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小さなダオ花

ベトナムの街から   
ベトナムのうどん探訪
近況報告            
天声人語            
ベトナム投資ブームその後    
入管政策怒った緒方さん     
日本に来て         
トマス・グエン・ガイさんの思い出
読者の声      
あとがき      



ベトナムの街から
物売り出身の若者とつきあい途上国支援のあり方を考える
大野 健一
   この7年間、ベトナムで多くの若者とつきあってきた。 そのほとんどが貧しい物売り出身だ。私は組織や手続きがあまり好きでないから、彼らを個人ベースで支援している。 彼らにとって、私はショートパンツで汗を拭きながら歩き回るおじさんにすぎないし、将来もそうありたいと願っている。 NGOに寄付をする際にも、その活動につきあい納得したうえで、使途を指定する。自分の金と時間を投じるかわりに、 こだわりをもってやらせてもらう。 

 私の支援は最も貧しい人々の救済ではなく、将来への投資をする若者のためである。 母子家庭で、農村では生活できずハノイにやってきたホアとマイの姉妹は数年間物売りをしていたが今は2人とも高校に通っている。 姉のホアは、かつての自分のような貧しい子供たちを助ける仕事につくことを希望している。 師範大学をめざしているが、支援を受ける身でありながら、すでにボランティアで貧しい小学生を教えている。
 妹のマイは数学が得意で、将来は医師になりたい。彼女自身が目をわずらっており、今年大きな手術をしたばかりだ。 学期ごとに成績優秀証明をとることが私の支援の条件だが、この5年間それを欠かしたことがない。 とくにマイはいつもオールAである。訪ねていくと、必ず机にかじりついている。 2人にとっては、学校に通えることはかけがいのない喜びであり特権なのだ。 シャイなマイは私に「ありがとう」を言ったことは一度もないが、私は彼女の気持ちがわかるし、 マイも私が彼女に何を期待しているかを知っている。

 だが私は教育を受ける若者だけを助けているだけでもない。 苦しむ人を目の前にして、心を動かさない者がいるだろうか。ハノイの街を歩くとすぐ顔見知りにつかまる。 「母が病気になった」「最近何も食べていない」といった嘆願が典型的である。 真実の場合もあるし、でっちあげの場合もある。おそらく事実を少し脚色したものが多い。 家を訪ねる、領収書を出させるなどして確認をとるが、調べられない部分がどうしても残る。 彼らのカモになり外人依存症を助長するのはいやである。 しかし話が本当なら、その子は空腹のままベンチで寝るかもしれず、学校をドロップアウトするかもしれない。 それを思うと胸が痛む。必死で迫る男の子や悲しげな瞳でみつめる女の子。
 その時私は空を見上げため息をつく。絶対助けないのは薄情である。 誰でも助けてやるのは馬鹿である。思案の末、助けないこともあるが、だまされるリスクを承知で助けることも多い。 この状況は永遠に続くのだが、実は私はそれでよいと納得しているのだ。 この非合理な世界で、私のすべての能力を動員して行う苦しい選択の覚悟を大事にしたいのである。
 
ベトナムの街で元気に生きる物売りの
若者たち=大野氏撮影
 トゥイの父親は、ベトナム戦争以来枯葉剤で白血病をわずらい2年前になくなった。 トゥイに異常はないが、苦労でずいぶんやせてしまった。彼女は小声で、生まれたばかりの娘が虚弱でもう生活費がないの、と私にいった。
 ストリートチルドレンに教育機関を与えても、卒業後の職がないという問題がある。 失業者があふれる途上国の現状では、学んだ技術を生かせず物売りに戻ることもしばしばだ。 彼らの職さがしを支援する団体はあまり多くないが、ホーチミン市でそれを実施している現地NGOを発見し、感心した。 しかし私の理想は貧しさの中から才覚のある者が自ら起業し、ベトナムに新たな所得と雇用を生み出していくことだ。 これは誰にでもできることではないが、そういう気概のある若者に対しては私は援助でも融資でもなくビジネスパートナーとして協力したい。
 ビンはその第1号である。彼女も長年物売りをしていたが、英語やコンピューターを独習し、 また外人の扱いがうまいのでホテルのフロントやガイドとして重宝がられた。 みな彼女の英語を聞いて外大卒かと驚くが、実は小学校を出てハノイにやって来たのだ。 ビンが自分でホテルを経営したいというので、1年かけていっしょにコンセプトを練った。 たった6部屋、従業員も5人のミニホテルだが、新築で場所もいいので今のところ経営は順調だ。 経済成長には外からの援助も必要だが、一番大事なところはぜひベトナム人にやってもらいたい。 外国人のボスが現地スタッフを使うのではなく、私は舞台裏で後方支援に徹したい。

