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小さなダオ花

フィリピンでの体験
アジア的な日本的な
「ロボコン」世界的へ一歩
電灯をともした日本の協力
不法入国も滞在資格    
自分の「文化」を育てたい
在留実態異なれば退去 
あとがき  



フィリピンでの体験
高山 親 (ベトナム出身、イエズス会司祭)
 3月中旬関西空港に着いた時、なんとなくホットする気がしました。半年振りに不備な外国での生活から解放されたかのように。 とにかく、その調子で「帰ってきましたよ」と、誰にも言いたくなるぐらいの気分でした。 しかし、このような気持ちを抱くことは私には長く続けられませんでした。 日本に戻ってから3日後にすぐに悩むものが出ました。持病である花粉症と日本社会に対する「アレルギー」ということでした。 「フィリピンにずっと住めばよかったのにね」と自分にも言い聞かせてみました。 というのは、フィリピンに滞在する間に得た体験とはあまりにも素晴らしかったからです。 スラムでのホームスティや山岳地帯での実習、そして、マニラ周辺のストリートチルドレンとの関わりということです。
 フィリピンでは8千万人人口がありますが、日本人並みの生活を得られるのは僅か1割弱。 残りのほとんどは質素で、単純な生活に甘んじています。自給自足とも言えるぐらいですが、そのうちに大変な貧しい人々がいます。 社会から何も保証されず、人間ともいえない「動物的」反応しかできない人間です。
 私のホームスティした家ではお爺さんお婆さんを含めて11人の家族で、畳6畳ぐらいの所でした。 皆はお腹一杯食べられるのは1日1回だけでした。トイレやシャワーもとても簡単で、しかも生活環境の真中というところでした。 とにかくプライベートなことは何もなく、すべては共同生活でした。 しかし、私にとって不思議なことは、皆が生き生きとして誰一人も文句を言わず、 仲良く分かち合い、お互いに支え合って生きるということでした。 外面的な遠慮もなく、心に隠す恥ずかしいことなどもない。 またお互い様に体当てて、腹割って生き合うという環境でした。山岳地帯の1ヶ月の実習も同じような体験でした。 個人または家ごとに所有物はほとんどなく、贅沢なことと言えば、 自作の甘酒しか出せないにもかかわらず、心から温かく、そして誇りをもって家族の一員として私を受け入れてくれました。    
 最後に、4週間ストリートチルドレンとともに過ごす機会もありました。これも凄く楽しかった。 マニラでは路上生活する子供の数は数万人とも言われますが、その中に墓場で住処を作る100人ぐらいの「集団」があります。 それは私にとって、最も関心があり、心が痛く感じるところでした。年齢で言えば、生後数日から30代まで。 家を出た子どもか、家から蹴られた少年少女たち。生計のためには物乞いで凌ぐ。彼らには僅かな楽しいことがある。 それは「ラックビー」を吸うこと。あまり小さい子なら誰かの大人に、若い女の子なら、若い男の子に頼りあって、 そして、私のような人との付き合いなど。世間から一目見れば、「これ以上汚くなれない」不良な「連中」ばかりでしたが、 しかし、私から見れば「社会の屑」ではなく、生きる「宝物」の人間でした。 彼らと共に過ごしてみれば案外沢山の「尊敬すべき」ことを学び、彼らからの「清さ」、「良さ」をも見出しました。 自分の人生にどれほど不条理なことがあっても不平不満を言わず、周りの人々からの蔑視に対しても文句やら、妬み恨みなど一切しない。 それどころかいつも表には笑顔とそして心からの純白な感情と温かい態度を示してくれました。
 私は日本に戻ってから、彼らと一緒に撮った写真をある方に見せました。 「このような子どもにはきっとHIVやエイズに罹った子が沢山いる」と言われて、唖然として心が一瞬止まってしまいました。 「どうして」とでも言い返したかったが、何故か口まで言葉が出てこなかった。 まさか、日本ではこのような人の方がもっと「情けなかったなあ」と。 それは「無知」か「偏見」かによって人の外見しか見えない人間。 物屑を作り出す者やその血を吸い取るハエより、泥沼に咲く蓮とその環境を伴う人間となることは、 私にとってもっと崇高な生き方だと思います。
 願わくは人間の誰でも「人間として」の生きるすべを知り、「人間として」の生き方を尊重できるように!


