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小さなダオ花

流砂の遠近法
インドシナ難民定住者の抱えている問題
小学校・中学校で感じたこと 
ナマズ摩擦   
学生からの近況    
こんにちは    
ひと       
サスペンス劇場          
あとがき  



流砂の遠近法
日野 啓三

 戦争と革命の中で
 暑すぎる夏だった。かつて特派員として駐在した熱帯の南ベトナムを皮膚に思い出させる夏だった。 その記憶が呼び寄せたのかもしれない。少し前に友人から渡されるままにしてあったベトナムの女流作家の長編小説を読んだ。 1947年生まれのズオン・トゥー・フォン作『虚構の楽園』の翻訳(1988年作、段々社)。
 以前にも社会主義ベトナムの短編小説を幾つか読んだ気がするが、政治性の強い小説の嫌いな私は忽ち忘れた。 これも似たようなものだろうと期待もなく読み始めて、次第に引き込まれて一気に読み、読後も感慨が濃く残って、 広く様々な記憶と連想を誘ってやまない。
 たとえば十年近く前、中国新疆ウイグル自治地区のタクラマカン砂漠を旅したとき、 省都のウルムチで案内役を務めてくれた日本語の達者な中国人青年が、こんな話しをしてくれた記憶。 ウルムチから近い天山山脈の斜面では遊牧民たちが古来の遊牧生活を続けている。 高校生の時自分でもよくわからない憂愁の思いに駆られて、ひとり山に登り遊牧民のパオ(テント)でひとり夏を過ごしたのだが、 そのとき携えていったのが、中国語訳の夏目漱石『こころ』だった。 そして人間にはひとりひとり「こころ」という世界があるのだ、ということを初めて知り、生まれ変わった気で山を降りた、と。 「文化大革命」が全土に荒れまわっていた時期のことだ。
 その中国青年の話を聞きながら、私も第二次世界大戦の末期に兵器工場に学徒動員になった中学上級生のとき、 偶然手に入ったゲーテの『若きウェルテルの悩み』の翻訳を繰り返し読んで、 自分の心の世界というもうひとつの現実に目覚めた時のことを、甘酸っぱく思い出した。 フォンさんの小説も、フランスとの第一次解放戦争、社会主義革命、アメリカとの第二次戦争と、 息つく間もなく続いた動乱下でベトナム(北部)でひそかに“自己”に目覚めてゆく若い女性の物語だ。
 アメリカとの戦争の時期、南ベトナム駐在の特派員だった私には、 圧倒的なアメリカの軍事力と信じ難い持続力で戦い続ける南の解放戦線と北ベトナムの人たちが、 直接に実態がわからないままに、一種顔のない超人的な存在のように思えたものだった。 だがいまこの小説を読むと、彼らも私たちと同じ人間だったと言う当然のこと、 しかも戦争と革命の相次ぐ中でも、若い人たちの自我の目覚めという“もうひとつの戦い”が深く、 静かに進められていたことを知って、私は改めて驚きながら強い感慨を覚えざるを得ない。
 当然そのような自覚された自己は、旧来のままの儒教的な伝統、習慣、文化と衝突せざるを得ない。 フォン女史の小説の主人公も、祖先の祭壇を受け継いで守ると言う縦の血縁共同体の濃く強いしがらみの中でもがき続ける。 しかも長く維持されてきたその旧来の人間関係の腕の中に抱き込まれようとする誘惑ないし自分の弱さにも傷つく。 この女主人公の出生関係は不幸に入り組んでいて、聡明だが小さく痩せた彼女は涙もなく泣く出来事が多い。 古い血縁的な縦の人間関係は、新しいはずの社会主義体制の権力構造の上下とも深くつながっているのだから。