 途上国支援は単なる慈善活動ではない。裕福な日本人が可哀想な人々を助けてあげるのだというような優越感は捨てた方がいい。 所得水準が日本の90分の1でも、一人一人のベトナム人は活力を欠いているわけでもなく、精神的に貧しいわけでもない。 むしろ経済力や軍事力で無理難題を通せる大国の方が、ものを考える力は貧弱だとさえいえる。 人生や社会に向かう彼らの真摯な態度を前に、こちらこそ鍛えられ、感動させられ、ダイナミズムを注入されるのである。 理屈で頭をいっぱいにする前に、生身の人間として彼らと徹底的につきあうべしというのが、私のモットーであり忠告だ。

 大野健一 政策研究大学院大学教授(開発経済学)
 57年神戸市生まれ。一橋大卒。米スタンフォード大で博士号(経済学)取得。 昨年、『途上国のグローバリゼーション』で第1回大佛次郎論壇賞を受賞。
(朝日 新聞)


ベトナムのうどん探訪
味わいパスポート「フォー」
 名物料理などを2泊3日で訪ねる番組は今回、アジアの麺(めん)料理を2週にわたって紹介する。 今夜の第1回は、ベトナムのフォー。米粉で作られた、きし麺である。無類の麺好きという女優黒田福美=写真=が探訪する。
 現地の男子大学生の案内で、まず行列のできる店へ。牛肉入りの「フォーボー」を注文する。 肉と麺を一緒に、というのが普通の食べ方。また、唐辛子や酢などを加え、好みの味を作り出す。 フォーは100年前、中国から伝わった麺料理がルーツといわれ、国境の町を訪ねる。
 ベトナムには4種の麺がある。その一つ、カオラウという麺は、日本の伊勢うどんがはじまりだとか。 16〜17世紀にあった日本人街の影響らしい。
 フォーは、うどん、そば、あるいはラーメンといった存在なのだろうか。現地の人たちの思いも聞きたかった。
(朝日 新聞)


近況報告

 今年は秋を飛ばして、夏からいきなり冬になったみたいです。皆さん風邪をひいていないことを願うばかりです。 さて、9月21日は中秋節を開催しました。警察の許可(許可をもらうのに有料とは…)をもらって、教会付近で提灯行列をしました。 私の子供時代には、提灯の形は星の形・動物の形をしたものが人気でしたが、今の子供たちに人気のある提灯は遊戯王、 ポケモン、ドラエモンなどの日本漫画の有名な主人公を形にしたものでした。 しかし、私の目をひいたのは、懐かしい空き缶から作った提灯でした。 できれば、来年は提灯を作る日を設けたいと思います。参加者は日本人も含め約250人でした。 日本とベトナムの文化を知ってもらおうと企画して、ベトナムの中秋節のものと日本の紙芝居、 マジックなどの取り合わせたものにしました。
 11月8日「しあわせの村」で、ベトナム人高齢者とシルバーカレッジの学生との交流会がありました。 一緒にベトナム料理を作ったり、ゲームやスポーツをしたり、歌を歌ったりしました。とてもいい一日になりました。 帰る途中、温泉に入ることになりましたが、中には入れない人もいました。 日本のように裸になって大勢でお風呂に入る習慣がないので、抵抗があったようです。 しかし、挑戦した人は、『今度は有馬温泉だね』と感想を述べていました。
 NGOベトナムin KOBEはこれからもこのような活動・交流を続けて、 日本とベトナムの掛け橋になるよう、今後とも努力を重ねていきます。
ハ・ティ・タン・ガ