アジア的な日本的な
徳丸 吉彦
伝統芸能が未来を持つために
 昨年の3月、ベトナム政府の要請を受けたユネスコ(国連教育科学文化機関)の文化財の緊急援助を目的とした会議を ハノイとフエで開いた。音楽では、フエで伝承されている宮廷音楽ニャクニャクとベトナム各地の少数民族の芸能を中心に議論が進められた。
 ベトナムといえば、東南アジアの国としては珍しく、音楽学校を作ってフランスや旧ソ連の西洋音楽を熱心に導入し、 ハノイにオペラ劇場まで持っている国であるが、それがこの会議を通して自国の伝統音楽の復興とともに、 自国の伝統音楽の保存を訴えたのである。それは経済復興とともに、 自国の伝統音楽の復興と危機にさらされている伝統の保存が必要だ、ということを認めたことになる。
 こうした要請を受けて、会議に出席していた山口修・大阪大学教授と私はまずニャクニャクの活性化を手助けすることにした。 ニャクニャクとは漢字で「雅樂」と書くことから分かるように、明代の中国音楽を導入して、 ベトナム化した合奏音楽である。この点で、日本の雅楽や韓国のアアク(やはり漢字では「雅楽」)と同様、 外国文化の導入例である。しかし、日本の雅楽が日本の音楽性をよく示しているように、 また、韓国のアアクが韓国でしか考えられない表現で成り立っているようにニャクニャクもベトナムの音楽性をよく示している。
 ニャクニャクは20世紀のなかごろまでフエの宮廷音楽として制度化されていたために、 他の民衆的な芸能に比べると、宮廷の消滅、戦争、社会制度の変動の影響を大きく受けてしまった。 しかし、それでもフエには、かろうじて昔の演奏慣習を覚えている伝承者がいるし、若い世代にも関心が高まりつつある。
 この時期を逃すと、ニャクニャクの伝承を生きた音楽家によって行うことが困難になるだろう。 それにニャクニャクのテンポ感や楽器や劇音楽とも密接に結びついていることを考えれば、 その伝承の消滅が、ベトナム文化全体の理解にとって大きな損失になることは明らかである。
 少し前までは、音楽や舞踊のような無形文化財の保存は、名人による名演奏の記録を音と画像で取り、 あるいは楽譜や舞踊譜で残せばよい、という考えが強かった。 しかしこれでは伝統の記録にはなっても伝統そのものを保存することにはならない。 伝統が未来を持ち続けるためには、人間の身体という絶え間なく変形と創造を行う仕掛けを通じて、 伝承が行わなければならないからである。
   しかし、生身の人間による伝統の伝承と創造というのは、実際にはなかなか難しい。 そのためには、芸能と保存者への国際的な関心が不可欠なのである。 ベトナム政府からはもう一つ、ベトナムの少数民族の芸能を活性化する手伝いを頼まれている。 そこでまず必要なのは、伝承者たち自身に外部の人々も関心を持って見守っていることを知らせて、 その励みで伝承者がいつまでも絶えないようにすることであろう。
 ベトナムに限らず、アジアの国々は戦争や文化大革命のような動乱を乗り越えて、この10年間、 とくに最近の5年間、音楽活動を活発化しようとしている。これはそれぞれの音楽がそれぞれの国や民族を代表する、 という当然の事実を強く意識し始めたからである。
 中国の場合は、文革期に西洋音楽も伝統的な京劇も抑圧され、多くの人材を失ったため、いまでもその後遺症に悩んでいる。 現在取り組んでいる活性化の方法は、伝承者を育てることに集約されている。 しかし、長老たちは、指導者層が薄いことと断絶が長かったことが、訓練を難しくしていると嘆いている。
 カンボジアではほぼ10年の間に、大多数の舞踊と音楽の担い手が失われた。 80年に入って、プノンペンの国立の音楽・舞踊学校が開設された時にも、37人の孤児を受け入れただけであったが、 最近は次第に活発化している。これに対してミャンマーは政治的に、経済的に問題を抱えながらも、 音楽と舞踊の国立学校の施設を改善し、伝統芸能の教育を熱心に続けている。 この国の場合は、専門家になろうという児童が多く、教え方も身体を使った古典的な口頭伝承者の育成に問題がないようである。 それと同時にどこの国でも、近隣の音楽文化に対する関心が大きくなっている。
 それまでアジアの音楽関係者は異文化を意識せずに自分たちの音楽に専念するか、 日本を含めて東アジア諸国やベトナムのように、異文化としては西洋の音楽しか考慮しない態度がほとんどであった。 ところが、国際的交流が激しくなるにつれて、自国の文化をアジア文化として位置付ける態度が強くなってきた。
 その結果、音楽関係者が他のアジアの音楽を積極的に知ろうとして、人を招き、会議を開催することも多くなっている。 例えば、今年の6月にはアジア・太平洋の文化についての会議が北京で、 また9月には国際音楽協議会の総会とシンボジュムがソウルで開催される。 日本で出版された民族音楽学校関係の文献を翻訳する動きは、中国や韓国ではますます盛んになっている。 これらもそうした傾向の現れである。
 このように、アジアの多くの国は、音楽の世界に限れば、アジアへの関心を高めている。 今後の問題は、それぞれの国の中の少数民族と多数民族の間のバランスであろう。 人々が作り出し伝承してきた音楽と、その背景にある音楽性は民族の大小にかかわらず、大切にしていかねばならない。
 日本は国際交流基金主催の「アジア伝統芸能の交流」といった長期プロジェクトや、 種々の研究集会と出版物によって研究技術を培い、人間ネットワークを作ってきた。 こうした経験をアジアのこれからの音楽状況に役立てていくのが当面の課題である。

