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小さなダオ花 8

(特集)あかつきの村
難民は「お荷物」ではない
日越国交30周年
あとがき



あかつきの村
文・写真 瀬川 正仁
村長の石川能也神父、その暖かい笑顔は、難民たちの心の支えになっている。
 群馬県にある民間の難民収容施設「あかつきの村」。
 ここでは重い精神疾患を患った八人のベトナム難民が共同生活を送っている。
 今から二十四年前、松林を切り開いてこの村を作ったのは村長石川能也神父(六十五歳)だ。
 数百十万人の死者と二百万人を超える難民の群れを作り出したというベトナム戦争も今は昔の話になろうとしている。
 しかし、海を渡った難民たちの苦しみは今も続いている。
 

 群馬県前橋市郊外。静かな田園地帯が週に三日、多くの人たちで賑わう。 民間の難民施設「あかつきの村」が運営するリサイクルショップが開かれるからだ。 営業を始めて二十年。安い上に、掘り出し物が多いと評判のこの店には、 地元の常連客だけでなく、東京からも業者がトラックで買いに来る。 倉庫を改造した広い店内には、衣類から家具、電化製品、果ては書籍まで、所狭しと並べられている。 値段は衣類が三百円から、単行本は全て百円という評判通りの安さだ。
 「以前、うちから三千円で買った骨董品が、東京で十万円に売れたといって、お礼に肉や野菜を差し入れてくれた人もいるんですよ」。 石川神父がにこやかに話す。三千円が十万円?そんな話を聞くと普通なら大いにくやしがるところだろうが、石川神父は、心底、嬉しそうだ。

 「あかつきの村」が誕生したのは一九七九年、今から二十四年前のことだ。 身よりのない障害者や、様々な事情から日本社会で一人で生きていけない人たちに、人間らしく生きられる場所を、 という石川神父の強い思いから作られた。数人の支援者と共に、 カトリック浦和教区から借り受けた一万平方米の土地を開墾し、 拾い集めた木材を使って、およそ一年がかりで粗末な小屋を建てたのが村の始まりだ。
 「あかつきの村」が難民のために施設として生まれ変わったのは、それから三年後の一九八二年、 日本が難民条約に加盟した年のことだ。 難民センターの建設が追いつかず、収容しきれなくなったベトナム難民を預かってほしいと、政府から要請されたのがきっかけだった。 小さな船に乗って、命がけで海を渡ってくる難民たちの姿に心を痛めていた石川神父は、二つ返事でこの要請を受け入れた。
 この村で世話をしたベトナム難民の数は、二十一年間で二百人に及ぶ。 ボートピープルと呼ばれた難民たちの到来が第二のピークを迎える八○年代の後半には、 五十人近いベトナム人難民が、この村で共同生活を送っていた。 石川神父は、難民たちの心を支えながら、教育の機会を与えたり職場を探したりして社会に送り出していった。
 この村が、最初に難民の精神障害者を引き受けたのは、一九八六年のことだ。 日本の法律では、ひとたび精神病と判定され病院に入院すると、親や親族の承諾無しに退院することはできない。 日本に家族がいない難民の場合、精神病を発症すると、死ぬまで狭い病室の中で暮らすことになる。 この事実を知った石川神父は、心の病に苦しむ難民の身元引き受け人になり、村で生活の面倒を見ることにしたのだ。
 その後、全国各地にある国の難民センターは、手に負えなくなった重症の精神障害者が出ると、 「あかつきの村」に送るようになっていった。 難民受け入れから二十一年、今では、重い心の病気を抱えた難民たちだけが村に残っている。

 二十四年前、一軒の掘っ立て小屋から始まった「あかつきの村」は、今では十棟もの建物が敷地の中に点在している。 石川神父たちが暮らす母屋、リサイクルショップと店で売る品物をストックしておくための倉庫が四棟、 四年前に始めたベトナム物品を売る店、丸太で作られた礼拝堂、 そのほか新たな難民や困っている人がやってきた時、いつでも泊まれるアパートもある。 心の病を抱えた八人の難民たちは、石川神父やスタッフたちと一つ屋根の下で共同生活を送っている。