 日本では否定的に
 二十世紀は戦争と革命の世紀だった。技術と開発の世紀だったともいえよう。 だが人類史と言う長い視野で静かに振り返ってみれば、旧来の民族、部族、村的共同体の中から自立的個人が性差を超えて、 目覚め頭をもたげ、対等の横の関係から新しい世界を模索してゆく意識の変革の世紀ではなかっただろうか。
 現在の日本では「近代化」も「個人」もむしろ否定的なニュアンスで言われることが多くなっている。 そんなことはすでにとっくに卒業したつもりのようだが(私はそうは思わないが)、 少なくとも多くの開発途上の諸国において、この意識の近代化の戦いはきょうの現実のものとして、 しばしば血塗られた現実として進行している。実際に教育を受けた都市中間層の悲劇的な現実として進行している。 ところが通常私たちは、上層の権力争いと、部族的あるいは宗教的な集団の熱狂的行動にのみ目がいって、 新しく誕生しつつある都市中間層の存在、その不安な運命は盲点になっている。
 そのことを早くから鋭く指摘してきたのが、『文化否定性』という刺激的な書物を書いた文化人類学者の青木保氏だった。 その中で氏は学校にいったことのあるというだけで虐殺され、大都市に住んできたというだけで家を追われた、 カンボジアのポルポト派による大虐殺をはじめ、タミル族とシンハリ族とが流血の抗争を続けてきたスリランカの実例、 カリブ海の小国トリニダードの都市中間層の恐怖を描いたシバ・ナイホールの小説を丹念に紹介した。
 またオーストラリアとニュージーランドの中国文学研究者が編集した『火種』というすぐれた現代中国文学アンソロジーを読むと、 天安門事件がフォン女史の女主人公と同じ精神的種族の若者たちが起こした反伝統の意識革命だったことがよくわかる。 敵は一つの政権、ひとつのイデオロギーではなく、四千年の重石ような中国の全歴史なのだ。 「今日、私はここへ来た/ ほかに言葉はない。ただ私の心だけ/ ほかに道はない、ただ私の心だけ/ 見渡す限りの荒れ野だ」 と若い詩人の一人は書いた。(楊煉タイマツ)そして 「見よ、メッキした空に/ 死者のよじれた影が逆しまにあふれる/ 私は信じない、空の青いことを」 シャープなイメージを描いた若い詩人、北島は亡命し『虚構の楽園』を書いたフォン女史は党籍剥奪、一時投獄、現在も執筆禁止という。
 さらにアフリカのルワンダの新しい大虐殺事件を、一般にわれわれはツチ族とフツ族という二大部族の抗争と教えられているが、 両方とも虐殺に積極的に加わろうとしなかった人たちが同じ部族の熱狂者たちに殺されている、とイギリスの新聞の現地特派員は伝えている。
 根無し草の都市中間層
 いわゆる冷戦終結後、数えきれぬほど世界各地で旧来の宗教原理、部族の血の掟、 死んだ帝国の亡霊に一体化しようとする動きが不気味に流れ始めている。 だが、発展途上諸国でも、かつてと比べれば普通教育は普及し、村を離れて都市のアパートに住む人々は激増している。 教師、医師、弁護士といった専門知識人だけではなく普通に教育を受け、 良い意味でも悪い意味でも旧来の諸価値と熱狂的に一体化できない根無し草(デラシネ)の都市中間層。 劇的なテレビの画面には現れない彼らの沈黙の不安と怯えを、 私は砲火とデモ流血を映す画面の裏にひそかに感じ取りながら「だが歴史は動く」と呟くのである。(作家)
(読売 新聞)