お茶の水女子大学教授・音楽  1936年東京生まれ。最近の著書に「民族音楽」と「音楽における伝統と未来」(英文、共編)がある。
(読売 新聞)


「ロボコン」世界へ一歩
初優勝はベトナムに

 アジア太平洋地域の学生たちが知恵と技術を競う「ABUアジア・太平洋ロボットコンテスト東京大会」が先月31日、 東京・駒沢体育館で開かれた。「ロボコン」の名称でNHKが主催してきた人気イベントの初の国際大会。 19の国と地域から20チームが参加し、激戦を繰り広げた結果、ベトナムのホーチミン市工科大学が初代チャンピオンに輝いた。

 競技は、人が操縦する「手動マシン」と自走する「自動マシン」を使って17本の円柱の中にビーチボールを入れ、得点を競う。 7組の予選リーグを勝ち抜いた1位7チームと2位からの選抜1チームが決勝トーナメントに進む。
 ベスト4には日本の豊橋技術科学大学と金沢工業大学、圧倒的な強さを見せた中国科学技術大学、 予選からしぶとく勝ち上がったホーチミン市工科大学が進んだが日本の両チームは準決勝で敗退した。
 決勝戦はスピードと正確さの中国と、粘りで対抗するベトナムの対決。手に汗を握るシーソーゲームの末、 ベトナムチームが逆転勝ち。「勝因は戦略」と語った。
 今大会は、主催したABU(アジア太平洋放送連合)の会長も勤める海老沢勝二NHK会長が提唱。 技術育成、国際交流と共に、番組制作のノウハウを各国に生かしてもらう狙いもある。 参加国からは放送局のスタッフも同行し、密着取材。NHKが提供する大会の映像と合わせて番組を作る。 中国は国家規模での支援を決め、韓国では大会を生中継するなど、関心は高い。
大声援を受け熱戦を繰り広げた決勝戦
 来年の開催国・タイではオリンピックなみに国営放送、民放の共同制作チームTPT(タイ・テレビプール)を結成して取材にあたった。 国内予選には150チームが参加したが代表チームは惜しくも予選で敗退した。 「勝ち負けより、何を作ったかが大事。学生にはよい経験になった」とTPTプロデューサーのワラポル・プットジョイさんは話す。
 タイでは3年前からはロボコンを放送している。「最初はおもちゃみたいなものだろうと関心が低かったが、 今では再放送の要望も強い」そうだ。「テレビ局にとってはエンターティンメントとしての魅力も高い。
来年の大会はタイでも当然生中継で放送します」。
 海老沢NHK会長は「近い将来、欧州、米国も交えて、ぜひ世界大会を目指したい」と意欲を見せている。 大会の模様は14日午後7時半NHK総合で放送される。
(朝日 新聞)


