BACK
小さなダオ花

ひとかけらのチョコレート   
アジア文化の橋渡し 来て見てベトナム
将来への夢              
ベトナム刷新             
天声人語               
ホンダ、現地の生産危機        
難民認定手続き緩和         
アジア紀行       
読者の声        
あとがき         



ひとかけらのチョコレート

 彼はひとかけらのチョコレートを、小さく小さく分けて友達に配りました。 たったひとかけらのチョコレートが私に大切なことを教えてくれたのです。
 今年の夏、私は教会が集めた献金をフィリピンにあるストリートチルドレンの施設、 ハウス・オブ・ジョイに届ける伝達大使という役目を引き受けました。
 どこまでも続く緑色の椰子の木のトンネルを抜けたところに、それは建っていました。 ドアの取れたボロボロの車を降りると、大勢の子どもたちが出迎えてくれました。 彼らは親が死んでしまったり、捨てられたり、中には売られたりと様様な事情でここに来ることになった子どもたちです。 子どもたちと遊んでいる時、私が何気なくおんぶした男の子は急に私の背中にしがみつき「ナナイ、ナナイ」と恋しそうに言いました。 「ママ、ママ」という意味です。急にお母さんの背中を思い出してしまったのでしょうか。
 ここに来るまでは犬の餌を奪い合い泥水を飲み一日一食もままならない生活をしていたそうです。 ですからハウスに来た時は、止めないと五杯も六杯もご飯を食べ体調を崩してしまったそうです。 そんな彼らが、今は一つのクッキーや一つのチョコレートを仲良く分け合っているのです。 なぜこんな優しさを持てるのでしょうか。自分が生きることで精一杯なのに。 ひとりぼっちの不安な生活から助け合うことを学び、幼いながらも実行しているのです。 仲間ができた今は、前向きに助け合って生きていこうとしているのでした。
 彼らと共に生活し、現在の自分の生活が決して当たり前のことではないと気づきました。 一日三食食べられる幸せ、家族と共に暮らせる安らぎ、必ずあると思ってきた物への感謝の気持ちが湧き出てきました。 私も大勢の人から思いやりとチョコレートをもらったのだと気付き、 これからは、チョコレートを分けられる人になろうと思ったのでした。
   このハウスの子どもたち一人一人の悲しい過去や現在まだ町に溢れるストリートチルドレンたちを 救おうと懸命に活動している人たちの実情を世界の人々、 特に豊かさを当たり前と考える人々に伝えることが私の伝達大使としての使命だと思います。 同時に彼らから学んだ「助け合うことの大切さ」「現在の生活への感謝の気持ち」を家族友達と共に思い出し、 大切にしていかなければいけないと思っています。
 世界の現状に目を向け、世界中の子どもたちが安心して生活できる日が来ることを願い、 私にできる事は何でも実行して行こう、ひとかけらのチョコレートを小さく分けて配っていた少年のように、と思います。 そして、世界中の人にも、自分の小さなチョコレートを誰とでも分け合える人になって欲しいと思うのです。
グエン・ティ・ホン・ハウ  中学3年