天声人語

 『二つの祖国二つの故郷』を読む。「難民を助ける会」の奨学金で勉強している学生たちの文集である。 ベトナム、ラオス、カンボジアから来た人々だ。幼い日に海を渡ってきた彼らの多くは、 今や日本語は達者だが、祖国の記憶がかすかなものになっている。 それだけに、私はいったい何者なのか、と常に自分自身に問いかけながら生きている。
 「ベトナム語が私の魂だ」(トラン・タオ)「母国語を忘れずに祖国への誇りを」(トラン・ティ・ビッチ・ホン)。 言葉をよりどころに、祖国で、他日役に立ちたいと考える人がいる。 農業やシステム工学など勉強中の分野での貢献を心に期している人々もいる。
 帰ったとしても、溶け込んで生活できるか、経済の格差に耐え得るか、 一度はカンボジアを捨てた人だと後ろ指を指されぬか……(ローセ・レイ・ソーピア)。不安を感じている人も多い。
 国籍取得を申請中だが、日本の国籍をとるのは難しい、と訴えている人々もいる。 「僕は国籍はいらないと思います。国籍や国、国境があるから、人々は戦争をしたり、いがみあって、殺し合う……」(ブイ・ホン・ユー)
 「私は自分の意志で難民となったのではありません。難民と言って差別しないで下さい」(ポディワン・ホンマコン)。 外人と呼ばれることの腹立たしさ、外人は要らぬと就職で断られた体験なども詳しく記されている。
 日本人は「自己中心的」で「上へ上へと頂上だけを見て走っている」うちに 「少しずつ、自分の心にある愛情をなくしている」(ヴュ・クオック・ティエン)という観察がある。 一方、難民の生活を体験をしたことで「命の尊さ、自由のすばらしさ、平和への感謝、 そして人の痛みのがわかるようになった」(ヴ・ティ・キム・スアン)人もいる。 ひたむきで、まじめな若者たちの生き方が印象的だ。
(朝日 新聞)


ベトナム投資ブーム その後
日本企業苦戦

 九五年から九六年にかけて、ブームとも言える日本企業の進出ラッシュが起きたベトナムで、 その後、日本企業の投資が急減している。対外経済開放を柱とするドイモイ(刷新)政策の導入で急成長してきたベトナム経済の減速や、 制度、政策の不透明さが原因だ。相次いで現地進出した日本企業の思惑と現実、 さらには、ここに来て回復の兆しも見えるベトナム経済に、再び投資の目が向くかを、現地で探った。(佐々木 達也、写真も)

 街中で途絶えることのないオートバイの列は、ベトナム名物の一つだ。 その中でも日本製のオートバイは高級品として人気が高い。 スズキは九六年、ホーチミン市郊外に現地国営企業と合弁工場を設立し、 現地生産、販売を開始した。国営企業から希望してスズキに移り、 工場の生産責任者を務めるクワック・ディン・ビエトさん(46)は「われわれが日本の高度な生産技術を学ぶことで、 ベトナム企業の技術水準も向上していくはずだ」と、日本企業の進出効果に期待を寄せる。 スズキ側も、経済成長に伴う現地需要の急拡大を見込んでいた。
 ところが、設立当初こそ急伸した生産台数は四年目で早くも頭打ちとなり、 九九年度には前年度比13%減の二万千七百七十五台にとどまった。 ベトナム・スズキの玉井良名社長は「市場は思ったほど大きくなかった。 ブームになったベトナム投資だが、現実は決してバラ色ではない」と打ち明ける。 外資起業には、水道、電気、電話代など二倍の公共料金が課せられる。 完成車の輸入を禁止しながら密輸が公然と行われ、コピー商品が出回っていることも不満で、ベトナム政府への改善要請を続けている。
 こうした事情に、アジア通貨危機の影響もあってベトナムへの外資の直接投資はここ数年、減少を続けている。 ベトナム計画投資省の資料によると、九九年の直接投資学は約十五億六千七百万ドルで、ピークだった九六年の五分の一まで落ちこんだ。 このうち、日本からの投資は日本の景気低迷もあってピークの九五年比で十八分の一程度となる六千二百万ドルだった。
 現地生産を断念する企業も出始めた。今年八月、三井化学と三井物産は、 九八年から開始したベトナムでの塩化ビニール樹脂の合弁生産から撤退した。 安価の輸入品が流入する一方、予想していた関税引き上げが行われず、赤字解消のめどが立たなかったためだ。 制度や政策の行方が不透明なことも、進出企業の足かせとなっている。
 一方で順調に事業を拡大している企業もある。九七年に富士通はノートパソコン用の基板や記憶装置用の部分品の現地生産を始めた。 タイやインドネシアなどの近隣諸国や日本などに部品を輸出し、 生産額は毎年、前年度の20%程度上回るペースで伸び続けている今ではベトナム一の輸出企業だという。
 輸出企業は、輸出促進のための税制優遇措置が受けられるベトナム人の労働力の質の高さも魅力だ。 このため「部品製造など労働集約型産業にメリットが大きく、日本の下請け中小企業などの投資は有効だ」(日系商社)といえる。
 また低迷していたベトナム経済にも回復の兆しが出てきた。 九九年の経済成長率は4,8%だったが、二000年上半期には6,2%まで上昇した。 七月にはアメリカとの通商協定に調印し、投資環境の改善も期待されている。日本企業の目は再びベトナムに向くであろうか。
 三井物産の西尾一雄ベトナム総代表は「市場の将来性に大きな魅力があることは間違いなく、 投資は再び増加に向かうと予想されるが、社会資本整備の遅れなど他のアジア諸国と比べて不利な点も多い。 メリットはデメリットを総合的に判断する必要がある」と指摘している。
(読売 新聞)