電灯ともした日本の協力
北部・山あいの村 住民たちが笑顔にナンモンダムで「生活が変わった」

 東南アジア最大の大河メコンが南北に貫くラオス。川は人々に農作物と川魚という恵みを与えてきた。 そして近年、新たな恩恵が加わった。水力発電による電力だ。ラオスは電力を隣国タイに送り、貴重な外貨を稼ぎ、 「インドシナ半島のバッテリー」とも言われている。だが、電力輸出に力をいる一方で、電気が届いていない小集落が多い。 ランプの明かりで夜を過ごすそんな北部の山あいの村に、日本の技術協力で電灯がともった。 日本企業と政府の取り組みが人々の生活をどう変えたのか。現地を訪ねてみた。【田畑知之】
   
 「生活がとにかく変わった。ニューライフなんだよ」。 電気が通って自宅に蛍光灯を付けたカオ・タントームさん(47)が誇らしげに言った。 ラオスの古都、ルアンプラバンから車で北へ約2時間半。58戸の集落、ワンヒーン村。 赤土の上を放し飼いの豚やアヒルと一緒に裸の子どもが無邪気に走り回る。 竹で編んだ壁にヤシの葉でふいた屋根の高床式の家が並ぶ。標高400bの典型的なラオスの山村だ。
 この村に電気が通ったのは昨年2月のことだった。「それまでは灯油ランプだけだった。 暗いうえに燃料代が高くてねえ。夜は寝るしかなかった」カマオさんの隣の村長の家には衛星放送のアンテナが取り付けられている。 「村長の家でテレビを見るのが楽しみ。電気代を皆で払って、一緒に楽しむんだ」屈託のない笑顔が広がった。 そして「今は自宅に電化製品は電灯しかないけれど、次は扇風機がほしいね。 そのために、換金作物の野菜を作り始め、鶏も増やした」と続けた。
 この電力は、経済産業省の外郭団体、新エネルギー財団がメコン川の支流モン川に建設した発電容量70キロワットのナンモン水力発電所の恵みだ。 小さな川でも発電はでき、設置が容易な水力発電のコストダウンと管理の簡素化、耐久性を調べると同時に、 周辺の未電化地区7カ村の508世帯に電力を供給する。ナンモンダムは、幅わずか約30b。大日本土木が施工し、 発電タービンはクボタが担当した。
ラオス北部の農村に景気を
もたらしたナンモンダム
 3年間の調査終了後、ダムや発電機は地元に譲渡されるため、ラオスへの技術移転を念頭に置いている。 例えば、運転や保守管理を地元に任すため、現地職員7人が同財団などの研修を受けて、ダムと発電所を運営している。 7人は発電量や電力使用量などのデーターを記録するほか、住民から電力料金徴収までする。 料金は積み立てて、保守管理に充てる。来春にもクボタの技術者がラオスで7人の研修を行う予定だ。
 暮らし向きが最も変わったのは供給地区の最東端、国道の分岐点に面するパクモン村だ。 東に行けばベトナム、西に行けば中国・雲南省という交通の要所にありながら、 これまでは夜間トラックなどは通り過ぎるだけだった。電気がなければ運転手は食事もできないからだ。
夕方のバクモン村。
電灯の下、路上で遊ぶ子どもたち
 それが建設工事の前後からレストランなどが営業を始めた。 今はレストランが3軒、宿泊施設が2軒ある。午後11時、長距離バスが村に止まった。 バスを降りた乗客は、中華料理店やラオス料理店に向かう。 扇風機が回り、タイの衛星放送を映すテレビの周りで客が時間を過ごす。 「夜は午前0時まで営業する。朝は4時にトラックがとまるから、そこから営業開始よ」。女主人が笑った。
 パクモン村から約10キロ、供給地区最西端のナンモン村の村長は「電気が来るまで仕事は農業しかなかった。 それが今では村民の2割が食堂や宿泊施設で働いている」と教えてくれた。 電気は新たな雇用も生んだのだ。夕闇のパクモン村。地区の小学校教師、 ペンディー・ビライさん(52)とオンシー・ビライ・フォーワンさん(43)が街灯の下で遊ぶ子どもを見つめた。 「電気がきてから子どもの成績が上がった」とオンシーさん。自宅で夜、勉強する子どもが増えたからだ。 学校でも音楽やダンスの授業でカセットテープを使えるようになった。ベンディーさんは「電気は子どもの未来も変える。 いつか、高等教育を受けた子どもが村の指導者になってくれるよ」と目を細めた。
(毎日 新聞)