アジアの文化橋渡し 来て見てベトナム知って
恵比寿に拠点誕生
 若い女性を中心にベトナム人気が高まっている。 旅行のほか、特産のコーヒーや雑貨、家具などを売る店も増えているが、 ベトナム文化を日本に根づかせようと、同政府観光局やレストランなどが入った専門館が26日、渋谷・恵比寿にオープンした。
恵比寿にオープンした
ニャー・ヴェトナム
 「ニャー・ヴェトナム」で「本物のベトナム文化を発信する場」という 同国政府の要請を受けた同国日本大使館のアドバイザー川竝和子さんが協力して開設された。 既存のビルを借り、1階は陶器やバッグ、民族衣装アオザイなどの雑貨の販売と、 ベトナムコーヒーやお茶が飲める喫茶コーナーがあり、2階はベトナム料理店になっている。 3階には同政府観光局が来月中旬に入る。ビザ発給、旅行や貿易投資などに関する情報を提供する。
 ベトナム人気は2000年の成田―ホーチミンの直行便就航などで火がついた。 フランス植民地だったため、欧州の洗練された文化が残る雰囲気が受けているようだ。 同政府観光局によると、日本人観光客は99年に11万人だったが、2001年には20万人に増えた。
 コーヒーや陶器、蝋製品などの雑貨を売る店も増えている。商社で作る「日越貿易会」によると、 バッグやサンダルなどの人気が高いという。 25日に記者会見したベトナム商務省のファン・ティ・ルエ副大臣は「両国の交流促進につなげたい」、 川竝さんは「本物のベトナム文化を紹介していきたい」と話している。 問い合わせは「ニャー・ヴェトナム」(03−3716−8088)へ。
(朝日 新聞)


将来への夢

 日本で生まれた私は、ベトナム人であるということは大きなコンプレックスでした。 昨年、私たち家族で初めてベトナムに行き、伯父の家に10日間ほど泊まり、 ベトナムの生活を肌で感じることができました。ベトナムの人々と話し、 私は日本のことをベトナムの人々に伝え、逆にベトナムのことも日本人に伝えることができる、 それが日本で生まれた私たちだけが持つ特別な個性なのだ、と気づきました。
 私のコンプレックスは消えてはいませんが、未来に大きな希望をもつ事ができ、 二つの国の架け橋になる夢が膨らんでいます。しかし、私の姉妹は五人いますが、 残念ながら誰もベトナムとの関わりを持つ仕事に就いていません。 それが、いっそう私の使命感を強め、私だけでも将来ベトナムと関わった仕事や活動に携りたいと強く思うようになりました。 今の私には自分自身の力で本格的な国際交流活動などはできませんが、 これから日本とベトナムのために自分を役立てたいと思っています。 そのためには多くのことを学び、実践できるテーマを見つけなければなりません。 私が宇都宮大学国際部国際社会科を希望するのはこのような理由からです。そして、自分の家族のためなのです。

 今夏、大学生である私の姉が、ボランティアスタッフとして三ヶ月間タンザニアに行くことになっていた。 しかし、出発の準備をするにあたり、タンザニアの大使館が査証(ビザ)を発給してくれないという事態が明らかになった。 国際ボランティア活動にこのような壁があったことに私は驚き、冷たい現実を見せられたような気がした。
 この出来事がきっかけで、日本国籍を取得するために私たちの家族は動き出した。両親は毎晩日本語を書く勉強を始めた。 住所や身分証明書を漢字で完璧に書く事を目標に、まずカタカナから覚え始めた。 そして徐々に漢字へと練習を進めた。私の両親の年齢で新しく外国語を習得することは容易なことではない。 それでも毎晩、私たち子どものためにと練習を続けている。両親が日本国籍を取れば私たちも日本国籍となるのである。
 今、世界では戦乱やテロなどが続き、一国から他国への出入りがますます難しくなってきている。 自分の生まれ育った国の国籍まで捨てて、日本国籍を取ろうとする両親の姿を見て、現代社会の複雑さ、難しさ、皮肉を感じる。
 同じ人間なのにボランティア活動のための入国を認められないからといってなぜ国籍まで変えようとしなければならのか。 このような状況の中で、特に私が疑問に思うのは日本では日本国籍でないと公務員になれないという、 国籍による職業制限である。世界中のどこであっても自分の才能を最も発揮できる場所を見つけることが必要だが、 日本はそれを許さない状況にある。二十一世紀の世界の中でこのような国家体制で日本がこのまま進むことは大きなマイナスだと思う。
 国際化や平和協調が叫ばれている今、世界中の各国の人々が行き交い交流を深め、 助け合い笑いあって自由に自分の才能を活かす場所を見つけられてこそ本当の国際社会であろう。 二十一世紀の世界と日本はそうあってほしいと私は思う。
(グエン・ティ・タン・フェ 公立矢板東高校3年)

