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小さなダオ花

日本に来て学んだこと
売られた子供が養子
メコン下る「富士りんご」 
京呉服の技今ベトナムに   
長い目で友好見守る    
逆風のイスラム社会    
みんなの広場       
富士登山          
あとがき  



日本に来て学んだこと
東小学校6年 ホー・サー・ヌー

 私の将来の夢は、人を助ける仕事につくことです。
 私は、今、姫路カトリック教会に通っています。 そこで、アフリカや世界のいろいろな国で、たくさんの人々がうえや戦争でなくなっているということを知りました。 それなのに、私たちは何もしてあげられないのです。 この世に同じ人間として生まれたのに、ただ生まれた場所がちがうだけで、片方は死に向い会い、 もう一方は、物がいっぱいあふれた中でぜいたくに暮らしています。 そう思うと、私たちは恵まれ過ぎています。 だから、私は、毎週、日曜日教会に行って、 少しだけでもアフリカの子どもや戦争で苦しんでいる子どもたちがすくわれるように神様にお願いしています。
 私がなぜこういう気持ちを持つようになったかというと、日本に来て、いろいろなことを学んだからです。 楽しかったことはあったけれど、苦しかったことや悲しかったこともたくさんありました。 ベトナムにいたころは、まだ小さかったから、国のことも他人のことも何も分かりませんでした。 8才の時、日本に着てから、もう4年が過ぎました。日本の小学校に来てから、いいことばかりあったわけではなく、 いやなことを言われたり、されたりしたこともありました。 時には学校を休みたいと思ったことさえありました。 みんなは、先生の前では優しい言葉をかけてくれるけれど、先生がおられないと悪口を言ったりします。 その時は、とてもくやしかったです。 
 自分で解決しようと思ったけれど、口ではなかなか言えません。 「先生に言おうか」とも思ったけれど、どういうふうに言えばいいか分かりません。 もし、先生に言ったら、悪口を言った子がしかられるからです。それがいやだったから、そっと心の中にしまっておきました。 母にも言えません。もし言ったら、父や母に心配をかけるからです。 たまに父が、「学校の勉強は分かるか。いじめられていないか。」と聞いてきました。 そんな時、私は「だいじょうぶだよ。」と言って、安心させませた。時々、ねる時、
「明日はきっといいことがある。みんなと会って楽しいことがある。」と、言い聞かせながらねむりました。
 クラスの女の子が、とても優しくしてくれることもありました。 修学旅行の時、グループの子が、電車の中でトランプをしてくれたことが、とてもうれしかったです。 私は、学校では友だちとあまりしゃべりません。みんなの言った悪口とかは無視します。 時々、私は、みんなに迷惑をかけているような気になります。 みんなは、私のせいでいやな思いをしてきたのではないかと思います。 それでも、友だちから声をかけられると、とても嬉しいです。 みんなから悪口を言われたことも忘れてしまいます。 こんなことをくり返してきたから、私は、人を助けたいと思うようになりました。
 一生懸命勉強して、自分の力で高校や大学に行きたいです。 そして、そこでもしっかり勉強して、自分の夢をかなえたいと思います。同じ人間として、差別のない平和な世界にしたいのです。
 また、みんなは、世界につなげる輪のような大きな心を持ってほしいです。 困っている人や苦しんでいる人を助けたり、障害を持っている人にやさしく声をかけたりするなど、 今の私たちには、大きなことはできないけれど、周りの人に思いやりの心を持つことぐらいはできるのではないかと思います。 周りの人を喜ばせることをすれば自分もうれしくなります。 私が通っている教会の大人の人のリーダーは、リーダーとなって、 四歳から六年生までの子どもといっしょに歌ったり、話したり、遊んだりします。 多分、小さい子を喜ばせるためにやっているのだと思います。子どもたちは、とても喜んでいるようです。
 このように、いろんなことを見たり、聞いたり、学んだりした中で、 私は困っている人や弱い人たちを助けたいという夢を持つようになりました。 えらそうな事を人に教えるつもりはありません。ただ、人にやさしい心を持って接し、 その人の望んでいること、その人を喜ばせることをしたいだけです。 たとえ、私が望む仕事につけなくても、自分の身近なところで、困っている人を助けたり、 人を喜ばせることをしたいと思っています。もうすぐ中学校に入学しますが、 これからもいろんな人から多くのことを学んで、自分の夢をかなえられるように頑張っていきたいと思っています。