☆ 不法入国も滞在資格 ☆
政府方針 難民認定の審査中

 政府は11日、在留資格を持たないで難民申請をした外国人について、審査中の日本滞在に法的根拠を与える方針を固めた。 法相が特別な理由を考慮して、一定の在留期間を指定する「定住者としての在留資格」に準ずる資格を付与する検討に入る。 不安定な身分のまま、難民認定の可否を待つという特異な状態の解消が必要と判断した。 81年の国連難民条約加入をきっかけに制定された入管難民法で難民に関する法改正は初めて。
 政府は中国・瀋陽総領事館で5月に起きた亡命希望者連行事件を受け、難民政策全般の見直しを進めている。 すでに難民認定した外国人に対し、日本語学習や就職あっせんなどを通じ、 自立を手助けする支援機関を新設することを決め、認定後の整備には乗り出しており、 今回は審査段階の不備をただすのが目的だ。
 現行の入管難民法は、難民について「人種、宗教、政治的理由で迫害を受ける恐れがある」という国連難民条約の定義に従うとしているだけで、 難民申請を行い、審査を受けている外国人の残留に関する記載はない。 日本に不法入国した後、難民申請した人らは、法的身分があいまいな状態に置かれている。 また認定申請期間については、現行の60日間から180日間に拡大する方針も固めた。
(毎日 新聞)


自分の『文化』を育てたい
《日本(ニャット)でベトナム難民の若者たち》

 中学校3年生のブ・ハ・ビェト・ニャト・アイ・ミミさん(13)は週に一度神戸市長田区のFM放送局のスタジオへ通う。 市営住宅の自宅から歩いて10分ほど。今年10月から始まった番組のディスクジョッキー(DJ)をしている。 3歳年上の日系ブラジル人の女子高校生と一緒に、毎金曜日の夜に放送される1時間番組を受け持つ。
 番組の中のコーナー「世界の言葉でお話しましょう」では「ヘンガップライ(また会いましょう)」。母(37)に前もって教えてもらった。
 言 葉
 日本で生まれた。ベトナム語は半分ぐらい聞き取れるけど、しゃべるのは苦手だ。
 「頭の中でうーんと考えないといけない」から面倒くさくて日本語を使ってしまう。 逆に日本語は聞き取れるがしゃべるのが苦手な父(37)はベトナム語ではなしかけてくる。分からないところは、母に通訳してもらう。
 カトリック教徒の父母はそれぞれにベトナムを離れて17年前、日本で知り合って結婚した。 日本語を勉強する兵庫県姫路市の定住促進センターにいるとき姉(15)がうまれたのだという。 それ以外はよく知らない。名前がビェト「ベトナム」、ニャットが「日本」を意味するベトナム語だと聞いたのは7、8歳のころ。 「日本で生まれたベトナム人だということを忘れないで欲しい」「ベトナムと日本が仲良くして欲しい」そう願った両親がつけたのだという。 すごいなあと思うけど、自分では長くて片仮名なのが恥ずかしい。
 「ミミちゃん」と呼ばれているから、小学生のころには、男の子たちに「耳たぶ」ってからかわれた。 それに覚えてもらいにくい。何度も聞き直される。「みんなと同じ日本の名前がいい」。 母に訴えたら、「自分の名前だからそのままでいいよ」と反対された。でも何度か言い続けたら、 「高校に入るとき考えてみれば」と言われた。ベトナムには2回行った。「帰国」というより、やはり「行く」っていう感じがする。
 2度目は阪神大震災の直後、避難のためだった。その1年前に引っ越してきた市営住宅は無事だったけれど、余震が怖かった。
 ベトナムの祖父母の顔をみて、やっとほっとした。でも暑いし、ほこりっぽいし、市場はなんだかごみごみしている。 いとこたちとは話がよく通じないから、一緒にいても楽しくなかった。祖父母に会うのはうれしいからベトナムにまた行きたい。 「でもずっと住むことはないんだろうな」。ぼんやりとそう考えている。