 「あかつきの村」は不思議な空間である。門も柵もないので、敷地の中に二十四時間、誰でも自由に出入りできる。 夜中でも母屋の鍵を掛けることもない。そして、何よりも不思議なのは、 二十人を超す人々が共同生活を送っているにもかかわらず、規律のようなものがほとんどないことだ。 決まりといえば、食事の時間が決まっているぐらいだ。しかし守らなくても誰もとがめたりしない。
 酒やたばこも自由だ。敷地の中にはビールの自動販売機もあるので、その気になれば、いくらでも飲むことができる。 そこには、徹底的に人間を信頼するという、石川神父の流儀が貫かれている。 何かというと規律に縛られることの多い日本社会で暮らしていると、この村の暮らしは、難民ならずとも不思議な開放感がある。
 ある難民が被害妄想が強かったとき、体に何本ものナイフを巻きつけて暮らしていた。 そんなときでも、神父は無理矢理ナイフを取り上げたりはしなかった。 取り除くべきものはナイフではなく、彼の恐怖心であることを知っているからだ。 狭い病室に閉じ込められ、一生を終える可能性があった病人たちが、 ここではゆっくりゆっくりと、人間らしさを取り戻しつつある。

 この日は、回復に向かいつつある二人の難民が、スタッフに付き添われて、 前橋市内の民家に不要品の回収に出かけると聞いて、同行させてもらった。 リサイクルショップを始めて二十年、今では多くの支援者から、古着や雑貨が送られてくる。 段ボールに入りきらない大きなものは、スタッフが車で関東一円、どこへでも受け取りに行く。 この村のリサイクルショップが圧倒的に安いのは、こうした寄付の品が中心になっているからなのだ。
 現場には三十分ほどで到着。いらなくなったベッドやオルガンなどが、次々に車に積み込まれる。 しかし、作業しているスタッフの顔がさえない。「売れないものが多すぎます」。
 ここ二、三年、リサイクルショップが急増し、百円ショップなどの登場もあって、 安ければ何でも売れる時代は終わりを告げた。どんなに値を下げても、いたんだものや質の悪いものには買い手がつかない。 売れ残ったものは業者に金を払って廃棄処分にしてもらうしかない。 売れない物を持ち帰ることは、ただでさえ苦しい村の財政をさらに圧迫することになるのだ。 しかし、善意で提供してくれる支援者に、受け取りを拒否するのは心が痛む。 結局、全ての品を車に積み込み、村に戻った。
 村の維持費は、難民たちの治療代や光熱費、食費、スタッフの給料など全てを含めると年間二千万円以上かかる。 リサイクル事業は村を支える大切な財源となっている。 しかし、石川神父はこの活動にはそれ以上に重要な役割があると考えている。 孤立しがちな病気の難民たちが、この仕事を通して、社会との関わりを持ち、自立するきっかけになってほしいと願っているからだ。 「彼らは初めから病気だったわけではないんです。 日本に来た当時は、みんな元気に働いていたんです」石川神父は静かに言った。