インドシナ難民定住者の抱えている問題
レ・バン・カン(在日21年・ベトナム)

   みなさん、初めまして、私は赤ちゃんのときに両親と共にボート・ピープルとして日本に来ました。 いわゆるインドシナ難民です。 それから20年、私は家族と共にこの日本で生活してきました。 赤ちゃんのときからいたため、言語・生活・習慣などに関しては、大人の方々のような苦労はありませんでした。 しかし両親を見ていると、外国人として、細かくいえば難民として、日本に住むことが、いかに困難なのか痛いほど伝わってきました。
 日本で生活している私たちの問題の一つは、インドシナ難民も、一般外国人と同じ扱いをされることです。 一般外国人定住者の方々とは、仕事や留学、または、家族関係で、自分の意志で祖国を離れ日本に定住している人のことです。 彼らは自国のパスポートをもっているため、何かあれば、自国の大使館で保護してもらえます。 しかし、私たちインドシナ難民は訳あって国外に亡命しなければならなくなり、その定住先として日本を選んだ者です。 当然パスポートは持っていませんし、いわゆる無国籍者となります。 ですから何かあっても自国であった大使館に保護を求める事はできないのです。
 このことによって、生ずる問題が一つ、「婚姻用件具備証明書」といわれる物です。 私たちが結婚したい場合は、自国の大使館にてその「婚姻用件具備証明書」を発行してもらうように言われます。 これは、一般外国人定住者の方々にとっては何でもないことですが、私たち難民定住者にとってはとても厄介な物です。 なぜならば、先ほども説明しましたとおり、私たちインドシナ難民は無国籍なので、 そんなものを発行してくれる大使館なんてどこにもないのです。しかし、役所によってはそのことを理解していません。
 どうしてなのかというと、一つには、先ほど述べましたとおり、 一般定住者とインドシナ難民定住者との区別がはっきりしていないことと、 二つ目に、役所の仕組みが原因だと思います。 前者に関しては、外国人登録証の在留資格の所には、一般外国人も、インドシナ難民も、同じ『定住者』としか記述がないのです。 私たちの登録証のどこにも、私たちが日本国に保護された難民である、ということが書かれていないのです。 しかも、国籍はなぜか『ベトナム』となっています。 ですから、役所の方には区別がつかないし、逆に混乱を招いてしまうのです。 後者に関しては、上からしっかりとした説明がいかないのが一番の原因です。 その結果、今回説明しましたような問題が起きてしまうのです。 これでは私たちは結婚する事さえ困難なことになります。 どうして私たちがそんな目に遭わなければならないのでしょうか? 厳しいことをいいますが、これは激しい人権侵害であると私は受け止めております。
 本日お話しした問題は、まだほんの一部です。 これらの問題がいつまでも放置されていては、日本には本当の国際化は訪れないと思います。 世界の先進国の中で私たちのような定住者に関する法律が制定されていないのは日本だけではないでしょうか? 私は第二の祖国ともいえる日本が好きです。友人もたくさんいます。で すからこの日本に、少しでも住みやすい国になってほしいのです。国民にとっても外国人定住者にとっても、です。
 本当の意味での世界との共生は、法律がしっかり制定されてからでないと実現しないと思います。 日本の明るい国際化未来のためにも一刻も早く、それらに関する法律の制定を期待します。 それも外見だけではなく、中身もしっかりしたものを望みます。
 以上、ご清聴ありがとうございました。


小学校、中学校で感じたこと
(在日15年・ラオス)

 私はラオスのブンタンと申します。日本に15年目になります。2000年から日本語指導協力者として、 また外国籍の子どもの相談員として、神奈川県の大和市内と厚木市内の小・中学校で1週間に2回指導に当たっています。
 小学校では、ラオスの子どもにひらがな、カタカナ、算数、簡単な漢字などを教えています。 中学校では、子どもの心のケアや生活相談相手になっています。 両親とコミュニケーションがとれない子どもたちの代わりにその両親に子どもの意見を伝えます。 例えば、高校の進学のこと、学校で部活に参加したいこと、ちょっと帰る時間が遅い、英語をもっと勉強したいなどです。 学校で一回2時間の単位で指導します。その後ボランティアとして、 日本語がよく分からない保護者や入国管理事務所などへ一緒に行って通訳してあげます。 小、中学校で私の感じたことを少し話します。いい面はたくさんあります。けれど、欠点や直したい所だけお話しします。
 全体の子どもたちは集中力が少ない、勉強の意欲や頑張ることがあまりできない、言葉遣いが悪い、 わがまま放題、云うことを聞かない、注意されても気にしないという子どもたちが半分以上です。 学校の先生や自分の親や年配の方を尊敬しない子どもが多いです。 ストレス時代で、または便利すぎ、豊かな国の生活ですので子どもたちもストレスがたまっているのかもしれません。 小学生は、まだ小さいので云うことを聞いています。中学生は先生にちょっと注意されたら反発します。 すぐにキレてしまいます。不登校、社会に迷惑をかけます。
 ラオスの国ではそういうふうではありません。学校の先生は、自分の里親と思っています。 もし、先生がいなかったら、自分で勉強できません。先生や親、年配の方を尊敬してとても大事にします。 年配の方も次の世代の子どもたちを厳しく指導します。この世の中を平和で共に生きましょうと子どもたちにちゃんと教えます。
 日本にいる定住者はいろんな問題を抱えて、競争社会についていくことで精一杯です。 自分の子どものめんどうを見ることは十分に出来ません。子どもの行動もよく知りません。 日本語が話せて、帰化しても問題を全部解決できることではありません。 経済的に少し豊かになっても、家族の愛がめちゃくちゃに壊れてしまう人もいます。
 この世の社会を支えるため、皆で考えましょう。
 (難民事業本部主催「日本語スピーチフォーラム開催」昨年12月1日より) 


