でもありません」と言う。
 夫妻と同じ小教区で、一家を訪ねることがあるグエン・ティ・ハさんは、 「貧しい子どもたちの施設をよく訪ねますが、この一家ほど、明るい笑いにあふれ、 とても清潔にしている所は見たことがありません。子どもたちは互いに気遣い合いながら暮らしています。 だれが実子で、だれが養子なのか、わたしには区別が付かないほどです」と話していた。
(カトリック新聞)A


はじめまして!

 みなさんはじめまして!グエン・タン・ヴィンと申します。
 昨年4月に東京都杉並区の育英工業高等専門学校の3年生に(電気工学科)に編入させていただきました。 この学校に入れましたのも皆さんたちのご支援のお陰であり、決して僕一人の力ではありません。 このことを頭に入れて勉強に頑張っていきたいと思っています。
 編入してから7ヶ月がたちました。入学する前はとても不安でした。 途中から入って、他の学生についていかれるかと毎日が不安でした。 それと初めて両親から離れて一人暮らしをする寂しさもあります。 でも不安や困った時はいつも教会にいっておいのりしていました。 そのおかげもあって今はずっと慣れてきて落ち着いています。
 今では東京に来てよかったと思っています。いろんな人との出会いもあり、学ぶ事がたくさんあります。 勉強は難しいけれども何事も努力をすれば乗り越えられると思います。 一歩踏み出さなければ何も始まりません。だから頑張りたいと思います。
 僕をここまで支援してくださった皆様に心から感謝申し上げ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
 一番下の妹(小1)と一緒の写真です。
グエン・タン・ヴィン


こんにちは

 在日22年、この度やっと日本で一番有名な宝塚歌劇を見にゆくことができた。
 海外旅行よりも楽しみにしていたほどで、会場に一歩ずつ近づくにつれて、気分はわくわくしてきた。 運よく今回の劇は外国物ではなく、「野風の笛」という大阪城の物語だったので、ちょっとだけ日本の歴史についても知ることができた。
 会場全体は現代的だが、皆が注目して場所は何百年か前の風景だった。 その"古"と"新"の奇妙な対立からいろいろなことを考えさせられた。 さすが宝塚歌劇団といった感じで、2000人あまりの観客が劇の中に吸い込まれていった。 とても迫力があった。その劇の物語には、あるメッセージがあるように思った。 それは温故知新、"古"があるからこそ"新"がある。昔の人のおかげで現在の私たちは平安な暮らしができるようになった。 便利で現代的な暮らしをしていても、私たちは人類の祖先から受け継いできたものを決して忘れてはいけない。
 在日ベトナム人の子どもは日本に生まれ育ち、日本の歴史は知っているが、残念ながらベトナムの歴史については全然知らない。 何十年後、在日ベトナム人一世がいなくなり、この子たちはどうなるのだろう。これは大人たちの課題ではないだろうか。
タン・ガ


感動のひととき・明日への力

 毎年、11月の第一土曜日、東京文京区にあるカテドラル(カトリック東京大司教区本部)ケルンホールで、 教区福祉委員会主催の「福祉の日」が開催されます。今年は11月8日でした。 「福祉の日」開催の趣旨は、日頃、教会で福祉に携わっておられる方をお招きして、カトリックの福祉のあり方を考え、 意識を深めようというものです。内容は、まず、参加者みんなでミサを捧げ大司教様にお話をしていただき、 次に、講師の方をお招きしてお話をうかがうという二本立てになっています。 昨年は、教会で高齢者のためのデイサービスを実践しておられる信徒の方の報告でした。 今年は、講師としてどなたにお願いしようかと話し合ったときに何人かの候補者の一人が石川神父様でした。 候補者を絞る中で最終的に石川神父様が残りました。早速電話でお願いしました。 快く引き受けてくださったことを委員会に伝え、みんなで喜び合いました。  
 さて、当日は、作業衣(さむえ)をまとってひょうひょうと会場にあらわれてくださった神父様に、 誰ともなく拍手が上がりました。懐かしい人にあったような感じがしたからです。 集いは、まずミサから始まりました。岡田大司教様は「この東京に来る前、私は浦和教区の司教でした。 その頃、よく『あかつきの村』に行きました。そしていろいろ教えられました。 その働きを見て石川神父様を尊敬していまた。今でもその気持ちは変わりません。」とおっしゃいました。 また、説教の中で、自殺者が増加したことなどを取り上げ、足りないところや悪いところに目を注いでいたら、 神の恵みの深さに気付かないままになってしまうことを強調されました。
 ミサが終わって短い休憩時間のあと、石川神父様の講演が始まりました。 石川神父様は、はじめ緊張気味で『あかつきの村』の建設当初からベトナム難民を受け入れるようになった経過を詳しく話されました。 一時間の講演時間を三十分も超えて話され、話しても話しても話したりないという感じでした。 特に、心の病に苦しむベトナムの方との関わりについても感動的で聴く者の胸を打ってやみませんでした。 心を病んだ青年とのやりとりを聞いて、思わず涙する方が何人もいました。 神父様は淡々と、青年を気遣いながらはなされるのですが、聴く者にとって、ショックの連続でした。 そして、その青年が、ある女性の語りかけに少しずつ心を開いて行き、ついに仲間のもとに帰って行くところでは、 会場全体が安堵の気持ちでした。誰もが、キリストの奇跡を目の前にしているような気持ちだったでしょう。
 話を終えられるとき、神父様は「最後は心です。機械も技術も大切です。しかし、それだけでは人は癒されも救われもしません。 最後に人を立ち直らせるのは人そのものですし、その人に傾ける心です」と言いきられました。 どんな人でも言いそうな言葉です。しかし、神父様だから言いきれる言葉であり、聞いていた人誰もが心から納得できることでした。 質問に答えて、あとは神様に任せています。ただうれしいことは、 これから『あかつきの村』を続けてくれる後継者が育っていることです、とおっしゃっていました。 あとはどうなるのだろうと思っていた人にとって、それは思いがけない朗報でした。 神父様、どうぞお元気で、無理をなさらないようお働きください。みんな、そう祈っていたのではないでしょうか。
西川 哲弥(東京教区司祭)