 タン・フェさんは希望の宇都宮大学に入学できました。元気に勉強しています。 「尊敬する人は両親です。両親は難民として日本に来ました。私たちの家族を守るために命をかけてベトナムを出て、 言葉も何も分からない日本で私たち姉妹を育ててきた両親の苦労を考えると本当に感謝し尊敬しています」。 との彼女の言葉には熱い思いがあります。夢の実現を祈っています。頑張ってください。(編集部)


ベトナム「刷新」で急発展した経済
文学界は当局圧力で停滞

 ベトナムの解放路線ドイモイ(刷新)が続いているが、文学・言論界の自由化は取り残されている。 【英字新聞部 渡部 恵子】
 
 「最近来日したベトナム文学界を代表する作家、バオ・ニン氏は「時代の変化に私自身ついていけない」と語った。 ベトナム社会は解放路線による経済発展で急速に変貌した。しかし、文学界は沈滞しているというのだ。 開放路線は確かに市民生活を向上させた。が、その分人々は稼ぎに励みだし、文学への期待と需要は弱まった。 バオ・ニン氏は「作品を出版するには作家が自腹を切らねばならない」と、 社会主義ベトナムの作家が直面する「市場経済化」の厳しさにも触れた。
 氏の代表作「戦争の悲しみ」(1991年)は同国作家協会賞や欧米各国の文学賞を受賞。 「国家への奉仕を求められてきた従来のベトナム文学の殻を破った」(川口健一・東京外国語大教授)画期的な作品だった。 1986年のドイモイ開始後に高まった文芸復興機運。バオ・ニン氏のほか、 女性作家ズオン・トゥー・フォンの「盲目の楽園」(邦訳「虚構の楽園」)、 レ・リウの「はるかな遠い日」といったベトナム戦争後の社会問題を扱った意欲作が世に出たが、それ以外は目立った作品はない。
 その背景には、当局の姿勢の変化があった。91年12月にソ連が崩壊し、 ベトナム共産党は体制維持に強い危機感を持った。経済の自由化は進める一方、92年初めから政治的引き締めを強め、 これは、文学、言論に暗い影を落とした。バオ・ニン氏は「ドイモイで重しがはずされて飛び出したバネの力が、 92年から再び弱まった。ベトナム文学は十年来停滞期にある」と指摘する。
 この年、国営メディアあげて「戦争の悲しみ」批判が始まった。 対米戦争の英雄的側面のみ描いてきた従来の文学からは大きく逸脱した内容に、軍人らが猛反発したためであった。 この作品は、その後増刷が許されず、今は書店に置かれていない。 事実上の「発禁」状態である。英語版の無許可印刷だけが、外国人観光向けの土産物として当局の目こぼしを受けている。 同じ年の短編小説「野生の風」は、発表後国内で発禁となったため、フランスで出版されている。
 多くの作家、出版社が自己検閲を強めるようになり、それが作品を貧弱にし文学が不振に陥るという悪循環となっている。 外国メディアがしばしば「改革派」と呼ぶノン・ドク・マイン氏の党書記長就任は、昨年4月。 この後、ベトナムは米国と通商協定批准で完全関係正常化を遂げるなど、国際社会への参画は確実に進んでいる。 だが、今年の初めには、中部ダラットの著名な言論人ブイ・ミン・コック氏が 「反政府的著作」を理由に再び2年間の自宅軟禁状態に置かれたことが明らかになった。 新指導部の下で言論の解放はむしろ後退の兆しを見せている。
 バオ・ニン氏は94年には北欧旅行を断念せざるを得なかったが、ここ数年は欧米諸国を訪問し、今回も来日した。 だが、「さらに解放を求める欲求はないのか」との質問に氏は「その質問は難しすぎて答えられない」と言葉を濁した。
 バオ・ニン氏の言葉は、安定した支配と裏腹に、独裁体制の維持に十分な確信が持てないベトナム共産党の姿を映し出しているものだ。
(読売 新聞)