ナマズ摩擦
"震源"は米国向け大量輸出

 米国「ダンピングで損害」   ベトナム「低賃金だから安い」
 長いヒゲで悠然とした風貌のナマズは、地震を察知する魚として昔から一目置かれてきた。 アジアの貴重な蛋白源でもある。東南アジアを貫くメコン川水系に多く生息する。 とりわけベトナムのメコンデルタではドイモイ(刷新)経済の弾みで輸出用のナマズ養殖が活発だ。 米国のナマズ業者らがベトナム産ナマズの輸入を「ダンピングだ」と非難し、 米商務省が現地調査するなど米国とベトナムとの間に「ナマズ戦争」が起きている。その場メコンデルタを歩いた。

 〔<チョウドック<ベトナム・メコンデルタ>  =宇佐波雄策〕
 カンボジア国境に近いアンザン省チョウドックの町。メコンの支流ハウザン(後川)が流れる。 養殖はメコン川の中に浮かべた水上家屋のいけすで行われている。 250〜300平方bの水上家屋ひとつで6万匹から10万匹を養殖する。家には家族全員が居住し、家の下に網で囲ったいけすがある。 絶えず水流があるので、新鮮な水が補給される利点がある。
 朝と夕の2回、ナマズに餌をやる。餌は小魚とくず米を混ぜて煮て団子状にしたもの。 餌をまくと、ナマズの大群が水中からわくように浮上し、激しく餌を奪い合い、水しぶきをたてる。
 白身のナマズは低脂肪で川魚特有の臭みも少ないことから欧米、香港、シンガポールなどへの輸出用として盛んに養殖されている。 魚介類ではナマズが99年から外資稼ぎの筆頭になった。年間約2万トンが米国に輸出されている。 ナマズ加工会社はメコンデルタを中心に14社あるが、米国向けは全輸出の約3割を占める。輸出価格はキロ当たり、3,2〜4,6ドル。
 だが、米国への大量輸出を巡って昨年6月、 米国のナマズ養殖業者らが「ベトナムはダンピングをし米国業界に著しい損害を与えている」と米商務省に輸入規制を求めた。 米業界は「ベトナム産ナマズの商品にcatfish(ナマズ)という言葉を使うな」とも主張する。 「ベトナム産ナマズは米国産とは形も味も違うのにあたかも米国産のように消費者に思わせて安値で大量に入って来て 米ナマズ市場の20%まで占めるようになった」という言い分だ。 
 米商務省はすでにベトナム産ナマズがダンピングかどうかの第一次の裁定をするが、 結果次第では米越間の新たな摩擦になる懸念が出ている。 7万匹を養殖しているチョウドックのグエン・バン・トックさん(67)は 「米国の言い分は言いがかりだ。政府が定めた最低賃金は1ドル。 世界でも最も安い賃金だ。しかも家族で働くので労賃は不要。だから輸出価格も安い」と反発する。
 チャン・バン・ブンさん(44)も「米国がベトナム産ナマズの非難を始めて以来、輸出量が抑えられ、 仲買業者へ売る際に安く買いたたかれるようになった」とぼやいていた。 米業界側には「ベトナム産ナマズには枯れ葉剤が含まれている」という非難もあるという。
 これに対しアンザン省大手の水産会社「アジフィシュ」のグエン・ディン・ファンさん(53)は 「枯れ葉剤をまいたのはほかならぬ米軍。それを口実に非難するなんておかしい。 米国人は被害を受けた多くのベトナム人の気持ちに鈍感だし、高慢だ。 それにわが社が委託しているフランスの食品化学分析器でも検出されていない」と反論する。 ベトナム人業者団体は弁護士を立てて米国業者と法的に戦う構えだ。
 ベトナム水産輸出生産協会(ホーチミン市)のチュン・ディン・ホエ事務局長は 「われわれの生産、加工は公平なもので何らダンピングではないことを米公正取引委員会は必ず理解してくれるはず」と期待する。 とはいえ、ベトナム輸出業者側は米市場から完全に締め出されると打撃が大きいことも知っている。 そこで12月から米国に輸出する場合はあえて「Catfish」という表記をやめ、 ベトナム語でナマズを意味する「basa(バサ)」と「tra(チャー)」の表記に改めた。 さらに、自主規制で15%ほど対米輸出量を減らす措置もとった。
 ベトナムは旧敵米国との国交正常化を果たし、米越通商協定も2001年12月に発効したばかり。 一般的には両国の通商は拡大の傾向だが、米越間の「ナマズ戦争」は、 大国米国の保護貿易姿勢の是非を問うとともに、旧敵同士が潜在的に抱く心理的な壁の象徴でもある。 
(朝日 新聞)