売られた子供が養子
巨利生み、犯罪の温床

 プノンペンのスラム街で生まれたタン・ナイ(3)とブーティ(2)。 1年半前、母親(31)のもとへ男が現れ、この姉弟を連れ出した。 「1人100j(約1万2千円)で売ったんだって」。 隣に住む母親のおばダン・ロン(36)が言う。 「夫は行方不明で本人はエイズ。子どもに食事も教育も与えるし、あんたには礼金を渡すと言われて心が揺れたんだね」
 スラム街では、日雇い仕事で1日1j稼げばいい方だ。 母親は目先のお金に飛びついたものの後悔し、3ヶ月後、国内最大の人権団体リカドに捜索を求めた。

数カ月で手続き
 姉弟は間もまなく郊外の民家で見つかった。計10人の乳幼児を9歳の少女が世話していた。 全員に孤児証明の書類が準備され、米国への養子縁組をあっせんする私立孤児院に移される直前だったという。 米国はカンボジアにとって最大の養子縁組先だ。 米国務省によると、97年度に66件だったカンボジア孤児へのビザ発行数は、01年度に400件を超えた。
 中国やタイの子どもを送り出すまで1年以上かかる国に比べ、カンボジアは3、4カ月で手続きが済む。 この早さが人気を呼んだ。米国のあっせん業者に支払う手数料は1万j前後。 公務員の月収が20jの国では大きな利益を生む。こうして貧困家庭の子どもを買い、わいろで役人に書類を偽造させる犯罪が発生した。
 人権団体リカド代表のケク・ガラブル(60)は「この現実を米国の人たちはどこまで知っているのか」と嘆く。 リカドは2年間の調査で15件の「偽孤児」を突き止め、昨年5月米下院小委員会に書面を提出した。
 それに先立ち、リカドからタン・ナイらの「孤児偽造」事件の通報を受けた米政府は01年末、 カンボジアからの孤児への新規ビザ発給を停止した。 カンボジア政府が取り締まりを強化し、出生届などに法制度を整える姿勢を示すことが再開の条件だ。 しかし、同国政府に具体的な動きはまだない。

押付けに反発
 「9・11」テロ事件以降米国にとって人身売買は麻薬取引や武器密輸と並び、 テロ活動の資金源ともなる重大な問題となった。カンボジアへの厳しい姿勢もその一環だ。 米政府は昨年6月、カンボジアを人身売買対策が最低レベルとする19ヶ国の一つに入れた。 改善がなければ、経済制裁も科す可能性がある。
 一方、フン・セン首相は昨年2月、91年の内戦終結後初めての地方選挙で自身の人民党が圧勝し、権力基盤が固まった。 それまでは米を含む援助国の顔色をうかがう傾向があったが、その後は米の要求にも「内政干渉だ」と反発する姿勢も見せている。 また、巨額の債務帳消しや民間投資で急速に接近してくる中国との関係を、対米交渉などに利用するしたたかさも備えている。
 昨年10月末には、政府は米国の海外向けラジオ「ボイス・オブ・アメリカ」の国内FM局での放送を中止させた。 選挙のたびに繰り返される候補者らの殺害について、現政権を非難した報道があったためとみられる。 「押し付ければ反発する。貧しくとも主権国家ですから」とある野党議員は言った。
(プノンペン=木村 文) (朝日 新聞)