 この日、作業に出かけた難民の一人、ファム・フー・ドゥクさん(三十八歳)は、この村で十七年間暮らしている。 ドゥクさんも、ここで暮らす他の難民のたち同様、初めから心の病を患っていたわけではなかった。 日本にきた当初は、夜遅くまで日本語の勉強に励み、ほとんどの外国人が、漢字が難しいためネをあげてしまう運転免許の試験にも合格した、 いわば難民の優等生だ。しかし、頼りにしていた兄のミンさんが職場でのいじめを苦に自殺、 このころから、ドゥクさんは人を怖がるようになり、やがて、幻覚や幻聴に苦しむようになった。 医師の診断は統合失調症(精神分裂病)だった。この病気は、先天的な要因も少なくないと言われている。 しかし、発症するかどうかは、その人の置かれた環境が大きく作用する、と専門家は指摘する。
 ドゥクさんが、心の病を発症した原因を特定するのは難しい。ベトナム戦争で受けた心の傷。 日本に来てからの環境の激変や言葉の壁。難民が心を病んでゆく要因は数限りなくある。 しかし、多くの難民に接してきた石川神父は、彼らが病に陥ってゆくきっかけには、ある共通点があると言う。 それは日本の職場で受けた心の傷だ。
 ある難民は日本語が不自由なため、上司の指示通り動けず、その都度、頭を叩かれ、 ついには外にでるのも怖がるようになった。また別の難民は、病気の家族を介抱したいと残業を断ったため、 職場の同僚から陰湿ないじめを受けるようになった。 頭を叩いた上司は、それほど悪意があったわけではないかも知れない。 しかし、ベトナムでは頭を叩くとことは、相手に大きな屈辱を与えるタブーである。 また、家族より仕事を優先するのは、日本の常識ではあっても、世界の常識ではない。 こうした異文化への無理解が、難民たちを心の病に追い込んでいく一端となったことは、想像に難くない。
 「日本の会社、わるい。日本の会社、きびしすぎる」ドゥクさんは何度もそう繰り返す。 作業の後、部屋に戻ったドゥクさんは、小さなオレンジ色の手帳を引出しから大切そうに取り出した。 それは、すでに黄ばみ始めている十七年前の年金手帳だった。 日付は一九八六年、ドゥクさんが病気を発症した年のものだ。 昔は、自分も元気いっぱいに働いていたんだ。彼の目は、そう訴えかけているように思えた。

 ここで、ベトナム難民と日本の関わりを簡単に振り返ってみよう。 ベトナム戦争が終結したのは一九七五年のことだ。この戦争はベトナムだけでなく、 戦禍を被ったカンボジア、ラオス、合わせて二百万人近くの難民を生み出した。 いわゆるインドシナ難民と呼ばれる人たちだ。 日本政府が、インドシナ難民の受け入れを表明したのは、戦争終結から四年後の一九七九年のことだった。 人道的支援、というのがその名目だったが、その実態は決して褒められるものではなかった。 難民が発生した当初、日本は小舟に乗って海岸に漂着する難民たちの上陸を、かたくなに拒み続けていた。 こうした日本の姿勢に国際社会からの非難が高まり、いわば外圧に押される形で難民の受け入れを決定したのだ。 しかも、欧米諸国が小さな国でも年間数千人単位の受け入れを行ったのに対し、 日本が受け入れた難民の数は僅か五百人だったのだ。 その後、難民の受け入れ枠は拡大され、現在、一万人を超えるインドシナ難民が日本で暮らしている。 しかし、人道支援として始まった日本の難民事業は、結果として、難民たちに多くの苦難を背負わせることになった。 難民受け入れに長い歴史を持った欧米諸国に比べ、日本国内には、難民を受け入れる心の準備も、 彼らをまもるべき法律も整備されていなかったからだ。 ベトナム人精神障害者の発生は閉鎖的で排他的だった日本社会と無関係ではない、と石川神父は考えている。

 食事の時間は、村で最も楽しいひとときだ。 食卓には、サラダやコロッケなどに混じって生春巻きなど、ベトナムの食べ物も並ぶ。 ベトナム語のお祈りの後、食事が始まった。この村にいる限り、自分たちは受け入れられている。 そんな安心感があるせいだろうか、難民たちの表情は明るい。 こうした環境を作り出しているのは三名のスタッフとボランティアたちの献身的な努力だ。