学生からの近況

 いつも皆様にお世話になり、心から感謝申し上げます。 僕は一応東京理科大学を無事に卒業することができました。 自分の人生をここまで昇ることが事ができましたことは皆様の温かいご支援のお陰で感謝の言葉もございません。 特に僕に心からご援助くださいました烏山の「聖心の布教姉妹会」のシスターたちと老人ホームの皆様に御礼申し上げます。
 残念ながら大学院に入学する事ができず大変落ち込みました。 でも、「ヒエン君の人生はここで終わったわけでないでしょう。落ち着いてもっと頑張りましょう。 まだまだチャンス、よいことは君を待っていますよ」と卒研室の同僚や皆様に励まされました。 現在、僕は友人の会社でアルバイトしながら大学院にチャレジしようと精一杯頑張ってみたいのです。 今までの皆様のご支援を永遠に忘れることはできません。
 これからもまだまだ皆様にご心配や迷惑をかけるようになると思います。よろしくお願いもうしあげます。
ビエン・ミン・ヒエン
 柔らかな日差しに心温かなぬくもりを感じます今日この頃、皆様いかがお過ごしでいらっしゃいますか。 4月になりまして現在の状況や学業の様子についてお知らせいたします。 何も分からずに入学してアットいう間に1年間が終わってしまいました。 ずっと温かくご支援くださいましたお陰で大学の一年次を無事に修了することができました。 まことに有難うございました。来週から二年生になります。改めて元気で楽しく頑張りたいと思っております。 どうぞよろしくお願いいたします。
アン・ダン・ヴー(明治大学理工学部機械工学科)


こんにちは

 人々は平和を望みましたが、残念ながらイラク戦争は始まってしまいました。 私が14歳のときに終結したベトナム戦争は、非常に心の奥深くに刻まれ、鮮明に記憶に残っています。 私の生まれ育った地域(ベンチェー省)では、毎日激しい戦闘がありました。 夜になると爆弾の落とし合いになるので、必ず防空壕に入って寝なければなりませんでした。
 朝になると隣の人や友達が亡くなっているのは珍しくはありませんでした。 当時、戦争で死ぬのはその人の不運だと思っていましたが、大人になってそうでないことが分りました。 ほとんどの人は平和を望んでいますが、ある一部の人々は戦争を望み、人々の生と死を左右しています。 ベトナム戦争が終結してから28年過ぎていますが、その戦争の傷跡はいまだに大地にも人々にも深く刻まれています。 戦争はいいことではないと早く判って欲しいと思います。
 6月からNGOベトナムin KOBEは3年目の活動に入ります。 新年度の事業は今までの活動に加え、母語教室・ベトナム民族紙芝居などの新事業を実施します。 これからも皆さんのご支援、ご指導を宜しくお願いいたします。
ハ・ティ・タン・ガ(新代表)
NGOベトナム in KOBE


ひ と
木下 享子さん

 「少数民族の山村で織物プロジェクト
 新年、ひとつ決断した。このままラオスにとどまりたい。道半ばの農村所得向上プロジェクトを成し遂げたい。 
愛媛県豊橋市生まれ。00年名古屋大大学院修士課程終了。28歳。
 北部ウドムサイ県の山岳地帯に入り、3年になる。大学院時代、隣国タイに留学した。 移民政策専攻で、修士論文を書き終えるとラオスに移り、国際協力事業団(JAICA)が側面支援するプロジェクトに飛び込んだ。 フィールドはここ、と決めたから。少数民族の山村は未知のものばかりだった。 ルー族が育てる綿花は普及種の4分の1しか木綿が取れない。 繊維は短く、粘る。ただ、その糸で織る布は驚くほどやわらかく、よく吸水した。
 黒タイ族の「家蚕」は、品質改良を受けたことがない。吐き出されるシルク糸は、手だけで紡ぐ。 太さは当然バラバラ。だが布に姿を変えると、自然と格子状の模様を浮かべた。
 両方とも糸にするにも数ヶ月かかる。手間と時間が素朴な手触りを生む。 しかし「買う者がいなければ、2年で生産地は消える」。村の活動から抜けられなくなった。
 織物はブラウスやショールとなり、南へ約80キロ古都ルアンプラバンの店で委託販売する。 観光客相手に年8000j(94万円)を売り上げるまでになった。次の目標は、日本への輸出だ。
 JICAの契約は単年度が原則。もう延長は難しい。帰国か残留か。 村人が言った「キョ-コでないとダメなんだ」やはり抜けられない。
文と写真・竹之内 満
(毎日 新聞)