 ゲスト
 震災を機に発足したコミュニティーFM「エフエムわいわい」のDJに誘われた。 「人と違うことをやってみるのもいいかな」と思って引き受けた。毎週、いろんなゲストがやってくる。 みんな同年代の子ども。日系ブラジル人、メキシコと日本の二つの血を引く「ダブル」…。 母国の言葉や祭りの様子などしっかりしゃべれるのが、うらやましい。
 自分の中のベトナム文化はみんなより少し「小さい」感じがする。もっと知らなきゃいけないんだろうな。 読み書きのできないベトナム語も将来は勉強したい。そう考えているけれど、両親には照れくさくてまだ言っていない。
(朝日 新聞)


在留実態異なれば退去

 法務省は日本に住む外国人の生活実態が在留資格と異なる場合は、 在留資格をとり消して国外退去を求めることができるように出入国管理法を改正する方針を固めた。 臨時国会で改正法案を提出する。これまで犯罪にかかわらない限り滞在を保証する原則を守ってきたが、 酒田短大の留学生集団状況問題をはじめ、留学生や企業研修生が本来の資格とかけ離れた活動をする例が目立ってきたため、 この原則を見直す。
 法案に新しく盛り込まれる在留資格取り消し規定は、収容と強制退去手続きを伴わず、任意で出国を求める枠組み。 入管当局への申請書類や受け入れ企業、学校などの出した添付書類に偽造や虚偽がある外国人を対象で、 入国審査官が生活実態との違いを調べる。在留資格と実際の生活が異なると認定した場合、 資格取り消しは不利益処分にあたるため、聴聞の仕組みを使って本人の言い分を聞き、最終的対応を決める。
 この規定で出国した場合は、強制退去ならば許されない5年以内の再入国も可能になる。 ただ、資格取り消し後の一定期間内に出国しなければ、不法滞在となり、強制退去の対象になる。
(朝日 新聞)


あとがき

 毎日、溢れるような情報の波にもまれている世界。秒読みを操作し、仕事の上で絶えず行われている戦争。 どちらが早くボタンを押すかで決まってしまう勝負のあり方。 私たちは、将来に希望を持ちながらも、社会における矛盾を感じてしまうことことがあるのではないでしょうか。 日本を外国から見た場合、外国の方々が日本人に対して疑問を持った時、 社交辞令はもちろん一般的な会話や感情の表現からもその奥にある真実の「心」を見付けることは、非常に難しいと思います。 政治的にはその道の専門家としての常識があり、メディア関係の仕事に携わる人にも当然専門性が要求されます。 しかし、その中に不透明な部分を多く残しつつ良い意味でも、 悪い意味でも戦争によって結果を出していることが多いのに気付かされます。 私たちが互いに切磋琢磨して向上することをだれも否定はしていないと思いますが、 モラルが忘れらているといつかは幸福と反対の方向に走り続けるようになってしまう危険性が予感されます。
 このような社会の中で、私たちは、コミュニケーションの一つの手掛かりとなればということでこの小冊子を作成していますので、 簡単な対話のきっかけと考えてくださればよいと思います。なるべく体験したことの記録や、 正しい情報として取り上げられた資料、子供達の感想文などを中心に具体的なことから社会や家庭の問題を会話し合えば、 言葉の壁も乗り越えられてお互いに「顔」が見えるようになるのではないかと期待しています。 この友好会を通してお互いをよく知ることから再出発して暖かい交流の場を今まで以上に広げられれば、 支援も含めて幸せの輪はもっと大きくなっていくと思います。広い視野をもって、 また柔軟性のある理解をもって、コミュニケーションの実りを望みながら着実な歩みを皆さんと一緒に進めていきたいと願っています。
 目に見えない存在者にも力を与えて下さるよう祈りたいと思います。 「いのちの与え主である神よ、あなたはすべてのものを守り育て、 豊かな実りをもたらして下さいます。私たちがいつもあなたの働きに心を向け、 その愛にふさわしくこたえることがことができますように」(教会の集会祈願・年間27主日)
(中里 昭子)

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