メコン下る「富士リンゴ」
中国産、東南アジアで人気

 【バンコク=宇佐波雄策】青森で品質改良された「富士リンゴ」が中国で生産され、 雲南省からメコン川を船で下ってタイ、ラオス、カンボジアなど東南アジアに盛んに輸出されている。 タイ北部チェンライ県のチェンセン港では、このところ中国産富士リンゴの出荷最盛期を迎えて連日荷上げ作業が続いている。 中国産の名称は「紅富士」「富士王」「水晶富士」などいずれも御本家「富士」の名をとりいれている。
中国産の「富士リンゴ」を甲板や船倉に満載して雲南省から下ってきた貨物船= タイ、ラオス、ミャンマーの国境付近のメコン川船上から宇佐波写す
 主産地は陳西省や山西省、山東省、河北省など。 雲南省で船積みされた後、一両日でタイ側に届く産地直送型の輸送なので、リンゴの新鮮さが強み。 また東南アジアでは日本のように植物検疫も厳しくないので中国産の進出が容易だ。
 バンコクのスーパーでみずみずしい中国産の富士リンゴが1個25パーツ(約70円)前後で売られている。 リンゴの大半が輸入物のタイでは、以前多かったニュージーランド、 豪州、米国産などよりも中国産の「富士リンゴ」が近年主力になっている。
 青森リンゴ果樹課の話によれば、同県の「ふじ」は同県東北農業試験場で、 米国系の「国光」と「デリシャス」をかけあわせて品質改良したものだ。 酸味と甘味のバランスがよく、長期の保存にも耐えるとされている。 中国に富士リンゴ苗木が移植されたのは十数年以上前。現在は中国北部で広く栽培され、 中国産リンゴの半分は富士リンゴで、10年前から生産が増えてきたという。 同果樹課によれば、中国のリンゴ生産高は年間約2千万dと見積もられ、 うち30万d前後が輸出されている。ちなみに日本の年間生産高は約90万d。うち50万dが青森産。
(朝日 新聞)


京呉服の技 今ベトナムに
若い労働力と技術進出 松、鶴など細やかな刺繍も

 日本伝統の着物。その代名詞のような京呉服は細やかな手仕事の技が積み重なった伝統文化といっていい。 その技がいま、日本から遠く離れたベトナムに根付き、現地の若い女性たちの手で一針一針縫製され、刺繍が施されている。
(菅野 俊秀)
 ベトナム最大の都市・ホーチミン中心部から車で北へ約15分。 細い路地に面した3階建ての建物は一見しーんとしていた。 入口の大きな鉄の扉をガラガラと開けると、何列もの刺繍台に向ってずらりと並んだ約70人の女性が一斉に顔をあげた。

 女性社長のグエン・キム・ワインさん(47)が95年に設立したゴクワイン社の工場のひとつ。 同社は現在、下請工場を含めて約500人の女性従業員をかかえ、毎月120本(着)の帯や留袖などの刺繍をしている。 朝7時30分から昼休みを挟んで午後5時まで女性たちは働く。 賃金は歩合制で、日本円で月5千円から1万2千円ほどだ。99年までは京都から指導者を呼び、日本の技術を徹底的に学ばせた。 ベトナムにも独特の刺繍や針仕事の伝統があり、手先が器用で目もいい女性たちの覚えは早かったという。
 図案や生地、糸はすべて日本から航空便で送り、仕上がった製品が再び航空便で日本に送り返される。 黒留袖に松、鶴などの細かな作業をしていたグエン・ティ・ファーさん(26)は入社5年目。 「技術は難しくない」と手も休めずに話す。 ワインさんが現れ、「ここはやり直し。左右の幅がちがうじゃない」と社長の目は厳しい。 発注元の京呉服製造卸「おび弘」の池口寧祥社長(43)は 「コスト的にはもちろん、技術的にもできないものをベトナムで作っている」と話す。

 京呉服製造卸大手「ウライ」の刺繍を請け負うハンドヴェトコ社の金俊秀社長(50)は93年に韓国からベトナムに進出した。 現在、本社では約70人、北部の下請け工場を含めると約1200人が働く。 金社長は「ベトナムの女性は根気よく働く。私は26年も着物に携わっている。仕上がりは絶対の自信がある」と胸を張る。
 日本の職人の高齢化や後継者難でコストがかさみ、90年代前半にはベトナムや中国での生産に乗り出す着物メーカーが増えた。 しかし、着物離れに不況が追い討ちをかけ、コストダウンだけを目当てに進出した業者は多くが撤退し、 ベトナムの工場も淘汰されたという。だが、ウライの木内俊彦商品本部長(55)は 「日本のコスト高は変わらず刺繍の主な現状が日本に戻ることはないだろう」と見る。