 入管政策怒った緒方さん
「難民は20年で300人、エンターテイナーなら年10万人
 「日本が認定した難民の数は条約加入以来20年で300人以下。 対照的にいわゆるエンターテイナーを毎年10万人近く合法的に受け入れている。 エンターテイメントの方が難民への思いやりよりはるかに優先されているのでしょうか」
 緒方貞子・前難民高等弁務官=写真=は16日、 東京で開かれた日弁連主催の難民認定制度改正をテーマにしたシンボジウムにメッセージを寄せた。 ダンサーなどの芸能活動では大量に受け入れている外国人を例に日本の入管政策を痛烈に皮肉った。 シンボジウムに出席した多くの論者も、年間数千人から数万人規模で受け入れている欧米諸国と比較して、 日本の受け入れ数の極端な低さを厳しく批判。会場で読み上げられたメッセージで緒方さんは 「日本が単一民族」との言説について「人・モノ・情報が広く行き交う今日の世界で到底維持できない錯覚だ」とし、 「外国人に対する偏見や差別を打ち捨てる必要を強調した。
 また政府内に根強くある「難民申請者が虚偽の申し立てで庇護制度を利用する」との懸念に対しても、 「入国審査官が人道的精神より管理思考を優先する対応」こそ、「制度の乱用になる」と反論した。

難民認定制度の改正を求める意見書
日 弁 連
日本弁護士連合会は難民認定制度の改正に向けて16日のシンボジウムで、
@ 難民申請は60日以内にしなければ不認定とする。「60日ルール」の撤廃
A 入国管理を所管する法務省から独立した難民認定のための第三者機関の擁立などを求める意見書を発表した。
(朝日 新聞)