天声人語

 英語の達者なベトナム青年ドン・アン・トアンさんは「あの戦争のことを決して忘れてはいけないと思う。 しかし、私たちは開かれた心をもっていたい」とベトナム戦争のことを語った。  先日ベトナムへ小旅行したときの案内役の一人とアンさんは23歳、まったくの戦後世代である。
いずれ米国へも行きたいと夢を語る明るい青年だった。
 75年4月のサイゴン陥落から四半世紀を越えた。名前もホーチミン市に変えた都市は、 オートバイがあふれかえる喧騒の街だった。外見上戦争の傷跡を示すものはほとんど見当たらない。 米国の空爆を避けるため地下都市を築いたクチも各国からの観光客でにぎわっていた。
 帰国してすぐに作家の日野啓三氏の訃報に接した。ベトナム特派員時代に小説家として歩む意思を固めた人だ。 サイゴンの広場での少年の公開射撃をともに目撃した作家の故開高健が、そのときの日野氏のつぶやきを書き留めている。
 「おれはもう、日本に帰りたいよ。小さな片隅の平和だけをバカみたいに大事にしたいなあ。 もういいよ。もうたくさんだ」(『ベトナム戦争記』朝日文芸文庫)。 開高も「彼の優しく痛切なつぶやき」を共感した、と。
 あの戦争が終わって四半世紀、という感慨とともに拉致被害者の異国での四半世紀を思う。 北朝鮮にいる子どもたちはトアンさんとあまり変わらない世代ではないか。 彼らはどんな将来への夢を描いているのだろうか。 同じ「社会主義国」といっても解放政策をとるベトナムの若者とはまったく違う夢だろうか。
(朝日 新聞)


ホンダ、現地生産危機
低価格バイク 部分に輸入枠
ホンダがシェアを回復してきたが、
思わぬ規制で暗雲=ハノイ市内で
 ホンダがベトナムで生産している低価格バイクが、来週にも生産停止に追いこまれそうな情勢だ。 ベトナム政府が、「国内生産業育成」を理由に部品輸入枠を設定したためで、 今年の部分品輸入枠28万台をすでにほぼ使い切っている。 「地方政府から年間製造計画分の部品輸入認可を受けて生産してきた」(ホンダ)だけに戸惑いを隠せない。
 ホンダは中国から大量輸入されていた安価なコピーに対抗するため、 中国製部品などを利用した新型バイクを今年1月発売した。 昨年1年間の販売実績17万台を11万台も上回っている。 生産設備も160万ドルをかけて増強し、生産能力を5〜6倍に高めたばかり。 生産停止になれば、2万人を超える現地雇用にも影響を与える。
【古田信二】
(毎日 新聞)


難民認定手続き緩和
法務省方針 申請期限を延長

 法務省は、難民認定手続きを大幅に緩和する方針を固めた。 来年の通常国会に出入国管理及び難民認定法改正案を提出する。 日本の難民運用に対しては「認定数が少ない」「不認定となる理由が不透明」などの批判があり、 中国・瀋陽の日本総領事館事件をきっかけに検討が始まっていた。 入国後60日以内としている申請期間の大幅延長や申請者の保護施設の整備などが盛り込まれる。
 法相の私的懇談会「出入国管理政策懇談会」で、中間報告が近く正式に決定する。 現案は瀋陽事件以後、森山法相が懇談会内に設けた難民部会(部会長・横田洋三中央大教授)がまとめた。
 「60日ルール」と呼ばれ、期限を過ぎた難民を門前払いすることがある現行の申請期間について 6ヶ月〜1年の範囲で延長するように提言した。 また、難民認定を求めている人が密入国や不法残留などで強制退去の対象にあたる場合でも 認定・不認定やその後の異議申し立てに対する結果が出るまでは、強制退去を求めたいことを法的に保護する。 現行では申請者が強制退去を命じられ、入管の収容施設内で難民認定の結果を待つケースが少なくなく、 国内外から「人権上、問題がある」との指摘がある。さらに、申請中の人が生活できる保護施設や衣類の提供などの保護措置を求めた。
(朝日 新聞)