 スタッフのリーダーで、難民たちの相談役であるグエン・バン・ニンさん(三十一歳)は十四歳の時、 たったひとりボートに乗せられ、日本にやってきた難民だ。 難民船に乗せるには莫大な費用がかかる。国の未来に絶望した親が、 せめて子どもだけでも自由の国で暮らしてほしいという思いから、子どもだけを船に乗せるケースがしばしばあった。 当時、「あかつきの村」ではニンさんのような身よりのない幼い難民を積極的に受け入れ、 日本語を教えたり、学校に通う支援をしたりしていた。
 努力家のニンさんは言葉のハンディを克服し、高校で主席卒業、地元の大学も優秀な成績で卒業した。 前途洋々たる未来がある、と胸を膨らませていたニンさんだが、現実は厳しかった。 たとえ大学を出ていても、当時ベトナム人を雇ってくれる企業はほとんどなかった。 ニンさんは、三K職場で働くしかなかった。どんなに頑張っても所詮は難民なんだ。 絶望の淵にいたニンさんに、「君の力がぜひ必要だ」と声をかけてくれたのは、育ての親である石川神父だった。
 「一歩間違えば、僕も彼らと同じになっていたかもしれませんね」ニンさんは、 心を病んでゆく難民たちの気持ちが痛いほどわかるという。
 現在ニンさんは、日本人スタッフと日本語の不自由な難民の橋渡し役として、なくてはならない存在だ。 中でも、ニンさんの力が一番発揮されるのは、難民たちが精神科を受診するときだ。 心の痛みを理解してくれるニンさんに対する、難民たちの信頼は絶大だ。 彼らは悩み事や体調の不良などがあると、その都度、ニンさんに相談する。 精神科医は、難民たちの状態を正確に把握しているニンさんの情報を頼りに、治療方針を決めたり、 投薬量を変えたりすることができるのだ。 難民たちの世話以外に、村にあるベトナムショップの運営、 さらに近くの工場で働くベトナム人研修生への日本語指導など、ニンさんの一日は目が回るほど忙しい。 それでも、「これ以上の天職はありません」と、ニンさんは胸を張った。

 「昔は札付き不良、盗みや暴力事件なんて日常茶飯事でしたよ」そう語るのは、 村の番頭役で、事務局長を務める高田博さん(三十一歳)だ。 高田さんは日本人でありながらこの村の出身者なのだ。 高田さんが十七歳の時、悩みぬいた両親に泣きつかれ、石川神父は生活の面倒を見ることにした。 石川神父の献身的な努力もさることながら、高田さんを立ち直させるきっかけになったのは、 意外にも、ここで暮らす同世代の難民たちとの交流だった。 「難民たちは、僕たちが想像を絶するすごい体験をして、日本に来ているわけですよ。 彼らの話を聞いているうちに、突っ張って、ワルしている自分がアホらしくなってきたんです」
 その後、高田さんは通信高校を卒業し、社会に巣立っていった。 そして、五年前、石川神父の誘いで「あかつきの村」のスタッフになった。 「難民というと、日本人はかわいそうな人たちという印象をもつかしれませんが、 親しくなれば、むしろ、教えて貰うことの方が多いんです」当時、一緒に暮らしていた難民たちとは今でも大の親友だ。 アメリカに移り住んだ難民を訪ねて二度もアメリカを旅している。
 この村が、施設でありながら、大きな家族のような印象を受けるのは、 ニンさんや高田さんのように「あかつきの村と」と共に成長してきた存在があるからに違いない。