ドイモイ政策の支柱に
ベトナムの世界的エコノミスト  グエン・スアン・オアインさんを悼む

 夏ベトナムの世界的エコノミストと知られたグエン・スアン・オアインさん(82)は、知的で温厚、かつ庶民的。 とても気さくな人だった。サイゴンの陥落でベトナム戦争が終結した75年4月、 当時の南ベトナム政府の官僚、高級軍人らが大勢、米軍人らとともに国外外脱出したが、元副首相のオアインさんは踏みとどまった。 そのため6年ほどは、当局の監視を受け、行動の自由もなく悲哀を味わった。
 しかし、オアインさんの経済学者としての知識や経験には党改革派の最高指揮官らも敬服し、 やがてドイモイ(刷新)政策推進の支柱になった。オアインさんは、若いころ、日本留学を決意して1939年に貨物船で来日し、 三高と京都帝大(現、京都大)で約10年、経済学を学んだ。京都で終戦を迎え、戦後はハーバード大学へ留学。 米国生活も長かったので、英語、日本語ともに完璧だった。
 ドイモイが始まって間もない87年当時、同国へ取材に訪れるつど、 「最近の経済の現状をききたい」と自宅に電話すると「ちょっと待ってて」と快く答え、 15分後には愛用のフォルクスワーゲンを運転して自らホテルまで来てくれたものだ。 ホテルで「ここの方が遠慮なく話せます」と言っていた。監視の名残を気にしていた。 ドイモイはその後軌道に乗り、ベトナムは日本企業の有望な投資先として注目を集めるようになった。
 妻のタム・ハンさん(56)は元女優。 
バンコク=宇佐波 雄策)
(朝日 新聞)B


読者の声

 「小さいダオ花」をいつもありがとうございます。
 いつも祈りのうちに読ませていただき、心に感銘を受けております。 わずかですがお送りさせていただきます。           
宝塚市 女子御受難会
 「小さいダオ花」8号で、あらためて「あかつきの村」の歴史と現実を知りました。 日本の社会の閉鎖性、日本人の心の狭さを破るために声を行動に移していかねばと思います。
青森市 聖母被昇天修道会


資料:
 @ていじゅう105号 Aカトリック新聞:03/7B朝日新聞:03/9/11


あとがき

 それぞれの環境で、それぞれの想いをもって2004年を迎えられた皆様とご一緒に、 目に見えない将来ではありますが、すべての人にとって平和と幸せが実現しますように心を合わせて祈り、活動していきたいと願っています。
 さて、冒頭にもご挨拶をいただきました石川神父の「福祉の集い」での講演内容が「東京教区ニュース」12月号に掲載されました。 お読みになった方もいらっしゃると思います。そのキーワードは『医者でも金でもありません。 要は愛です。愛する心です。』ということでした。ここには体験という重みが感じられます。
 人間が一人一人認められて生きられる暖かい「場所」と「つながり」が生活の根底になければ、 何らかの意味で歪められた人生を歩むようになってしまうと思います。 私たちは皆、愛の道をたどっていく巡礼者のようなものでしょう。 私たちも、寒い時には暖かい陽射しになり、暑い時には木陰になって、 まずは目立たないけれども快い環境を整えながら厳しさに臨んでいかれる努力をしなければと再確認しているのが現状です。 もちろん、これは常識を離れた非社会的なことをいっているのではないことも皆が理解しているところです。 当然、経済的なことや文化的水準も見逃せない要素で、助け合いの場の常識です。 しかし、どんなにお金があっても、医療が充実していても、 最終的に「要」となるのは「愛」以外の何ものでもないことを、 メッセージとして私たちの心に投げかけられたのだと思います。
 人間の苦しみはさまざまですが、その中でも心に深い傷を残すのは差別の問題でしょう。 とくに、小さなことであっても日本の狭い社会のなかで、外国人ということだけで思わぬ別扱いをされたり、 いじめられたりすることは、本人の心の奥底に大きな穴をあける結果となってしまいます。 穴をあけ、傷つけてしまったことについて一番よく分かるのは、 自分自身が日本を出て他の国へ行った時、国内であれば転校と転勤で習慣などが異なっている場所へ行った時かも知れません。 いずれにせよ、私たちは正しいことを求める誠実さと寛容な心、細かい心理的な動きを通して受容性のある世界を創っていきたいものです。
(中里 昭子)

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