アジア食紀行
味も値段も超一流
ベトナム国境に近いメコン川で、
2日に1匹しかとれない貴重な
エビに喜ぶルアンさん
● ボンコング(淡水エビ) ●
 日本で淡水エビや川エビというと2?3センチのものを思い浮かべる人が多いが、 メコン川の流域やラオス、タイの一部で獲れる淡水エビのボンコング(カンボジア語)は、 小さなもので20センチ、大型だと30センチに達する。ボンコングの特色は、大きいだけではない。 タイを代表する料理である「トム・ヤムクン」の「クン」とはエビのことだが、 高級料理店では必ずボンコングを使用する。中国には美味として知られる淡水の「上海蟹」があるが、 ボンコングは値段も味もそれに匹敵する食材であろう。
 初めて食べたのはベトナム戦争終結直後、サイゴン(ホーチミン)のフランス料理店だった。 ボンコングを焼いてニョクナム(魚醤)をかけただけの料理だったが、同行した人に淡水エビだと教えられて驚いた。 熱を加えると外殻が赤く変色することはロブスターなど海のエビと同じで、 食卓ではなかなか判別できないからだ。味もいいが、値段もかなりのものである。 プノンペンの市場では、生きている大型のもの(14,15年もの、5キロ前後)が米ドルに換算すると16ドルの値がついた。 産地で10ドル前後、中型の12年ものなら8ドルで取引されているという。
国境の町での市場で
掲げたエビを売るベトナム女性
 ただ取扱いが難しい。高く売るためには、生かしたまま輸送する必要があるのだが、 大事に扱わないと簡単に死んでしまう。そうなると値段は3分の2くらいになってしまう。 どんなところで獲れるのか、市場できいてプノンペンから国道1号を2時間ほど下り、 メコンの対岸に渡ったネアク・ルアンに行ってみた。
 市場で朝10時から待つこと1時間、ようやく到着した。 籠にでも入れて市場に持ち込む風景を予想していたが、トンボ・クラン村のルアンさん(41)が持ち込んだのは、 25センチほどのボンコングが1匹。この日の入荷はこれでおしまいだった。
 トンボ・クラン村は、約60家族が半農半漁で暮らしている集落だった。 漁場はメコン川の支流のトレン・ビアム川。貴重品である米をまいて投網で狙うが、 昔と違い、今は2日に1匹網にかかればいいほうだという。村人たちは口々に「昔はたくさん獲れたが、 ベトナム人が来て、大きな網で漁するようになってから少なくなってしまった」と嘆いていた。 そして「エビはおいしいですか」と質問すると「高価でとてもたべられない」と答えてくれた。
三留理男(本社特別嘱託)
(毎日 新聞)


読者の声

 聖イグナチオ教会で「チョットいいこと」(小さいダオ花へ改名の前の名前)を読ませて頂いておりまして、 ベトナムに大変興味を持つようになりました。つきましてはベトナム語を勉強したいと思います。 ベトナム語を教える場所と先生をご紹介いただけませんでしょうか。 (H.A)

 創刊号おめでとうございます!!
 「小さいダオ花」お送り頂きまして有難うございました。 この冊子を通して「ベトナム人友好会」の皆様のお考え、また、ベトナムの方々の生の声を沢山きけたら良いと思っております。
 大変なお仕事と思いますがどうぞご自愛なさってくださいませ。お礼が大変遅くなり申し訳ございませんでした。 稲川さんからもよろしくとの事でございます。 (網野厚子)