 四年前この村に異色のボランティアが加わった。 かつてエリート証券マンだった佐藤明子さん(三十九歳)だ。 営業所でトップセールスを誇っていた佐藤さんは、バブルとバブル崩壊を経験し、 一円の動きに一喜一憂する自分の生活に空しさを感じていた時、 キリスト教と出会い、全てを捨てて修道女になる決意をした。 三年に及ぶ修業生活の最後に与えられた課題が「あかつきの村」での実習だった。 彼女は、そこでグエン・バン・サンさん(三十九歳)と出会う。
 当時のサンさんは、妄想と幻聴の世界に生きていた。 自分の部屋に立てこもり、食事を運んできた人にさえ、敵意をむき出しにし、物をぶっつけた。 勿論医師も寄せ付けず、治療不能の烙印をおされていた。 鋏を怖がるため、髪や爪は伸び放題、糞尿も部屋の中で垂れ流すという、最悪の状態だった。 人間を怖がり、怯えるサンさんを見た瞬間、佐藤さんは自分の生きる道はここしかない、と感じたそうだ。 彼女は修道女になるのをやめ、「あかつきの村」に月二万円のボランティアとして残る決意をする。
 佐藤さんが、サンさんと歩んだ四年間の道のりは、精神医療のあり方に一石を投じるものとして興味深い。 「初めて部屋に食事を運んだときは、正直言って身体が震えました。 サンさんの話はみなから聞いていたけれど、それまで精神障害者に接したことはありませんでしたから」 しかし、佐藤さんの思いが通じたのか、サンさんは彼女に暴力を振るうことはなかった。 毎日食事を運び、歌を歌ったり、散歩に連れ出したりするうち、サンさんは穏やかになっていった。 かつて、人間に敵意をむき出しにしていたサンさが、僅かな自分のお菓子を、 村の仲間に分けようとする姿を見たときの感動は、今でも忘れられないという。
 現在、サンさんは自分を「四歳」だと言って、子どものように彼女に甘える。 「買い物に出かけると、時々、おもちゃをねだられるのですが、欲しがるものが本当に四歳児用なんですよ」。 サンさんは佐藤さんという「母」を得て、人生をもう一度生き直そうとしているのかもしれない。 「もちろん、社会復帰できれば一番いいのですが、彼らがそうなるためには、日本の社会が変わらなければ無理じゃないでしょうか。 それよりもここで暮らす人たちが、心安らかに過ごせるよう手助けするのが、 私たちの仕事だと考えています」そういい残して、佐藤さんはサンさんの手を引いて散歩に出かけた。

 この日、石川神父に嬉しい訪問者があった。 この村から巣立っていったグエン・バン・タイさん(二十七歳)が結婚したばかりの妻、 グエン・ティ・キム・チョンさん(二十七歳)を連れて遊びに来たのだ。 タイさんは、十四歳の時、家族と共に乗り込んだ難民船が日本のタンカーと衝突、 家族の中でタイさんだけが奇跡的に救助され、「あかつきの村」で育てられた。 タイさんは学校でいじめにあうなど、様々な壁に突き当たり、何度も村を飛び出しては、石川神父を困らせた。 「何で僕だけがこんな目に、ずっとそう思って生きてきました」そんなタイさんに、 石川神父はいつも変わりない愛情を注いでくれた。 「今思うと、僕は神父の愛情を試そうとしていたのかも知れませんね」自分がどんな状態でも神父の愛情は変わらないと知ったとき、 初めて目が覚めたと言う。「今でも辛いことはたくさんあります。 でも、僕にはあかつきの村と神父様がついているんだ。 そう思うと、頑張って生きなくちゃ、っていう気持ちになれるんです」
 「あかつき村」の周りには現在、およそ五百人のベトナム人難民とその家族が暮らしている。 その最大の理由は「あかつきの村」があるからだ。 難民たちは何か困ったことが起こったら石川神父が助けてくれる、そう信じて生きている。