 京染呉服製造卸の老舗「石勘」は92年からホーチミン市で着物の刺繍を始めた。 これまでに70人以上を京都に招いて1年間和裁を教え、指導者を養成してきた。 現在は2工場で計300人が、ひらがなで書かれた注文書をみながら、振り袖や訪問着など毎月2200枚を縫い上げる。 清水幸治社長(67)は、「技術面ではまったく問題ない。空輸代を入れてもコストは国内の半分。 着物は高いというイメージを変え、適正価額で売るためには、ベトナムは欠かせない」と話している。
呉服市場の低迷と海外加工  矢野経済研究所(東京)の調べでは、00年度の呉服の市場規模は7010億円で、 90年度の1兆4960億円の半分以下まで落ち込んだ。 西陣織工業組合によると、西陣縫製品の出荷額も90年度の2794億円が、昨年度は707億円に。 また着物の海外加工についての統計はなく、数量・金額の実態がつかみにくい。 西陣ブランドを守ろうと海外生産に否定的な立場の同組合が99年に調査したところ、 海外生産を行っていたのは組合員約700社中23社だった。
(朝日 新聞)


長い目で友好見守る
則武 保夫さん 死去 
日本ベトナム友好協会前会長

 則武保夫さんの人生には2度の転機があった。1度目は1945年の夏の敗戦。 陸軍経理学校生であった則武さんは、日本の復興に最も必要なのは経済学であると考え、 神戸経済大(現在の神戸大学)に入学。マルクスやケインズを読み、金融論を専攻、母校で教鞭をとった。 後に国際金融論にシフトし、「この分野を究めれば世界が見える」と話した。
 そうして2度目の転機は、66年から1年間在外研究先ロンドンで訪れた。 当時、米国海兵隊のダナン上陸でベトナム戦争は本格化しており、それに反対する市民運動のうねりに、則武さんは瞠目した。 哲学者バートランド・ラッセル卿に面会し、 「ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く法廷」(通称ラッセル法廷)への協力を求められた。 ベトナムと生涯を通じてのかかわりが始まった。
 帰国後、日本ベトナム友好協会兵庫連合会設立に尽力、全国組織の会長を退いた後も、 亡くなるまで県連合会長の職にあった。通算13回に及んだベトナム訪問は、すべてが公式訪問で、 北ベトナムのファン・バン・ドン首相(故人)とも気心知れた間柄だった。 「一度でいいから、のんびり観光でベトナムを訪れたかった」、そう苦笑まじりに晩年は話していたそうだ。
 苦渋の時期もあった。76年に南北統一を果たしたベトナムは、カンボジア侵攻や中越紛争を契機に孤立、 ソ連・東欧陣営に入った。79年にソ連がアフガニスタンに軍事介入すると、 それを批判する日本の革新勢力とベトナムとの関係に影響を及ぼした。 この時、則武さんは「長い目で見るべきだ」として、ベトナムとの関係保持を進言した。
 インタビューに訪れた阪神大震災前の神戸・灘の自宅で「米国の経済制裁は間もなく解ける。 世銀やIMF(国際金融機関)からの大型ローンも可能となり、ベトナムも大きく変わる」と則武さんは胸を張った。 糖尿病からくる合併症の悪化と8年間も闘い、秋の叙勲を受賞したのもつかの間、則武さんは逝かれた。 一昨年秋、夫人に支えられ県連総会に出席したのが、公的な場での最後の姿となった。
【鈴江康二】 (毎日 新聞)