サスペンス劇場
(難民事業本部関西支部難民相談員)

 木曜日と日曜日を除く毎晩9時から10時まで、私にとっておきの時間が訪れます。 いわゆるサスペンス劇場が放送されるからです。なかでも特に気に入っているのは、弁護士や法医学者が主人公となって、 法解釈や医学の知識をちらつかせながら、事件解決に向ってストーリーが展開していくパターンです。 毎朝、新聞のテレビ欄をチェックして、作者と出演者を確認し、ニヤリとしたり、がっかりすることから私の1日は始まります。 周りの人に話してみると以外とサスペンスファンはいるようで、関西支部の某職員と、 昼休みに番組談義をすることも最近の楽しみの一つです。蕎麦焼酎のベトナム茶割を飲みながら犯人を推理するうちに、 一日の疲れを忘れてスッキリした気分で床に就くという、何とも安上がりなストレス解消法だと自分では大満足しています。 原口 美佐代
(朝日 新聞)


あとがき

  20世紀後半以降、日本と、「インドシナ」と呼ばれる国々とはどんな関係を築いてきたのでしょう? 今号には、3つのタイプの関係が示されていると思います。
 第1のタイプは、「少数民族の山村で織物プロジェクト」「サスペンス劇場」に表れています。 ラオスの少数民族の織る布は、「驚くほどやわらか」だったり「自然と格子状の模様を浮かべ」たりして、独特の魅力があるといいます。 またベトナムのお茶は、自宅でサスペンスを見ながら焼酎を割って味わってみると、 「一日の疲れをわすれ」させてくれるような独特の爽快感があるといいます。 これらは、日本の人々が、当地の衣装や味に惹かれ、それに癒されるという関係です。
 第2のタイプは、「インドシナ難民定住者の抱えている問題」「小学校、中学校で感じたこと」に表れています。 これらは、日本の人々が、「インドシナ難民として日本に来、定住した人々と、実際に関わるという関係です。 実は日本の人々は、この関係の中で、見習うべき態度をとることも多いですが、 決して良いとは言えない態度をとることも残念ながらあると言えます。 「自分の親や年配の方を尊敬しない」こと、定住した人々の苦労を十分に知ろうとしないこと、 制度を変え得る立場にありながら、その議論を十分にしない、などです。
 第3のタイプは、「流砂の遠近法」「ナマズ摩擦」の背後にわずかに示されています。 それはベトナム戦争(1954〜1975年)をめぐるベトナムと日本との関係です。 ベトナム戦争の過程は複雑ですが、アメリカの強い支持を受けた南ベトナム政権と、 それを拒む北ベトナム政権および南ベトナム解放民族戦線とが対立した戦争、と言うことができます。 ベトナムにおいては、多くの血が流され、人々は形容し難いほど傷つきました。 アメリカもまた、派遣した戦闘員の多くを死傷させるに至りました。 そのとき日本はアメリカの方針を支持し、 しかも軍需産業をはじめとする産業の拡大を可能にし、「高度成長」を軌道に乗せる、という恩恵のみを受けました。 これは、日本の人々が、自らの勤労精神ゆえというよりも、むしろベトナムの人々の苦しみのうえに、 経済的発展と充足を経験してきたという関係です(参考:古田元夫『歴史としてのベトナム戦争』大月書店、1991年)。
 以上の3つの関係のうち、どれを最も真剣に受けとめるべきでしょうか? その答えは、人によって、時によって様々であって良い、と私は考えます。 ただ、この3つが互いに関連するということを、心に留めていようと思います。
(山本 直美)

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