 「第二の開国」と呼ばれたインドシナ難民受け入れから二十四年。 日本の国際化も少しずつではあるが進み、アジア人蔑視や難民に対する無理解も、以前よりはすくなくなった。 しかし、外国人である彼らを雇い入れてくれる企業は、依然少なく、例え就職できたとしても、一生、下働きの生活が待っている。 こうした中で、少なくとも百人ほどの深刻な心の病を抱えるインドシナ難民が、日本で暮らしていることがあきらかになっている。 しかし、国は彼らに援助の手を差し伸べようとはしていない。 「難民受け入れを決めたとき、彼らの複雑な背景を考えれば、たくさんの精神障害者が出ることは、ある程度、予想がついていたはずです。 にもかかわらず、何の手も打たなかったのは、国の怠慢です」石川神父は、いつになく厳しい口調で言った。
 心の病に苦しむ全国の難民たちのためグループホームを作りたい。 それが石川神父のこれからの目標だ。しかし、「あかつきの村」の今の経済状態では、実現は難しい。 「国は、日本人の高齢者や障害者のグループホームづくりに助成金を出しています。 難民たちのためにも、ぜひ、お金をもらいたい。政府はそうする義務があると思います」
 石川神父は、穏やかな笑顔の中に、新たな闘志を漲らせた。
(暮らしの手帳3 03/4.5月号)


厚生労働省 坂口 力 大臣殿

 今年、3月6日、難民事業本部長太田裕造氏が前橋市西大室町448-3「あかつきの村」に来訪されました。 ベトナム難民で精神障害者が8名おりますので、そのためにご来村くださいました。 日本には現在約100名のベトナム人精神障害者がいるので、そのことも考えての事と思います。 しかし、私とベトナム人連絡協議会長ソン神父の前で、 『難民事業本部としては日本で生活するのに充分な教育をしてあげたのに精神病になるのは本人の心がけが悪いからだ』と言われました。
 私も驚きましたが、ソン神父は怒って「たった3ヶ月の日本語教育で何が充分だ。 その後我々がどんな苦労をして日本語を勉強したかおまえには分からないのか」と強く大声でどなりました。 私も「彼らが精神病になったのは、本人の心がけが悪いのではなく、 日本の下請け会社の中にはベトナム人を馬鹿にして怒鳴なる、 蹴るなどひどい事をする人がいるので彼らは怖いといって会社に行けなくなり、アパートの家賃が払えなくなり、 行く所がなくなり、心が苦しくなって遂に精神的に病気になってしまった人がいるのです。」と、 言いましたら「こんな話はいくらしてもしょうがないことだ」と言って鞄を持ってさっさと帰って行かれました。
 このように精神障害者になってしまった人のことにまったく関心を持たない人が、 難民事業本部長という役職についていること、 また、3ヶ月間という短期間で日本語を教えることしか考えていない日本政府の態度に問題があると思いますので、 厚生労働大臣としてどのようなお考えかを聞かせて頂きたいのです。 よろしくお願いいたします。
「あかつきの村」責任者 石川 能也
2003年 7月7日


「難民は『お荷物』ではない。国同士の懸け橋になれるんです」

 祖国カンボジアの民法草案をつくった元難民
 4年がかりで完成させた民法と民事訴訟法の草案を今月末、祖国に引き渡す。
 プノンペン育ち、13歳の時にポルポト政権の命令で地方に追放された。 それからは強制労働の日々。地雷原を突破して難民キャンプにたどり着き、82年、外交官だった兄がいた日本にやって来た。
 電気部品工場で働き始めたが、もちろん言葉は通じない。いじめも受けた。 生きるために夜間中学で日本語を覚え、定時制高校と大学夜間部で勉強を続けた。 政情が落ち着いた92年いったん故国に戻り、5年後に弁護士資格をとった。
 元政権下での大量虐殺で法律家も人材不足が続く。 日本語の力と両国の事情に詳しいことが買われ、国際協力事業団(JICA)の法整備支援チームに加わった。 日本の法律をただ移植するではなく、風土になじみ人々に受け入れられるものを、と頭を痛めた。
 例えば、祖国では男性が事実上の第2、第3夫人を持つことが珍しくない。 そこで民法案では「夫婦の財産は共有」と定め、第1夫人の経済基盤がゆるがないように、 夫婦の住まいを勝手に処分してはいけないと明記した。 「法整備は橋や道路のように目には見えないが、社会をつくり、人を育てる。国の再建に関わる喜びは大きい」
 カンボジア出身の妻と2人の子とともに横浜市に住む。 日本名は11年前に日本国籍を取得した時、「大好きな甲斐の国の山並みのイメージ」で決めた。
甲斐 峰雄(40)
 文 井田加奈子  写真 中井 征勝   (朝日 新聞 03/6/21)