日本に来て
花田中学一年 グエン・ティ・ドン・フゥオン

 私は、ベトナムのホーチミンで生まれました。そして、2歳の時に日本にやって来ました。 今は、父と母、姉、私、弟の5人家族ですが、ボートでまず、父と母と2歳の私の3人がやって来ました。弟は、日本で生まれました。
 ベトナムに残った姉が日本にやって来たのは、2年前の6月でした。 当時7歳の姉は、ベトナムでおじさんやおばさんに育てられました。 母が出国する時、船には2人しか乗れなかったので、大きくなっていた姉はいっしょに連れて行くことができなかったのです。 10年間も私たちと姉は、はなればなれでした。6月、父と母、弟の3人が大阪空港まで迎えに行きました。 父や母はとてもうれしそうでした。私も弟もとてもうれしかった。これで家族5人がそろいました。
 「私は小学校5年の時初めてベトナムに帰りました。私たちが帰ると、おじさんやおばさん、 いとこたちがたくさん集まって迎えてくれました。そして、この時、私は初めて姉に会いました。 私と顔がすごく似ていました。初めて会うのでちょっとはずかしかったです。でも、すぐに仲良くなれました。 私はいとこや姉たちといっしょに買い物に行ったり、海や山に遊びに行ったりして、とても楽しかったです。
 けれども、少しびっくりしたことがありました。一つ目は、なぜか電車が見あたらないということ。 二つ目は、ここはベトナムなのに、なぜか日本のバスがあったことです。 これは多分日本から輸入したのだろうと思ったけれど、なぜかそのバスは、とても古く、日本でなら使えそうにもない感じでした。 そして、道路に行くと、バイクや自転車が自動車よりはるかに多く走っていました。 そのバイクのほとんどが日本からの輸入だそうです。
 また、テレビを見ていると、日本からのコマーシャルがありました。アジノモトです。 日本人女性が着物を着て、日本のアジノモトを紹介していました。 「ベトナムと日本とのかかわりがけっこう深いんだなあ」と思いました。 こうして、私はベトナムに一ヵ月半いました。とても楽しくいい思い出がたくさん残りました。
 私は、今、花田中学校で勉強していますが、小学校2年まで城東地区に住んでいました。 父は皮革の仕事をしていました。そこで、今の東光中学校2年のヒップという女の子、 その姉、神戸の女子高校1年のホアと仲良くなり、今もずっと友達です。
 私の姉は、ここに来て約一ヶ月後に姫路定住センターで日本語を勉強し始めました。 そして姉はちょっとだけ日本語がしゃべれるようになりました。 花田中学校の2年のヒエンとその妹も、そこで勉強しているので、私もヒエンと仲良しです。 ヒエンも一生懸命勉強しています。私も負けずに一生懸命勉強して高校にも行きたいと思います。 そして将来、立派な仕事につきたいなあと思っています。


トマス・ガイ・グエンさんの思い出
 22年前、ライリー神父様と私は日野の天理教教会にいるベトナムからのボート・ピープル(難民)の人たちに会いにいきました。 100人ほどの人たちがいらっしゃいました。グエンさんはその中に一人でしたが、とてもおとなしくあまり目立たちませんでした。 皆がバレーボールをして遊んでいても、グエンさんはその中にいませんでした。 ある日、私に親戚には司教様もいるし兄弟には司祭になっている人がいると話しかけてくれました。 家柄もよく、彼は学校の先生をしていたそうです。それだけに難民生活は彼には大きなストレスになったようです。 日常生活の中で行動が少しずつおかしくなっていきました。
 間もなく仲間からも彼は頭がおかしいと私に言ってくるようになりました。 そして一つの出来事がきっかけで彼は水口精神病院に入院することになりました。 草津教会のライリー神父様をはじめ、ネグリ神父様、 そして現在のジャクソン神父様やローダム神父様をはじめ信徒たちも毎月一回は彼を病院に訪問していました。
 6年前ジャクソン神父様の赴任にともない毎年2回復活祭とクリスマスに教会に来て宿泊するようになりました。 今回クリスマスの日に例年の通り、教会に来られて突然心不全で急死され、天国に召されました。
 教会全体で通夜、葬儀が行われました。このような死は悲しいことですが、彼にとって本当によかったと思います。
 トマス・ガイ・グエンさんとの出会いを通して私たちにいろいろな事を学ばせていただきました。 「私たちは生きるのも主のため、死も主のため」。これはグエンさんを想う時、心に響く言葉です。 今は天に召されたグエンさんは、神の御心のままに神の命と共に生きる最高の恵みを受けられた方として私たちの心の宝であり、 いつまでも皆の心に生き続けることでしょう。
森 実 仁 実