逆風のイスラム社会
過激派テロの脅威 波紋

プノンペンにあるアクパル・モスクで一心に祈る地元のイスラム教徒

カンボジア
 国民の大半が仏教徒であるカンボジアに、全人口の5%にあたる約五十万人のイスラム教徒が暮らしている。 ポル・ポト政権下での弾圧など数々の試練に耐えながら、 仏教徒らとの共存を図ってきた同国のイスラム社会は、東南アジアで高まる過激派テロの脅威を前に、 再び逆風にさらされる危険が出始めた。(プノンペンで 黒瀬 悦成、写真も)
 米国のイラク攻撃は、イスラム教徒への宣戦布告だ。 ならば、カボジアを含む世界の信徒が、聖戦を敢行するのは当然だ」 プノンペン郊外にあるカンボジア最大のモスク(イスラム教礼拝所)「アクバル・モスク」を取り囲むイスラム教徒多住地区の一角で、 専門学校生カテウル・ダビ君(20)はこうまくしたてた。 将来は中東のイスラム系大学に留学し「次世代にイスラム教を普及させる職につきたい」とも。 こうした主張に同調する若者は予想以上に多い。
 もっとも、年長層は、若い世代の「イスラム意識高揚」の風潮に懐疑的だ。 モスク管理人のイドリス氏(75)は、「イラク危機よりも、この国でどう生きていくかが問題ではないか」と嘆く。 しかし、穏健派で知られたカンボジアのイスラム教徒に、大きな意識変化が起こっているのは間違いない。
 カンボジアのイスラムは元々、ベトナム中部にチャンパ王朝を築いたチャム族が、 同王朝が滅亡した十五世紀以降カンボジアに流れ、 マレー半島から移住したイスラム商人と交わるうちにイスラム化したものだ。 かつてのチャンパ朝と、カンボジアの主要民族であるクメール人の間では、 今なおチャム族主体のイスラム教徒への反感が根強い。 特に、1975―79年のポル・ポト政権下では、イスラム教徒は弾圧の重点対象となった。 信徒は禁忌とされる豚肉の摂取を強制され、拒否すれば処刑された。
 こうした苦い経験があるからこそ、旧世代は国内で摩擦を起こしたがらない。 しかし、ポル・ポト後に生まれた若い世代は、声高に「イスラム」を称揚することに抵抗はない。 ポル・ポト時代に破壊されたモスクの再建や復興の資金がサウジアラビアなどから流入するに伴い、 中東のイスラム思想や情報が、若者らに急速に浸透しつつある。 その過程で、カンボジアに過激思想まで定着しかねない、との懸念は強い。
 事実、東南アジアのテロ専門家によると、 城内にネットワークを張る国際テロ組織「ジェマア・イスラミア」 (JI)のメンバーがここ数年、カンボジアに何度も入国しているという。 現時点で、JIが同国内に拠点を築いた明白な証拠はないが、 治安関係者は本誌に対し、JI最高幹部で、インドネシア東部バリ島の爆弾テロに関与した疑いで指名手配中のハンバリ容疑者が、 インドシナ半島に潜伏している可能性が高い、と指摘する。
 特にカンボジアは治安体制がぜい弱で、タイ等の周辺国から密入国が究めて容易なため、 犯罪の温床となりやすい。それだけに、仮に国内でテロなどが起きた場合、 イスラム教徒が「同調者」と見なされ、反イスラム感情が再燃する恐れは十分にある。 プノンペンのイスラム法学者(58)は、「若者が、容易に聖戦を口にするのを戒めたい。 我々はテロを支持しない、と表明することが重要だ」と警戒している。
(朝日 新聞)


みんなの広場
「乗客に日本人いない」に思う
団体職員  周 貞子(45)  大阪府泉大津市

 「乗客に日本人はいませんでした いませんでした」という歌を、テレビで聴いた。 ドキッとした。私自身の中にあった不安を、はっきり表現していたからだ。 同時に作詞者は「在日の人かしら」とも思った。
 日本で生まれ育ち、日本の教育を受けた私の母語は日本語であり、私の文化背景は日本です。 あまり胸を張って言うことではないけれど、韓国語は挨拶ていどしかはなせません。
 そんな私は「海外に行って何かあったとき、どうしたらいいのか」「家族が航空事故に遭ったら、 安否情報はまず、韓国に流され、日本への情報は遅れるのでは」とも思っていた。 だからいつも、テレビニュースの「日本人は・・・」のフレーズには、ホッとする半面、何とも言えない気持ちを抱いていた。
 今、北朝鮮に関するあふれるような報道の中で、子どもたちは「おまえスパイか」「帰れ」などの言葉にじっと耐えている。
 いったい、私たちは、どこに助けを求めればいいのだろう。
(毎日 新聞)