日越国交30周年

 ホイアンで交流事業  9月、日本ゆかりの地

 17世紀に日本人町があったとされるベトナムの世界文化都市、ホイアン。 日越国交樹立30周年を期して、9月13日から3日間、現地で国際シンボジウム「ベトナム文化と日本文化」や交流イベントが開かれる。 ホイアンはベトナム中部の交易港。海のシルクロードの中継点とされ、16,17世紀に栄えた。 今も東西500bにわたって、450軒からなる京都の町屋に似た古い木造建築の町並が残り、 昭和女子大をはじめとする日本の大学も、遺跡調査や街並み保存に協力してきた。 00年には、世界遺産に指定されている。今回の催しは、同女子大国際文化研究所が企画協力。 ホイアン市やカンナム省、JICA,文化庁、ユネスコなどと分担して、 様々なイベントや交流事業、遺産や街並みに関するシンボジウムを開く。 同研究所の友田博通教授は「これほど大規模な国際シンボジウムがホイアンで開かれるのは初めてではないか。 同市が世界に羽ばたくきっかけになれば」と話している。 
(朝日 新聞 03/8/17)


あとがき

 今号の特集「あかつきの村」と本会(「ベトナム人友好会})とは深いつながりにあります。 というのも、「あかつきの村」も、本会の前身といえる「難民定住委員会」も、 1982年以来十数年間ベトナム難民の定住支援を行ってきたからです。
 もう少し正確にお話いたします。日本カトリック司教協議会は、 1981年頃から、当時日本に滞在しながら行き先の定まらなかった多数のベトナム難民に対して、 定住支援を行う方針を固めました。そして、この方針遂行のための部署として、 「難民定住委員会」をつくりました。 同委員会(1983年当時の名称は「難民定住カトリック全国対策特別委員会」)は 「あかつきの村」をカトリック独自の難民定住センターとして設立しました。 これに先立ち1975年ボート・ピープル来日以来、全国のカトリック系の施設に依頼して、 北は新潟県柏崎市から南は沖縄県浦添市まで、20数個所に及ぶ難民収容施設を設置しました。 こうした活動を積極的に行った理由の一つには、 日本政府が、難民の日本定住のための施策をなかなか充分には整備できなかったという現実がありました。
 もちろん、「あかつきの村」はこうしたカトリックにおける難民向け対策の一つであるだけでなく、 独自の特徴をもっています。 1979年に「一軒の掘っ立て小屋から始まった」こと、 元「札付き不良」の男性、元「エリート証券マン」の女性をはじめ、様々な個人史をもつ人々がいること、 そして何よりも、日本の激しい競争社会の中で心を病むに至ったベトナム難民たちが、 ここを「終の住処(ついのすみか)としていると思われること、など。 詳しくは、本文をご覧ください。
 さて、私共は、ベトナム難民定住支援を主に行ってきたわけですが、 それ以外にもインドシナ難民と呼ばれる難民ラオス、カンボシアはもちろん、 名前を公表することさえできない亡命者たちを他の国々に送り出したり、 その他のアジアからの亡命者への援助も続けています。 これらの人々にとって生計維持のことだけではなく、 母国を支援しようという彼らの夢の実現についても、 陰で支えたいと思います。さらには、彼らの国々と日本の交流の中で、 この四半世紀の難民との関わりの意味を改めて洞察するつもりです。 今号の最後の二つの記事を参考に、ご一緒に考えてまいりましょう。  
(山本 直美)

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