   前記の方は、自由を求め数々の困難を克服しながら二十数年前インドシナ難民の一人としてベトナムから日本に来たガイさんです。 社会生活復帰の望みに達する事ができず、約二十年間を精神病院で過ごしてきました。 どうにかして退院できないものかとベトナムの方たちは勿論のこと、 私どもも、政府関係の方たち、U.N.H.C.R.も努力してくださいました。 けれどもその努力も空しくガイさんは退院することができませんでした。
 クリスマスの朝、天理教アジア第一課の課長様、そして最初からガイさんに関わってくださいました永尾信夫様から訃報が事務所に入りました。 本当に悲しい事でしたが、カトリック草津教会のジャクソン神父様、シスター大原をはじめ、 信徒の皆様の手厚いご協力で無事にお通夜、葬儀が行われましたとのこと、 ガイさんは今、神様の御許で安らかに憩われていることでしょう。
 長い間お世話くださいました天理教の皆様方、そして最後まで見守って下さいましたカトリック草津教会の皆様に心から御礼申し上げます。
(事 務 局)


読者の声
一粒のお米
 たびたびテレビでも放映されていましたが、烏が生ゴミ袋を破って散らかしている様子は私たちの町に見られる現象です。 彼らの餌になるものが沢山捨てられていることは皆が承知しています。 今、日本では食料品を大事にしないことによって多くの損失を招いているようです。 それは、単に物質的なことだけではなく、生産者の良心的に作ったものを市場に出すと同時に、 消費者も無駄を省いて感謝しながら日ごとの糧を大事にするという心の繋がりがあってこそ、 生活環境のレベルは向上していくのだと思います。
 今は、ほとんど忘れられていますが、日本も半世紀前には「節米」とか「代用食」というような言葉が盛んに用いられていました。 お米が手に入らなかった戦中、戦後のことです。一粒のお米も無駄にしないようにというのは、 作った方への感謝でもあり、お米が手に入らないときはもちろんのこと、 昔からの教えとして日本の家族が守り伝えてきたことだったのです。 しかし、今は穀物に限らず、お金さえ出せば何でも手に入れることができて少しずつ考え方も変わってきました。 それが悪いとは言いませんが、飽食の時代が生活環境や人間関係に微妙に影響していることも否めない事実です。 私たちの社会生活では、「厳しい」という言葉が相手から言われたことを実現するのが厳しいという意味でよく使われていますが、 物心両面での自分に対する本来の「厳しさ」を大事にできたらと思っている今日この頃です。


あとがき

 本号には、在日ベトナム人(難民として来日)の男性についての悲しい死のお知らせがあります。 死とは、様々の思いを私たちに起こさせます。思い出して微笑みが出ることあるでしょうが、 同時に、いかにも無念であったと、もし時間が巻き戻せるならあそこからやり直したいと感じることもきっとあるのではないでしょうか。
 ただし、カトリックにおいて、死を「帰天」とよぶことにはとても意味深いと思います。 死は、「天」に「帰」ること、本号の事務局の記事にあるように、まさに「神様の御許で安らかに憩」い始めることである、 という考えです。亡くなった人は、この世に生きる私たちのことをいつも見守ってくださり、 必要な助けを、神様に取り次いでつねに与えてくださる、という考えであり、信仰です。
 私たちは、身近な人が亡くなるときに、その人の生き様がまさに示してきたような社会の不条理や問題点に気づくことがあります。 在日ベトナム人であるトマス・ガイ・グエン・さんが示してきた社会の不条理や問題点とは、何だったのでしょうか。 「もしベトナムが○○でなかったら」、「もし国際社会が○○でなかったら」、 「もし日本社会が○○でなかったら」というような思いが沸き起こってくるかもしれません。 また、そもそもベトナムが社会主義国家になるに至った原因の1つとして太平洋戦争中、 日本軍がベトナムで圧政を敷いたことがあると考えると、いっそう複雑な思いを抱かざるを得ません。 グエンさんの死は、世界史レベルの様々の「強者」に翻弄されてきた、「小さな人」の死であると思われます。
 もちろん、グエンさんの死に至るまで、様々の立場で、 とびきりあたたかくしかも献身的に関わってこられた方々の存在は決して見逃すことはできず、 大きな励ましであり、また希望であると思います。そのうえ今後の私たちに課せられたことは、 その方々に倣いながら、あたたかく献身的な行為をより頻繁に、より多く、より質高く、提供していくことであろうと思います。
 今や「神様の御許」にあるグエンさんのお力とお取り次ぎを頼みとしながら、 先ずはこの会の現在と未来において力を尽くしていきたいと思います。
(山本直美)

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