富士登山

 日本に来て6年目になりました。僕の住む街から富士山が見えます。 日本で一番高く、美しいといわれているその山にいつかは登ってみたいと思っていたが、 日々の暮らしに追われているうちに、そんな景色も当たり前のようになって5年が過ぎたころ、 仕事の仲間から富士登山の誘いがあった。去年の夏でした。 住んでいる所から車で1時間半くらい、富士山の半分、5合目までは車で登ることができるので登山者以外でも観光で来る人が多く、 用意された駐車場が足りないうえ、タイミングが悪かったようで、仕方なく道路に止めねばならず、 登山口まで登るだけで一苦労でした。登山ルートは何ヶ所もあるので、僕たちは富士宮口を選んで登っていきました。 5合目から7合目までは舗装されているために比較的登りやすい道です。 これなら頂上まで楽勝で登れると思っていました。ところが、7合目からは岩場の斜面が続き、 岩伝いに登って行き、本格的な登山と感じられました。標高が高いため普通に比べ酸素が薄くてとても息苦しくなるので、 ゆっくり登ったほうが賢明です。各合目に山小屋が現れるので、 それを目印として地図で確認しながら登って行くと目標となり多少は楽に感じられます。 しばらく登ると火口が見えてきて、驚くほどに大きな口を開けて、吸い込まれそうな深さがある。 何百年か前に大噴火して、多くの災害を起こした跡がよくわかりました。 今、静かに、おだやかなこの穴はまだ死んでいない。強いエネルギーを溜めながら、 またいつか爆発するのではないか思うと、恐ろしささえ感じました。頂上に辿り着くころはもう日が沈み、無数の星が現れます。 そこでは星の地図を持って、星を調べたりする人もいます。標高が高いので水平に星を見ることができます。 運がよければ見事な流れ星を見ることができたのですが、恵まれず残念な思いが残りました。
 午前4時40分ごろにご来光、視界をさえぎる物は何もなく、にごりのない空気の中、想像以上のスピードで太陽が昇ってくる。 暗闇に慣れていた目を細めた一瞬、心は無になり光は疲れた身体に染み込んでくる。 美しさに感動するよりも先に僕は「報われた」、ただそう思った。ここまでの努力が報われたのだ。 そして数時間後には僕の生まれた土地にも同じ太陽が昇る。 言葉や環境がどんなに違っても同じように照らしてくれるのだ。ここに来て本当によかった。
 今日もまた仕事帰りの車の窓から、僕は富士山を見てあの日を思い出している。 これまでのつらさや努力はいつか報われるのだ。 今、西へ沈む太陽も明日の朝には僕のもとに遠い故郷の皆のもとに美しい光を届けてくれる。
(定住新聞 24号 プラチャンティ・プーサワン 【ラオス】)


あとがき

 納得できないことの多い社会に生きている私たち、 一人一人が自分の目標に向かっていても実際には到達することが難しく、多かれ少なかれ悩んでいるのが現実です。 ベトナム人であっても日本人であっても、他の国々の人でも、 とにかく世界の荒波にもまれて何処に流れ着くか分からない状態を目の当たりにしています。 これは、単に年表に記録されるような世界大恐慌などの現象ではなく、 もっと深く幅の広い、「人間」そのものが根底から問われる危機的な現実です。 倫理性が疑われるような事件が多発し、予測できない事が起きてしまう時代に私たちは生きています。
 もちろん、明るい話、面白い話もあります。 スポーツの世界や文化的な研究、交流の場で、国家や民族を超えた評価が与えられ、 喜びや苦しみを分かち合う機会も数多く経験しています。しかし、多くの場合良いことが陰に隠れがちです。
 新しい問題ではありませんが、ここで、パスポ−トの本当の意味、国籍の何であるかを考えてみたいと思います。 地球上に住む人類は、権力や闘争によって長い年月をかけて「国」をつくり、 領土の所有権を獲得し、国力を確かめ合ってきました。この現実を「当たり前」と断定してしまってよいのでしょうか。 宇宙から見た地球が美しいと言われるのは、人間が線を引いた地図ではないからでしょう。 人間はすべてのことに「線」を引いてはっきりさせる傾向をもっています。 国境を設けることの「利」や「不利」、自分の国が地上で一番強いかどうか、 それに解答を与えるのは無理だと分かりつつ、この低い次元から脱出できずに戦いを繰り返しているのが現状です。
 言葉も習慣もそれぞれ異なっている民族、国家がその違いを前提として、心の中で「線」をひかずに、 「人間」として共に歩み、強調することができればと思ったりします。 それには一人一人が自立性をもち、アイデンティティーを失うことなく生きていくことが大切でしょう。 本来の平和を実現するためには、宇宙の創造者が望まれた方向性を理解して、 人間としてできるだけ皆が幸せになれるような環境をつくることが必要だと思います。 まずこの「小さなダオ花」に目を通される方々との心の交流から、よい環境を創り出したいものです。
(中里 昭子)

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