 お元気でお仕事にお励みのことと存じます。
 先日は「小さいダオ花」をお送りいただき有難うございました。 新しい小冊子が別の方法で続けられたこと嬉しく存じます。 シスターもお元気でベトナムの方々に今後も接しられ奉献されておられることを知り喜びを感じました。
 どうぞ神のみ国の発展のため、これからもお励みくださいますように。 私も今の福祉工場の仕事に尽くしてまいります。
 PS. 今日はシスター河野の命日です。お祈りください。 (9月9日 シスター広沢暁子)

 お二人のシスターは、けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会のシスターでいらっしゃいます。 1975年にベトナム難民が日本に初めて到着した時から、そのための施設を設置し、懇切丁寧なお世話にご尽力くださいました。 お二人のシスターのお名前は在日といわず、 第三国に移住しました多くのベトナム人の中に忘れられる事なく残っていることでしょう。 (事務局)

 
 冬の日が落ちて  雲を金色にしている
 考えている事もないので  ただただあの雲はいいなあと思っている (八木重吉詩集より)

 広大な天空の変化そのままを心で受けとめた美しい詩の中に、何か透明な感じと、豊かな輝きが見えてきます。 平和なひととき、人が自然の中に吸い込まれるようなひとときかも知れません。「あの雲はいいなあ」と思える時は幸せです。
 雲を見た時、なぜ雲はできるのか、なぜあのように形を変えるのか、 気象情報をどのように割り出していくのかなど、人によってさまざまなことを考えるにちがいありません。それぞれに必要な事ばかりです。
 たまには何も考えずに大空を仰いで、あるがままの姿に感動したいという人が今の社会に数多くいると思います。 車や人にぶつからないように地上の道を歩き、人や電車しか見えない地下道を歩き、 ホームをただ通り抜けていくような時間が多い現代の私たちに、この詩は素直な呼びかけのようにも感じられます。
 大自然の変化は、「生きる」意味を心に囁いてくれるでしょう。 (a.n.)


あとがき

 2002年11月現在、連日報道されるニュースの一つは、北朝鮮による日本人拉致事件に関するものです。 本人の意思とは全く無関係に日常の場を奪われた被害者たち、24余年もの間、愛する肉親と連絡がとれず、 安否を窺い知ることさえできなかった被害者の家族たちについて、その心中いかばかりにぞと、 胸の張り裂ける思いを抱かずにはいられません。しかも現在進行中の政府間の交渉は、 生身の人間を駆け引きの材料にしている、と感じざるを得ない面を含んでいます。 個人の権利や自由が、国によって守られる面よりも阻害される面が目に付き、理不尽な思いに駆られます。
 この拉致事件が少しでも早く、また少しでも苦痛なく「解決」に向う事を願っています。 同時に私たちは、拉致事件に含まれる悪行と悲惨さを通して、 この世に生じている他の様々な悪行と悲惨さも改めて自覚したいと思います。 自分の日常の場を奪われることは、悲しいかな、世界のあちこちで常に生じています。 その最たるものは戦争です。また、治安維持という名のもとでの制圧もあります。 その結果として、難民と呼ばれる人々の流出がおこることがあります。 自分の属する国によっては権利を守られず、むしろ阻害されることから、やむなく国を後にする人々です。 しかも「難民」は、逃れた先の国でも権利を守られているとは言えない状況に直面しがちです。 国とは、理念上は、すべての人々に安全と豊かさを保障してくれるはずです。 実際、この理念の実現に向けて腐心する政治家、議員、官僚なども存在します。 その現実認識にのもとで、様々な草の根運動が生じてきました。 「ベトナム人友好会」もその一つです。四半世紀前から母国を後にして日本に定住するようになったベトナム出身者の中にも、 本人の意思とは無関係に日常の場を奪われた経験をもつ人々がいます。 また長年にわたり、愛する肉親と連絡をとることさえも不可能だった経験をもつ人々がいます。 そのことの苦しさを改めて認識しながら、草の根運動として、今後為すべきことを見極め、活動を続けていきたいと思います。
 2003年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(山本直美)

BACK