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小さなダオ花 1

お願いの言葉
ベトナム人友好会
子どもの教育について
日本のお父さん、お母さん「教育について」
青年の党離れ加速       
冷遇超えて急成長
異国のTV  
祭りとベトナム社会  
あとがき  



お願いの言葉
 ヴェトナムに平和がもどり、世界中の多くの善意ある人々の協力によって、 復興への努力が実を結びつつあることは誠に喜びに耐えません。 今、日本をはじめ世界の人の目はヴェトナム本土に向けられておりますが、 他方、政治的、宗教的理由によって難民として日本への定住に悪戦若関している人々への関心が薄まっているのは大変残念でなりません。
 はじめからヴェトナム難民に関わった一人として、いまなお多くの問題に遭遇し、 苦しんでいるヴェトナム人援助のためにこのほど発足した「ベトナム人友好会」にご理解を賜り、 ご協力くださいますよう、心からお願いたします。     
カトリック枢機卿 白柳 誠一


ベトナム人友好会について
石井 能也
 ベトナム及び日本の若者たちに呼びかけます。
 日本で生活しているベトナムの人たちの中にはいろいろな事で因っている人がいます。    
 先日結婚して2年目でまだ日本語がほとんど話せない女性が 通訳のできる大学生につれられて来ました。 彼女はあと2週間で出産と言うののに夫はどこかへ行ってしまいおりません。 アパートの家賃は3ヶ月払わなかったので強制退去処分をうけ、 アパートの中にあった家財道具は全部持っていかれ彼女も追い出され、 ドアには「空家」、という紙が張られてしまいました。 彼女のように、無責任な男性と結婚したということは不運だったとしか言いようがありません。
 また、ヘロインのような覚醒剤を使用する者が多く、金に因って万引きや泥棒をする者が多いのです。 そして執行猶予のうちにまた、泥棒するので2〜3年の刑をうける者が多く家族は大変です。
 また、日本の社会、会社に適応できず精神的障害になっていくベトナム人が多くいます。 彼らのような人たちのために小さな施設ですが、「あかつきの村」に一個あります。
   高校や大学など行きたくてもお金がなく奨学金制度も少ないので十分に勉強できる人はいません。 その他、法律的、経済的な間題こついて政府やU.N.H.C.R(難民高等弁務官事務所)に援助を要請したり、 日本語教育、住居の紹介、教育と福祉、介護の情報提供など困っている人たちがおりましたら、 自分たちの手で負えない場合連絡してください。出来るだけ力になります。

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 「ベトナム人友好会」は、小さなボランティアの一団体として、この春に発足した会です。 今までベトナムの方々や、その他の難民たちと長い間かかわらせていただいたことを 途中でやめてしまってはいけないという思いでこのような会を立ち上げました。 基金として特別に設定されたものもなく、善意のご寄付によって支えられながら、 ベトナムの方々の必要とされることに目を向け、できる限りの支援をしていきたいと思います。
 皆様のお力をいただきたく、新しい小冊子発行の機会にお願い申し上げます。
(事務局 田中 悦子)


子どもの教育について
 皆さんこんにちは。私はグエン・バン・トウと申します。日本名は上田 寿です。
 毎週日曜日、八尾の日本語教室で日本語を勉強しています。 私は14年前にベトナム難民として日本に来ました。現在は大阪府の柏原に住んでいます。 会社は八尾にあります。家族はま妻と子ども2人の4人です。 妻もベトナム人で、私たちは日本で出会い、結賭しました。 子どもたちは2人とも日本で生まれました。上の子は今、小学校1年生です。 私たちは日本で生活することに決めましたが、不 安なことがたくさんあります。その中で、私が大きな心配とは学枚や教育のことです。
 最初の子どもが小学校に入る前、保育所の年長組にいた秋のことです。 担任の先生から「年長組が終わったら、来年は小学校に入学します」という話がありました。 それから私たちはいろいろな心配で頭がいっぱいになりました。 というのはテレビなどでいじめの問題を耳にして、 子どもがベトナム人であるために差別を受けるのではないかとすごく心配するようになったからです。 そのことがきっかけで私たちは日本名に変えようかと考えました。
 日本語の先生や友人はベトナムの名前がよいと言いました。 けれどもいろいろ考えた末、やはり私は帰化することにしました。 なぜなら、子どもたちには日本人の子どもたちと同じように生活してほしいと思ったからです。 小学校に入る前の入学説明会に行った妻は説明を一生懸命聞いて帰ってきました。 しかし、なかなか難しくて私たちは何度も学校へ行って先生に説明してもらいました。
 1年生になった娘は1学期の勉強が終わり、楽しい夏休みを迎えましたが困ったことがありました。 それは宿題です。算数、国語、作文などで私たち子どもたちといっしょに勉強しました。 ベトナムと日本では勉強のやり方や学校での教え方が少しちがいます。 親たちは完璧な日本語を話せないので子どもの勉強を見てやりたくても、また教えてやりたくてもできませんでした。
 しかし、学校の先生やボランティアの先生方に教えていただきながら子ども自 身とってもがんばって乗り切りました。そこで子どもの教育について私たちが考える事は、 子どもたちがどのように育っていくのかということです。 周りのたくさんの人の助けを借りて子どもは育っていくのです。 そして、将来、社会の役に立つ人になってほしいと私は願っています。 私自身も仕事のために、自動車とフォークリフトの免許を取得しました。 現在ISO(国際標準化機構)の勉強をしています。 どれもたいへんですが、子どもといっしょに勉強していくしかないと思っています。 どうぞ応援してください。よろしくお願いします。ありがとうございました。
グエン・バン・トウ(37歳)
帰化名 上田 寿(うえだ ひろし)
ベトナム出身 在日14年 大阪市坂口製作所勤務
長女が小学校に入学したのを機に帰化


日本のおとうさん、おかあさん「教育について」
 私の人生第二の出発、それは1983年5月ことです。姫路定住促進センターへに入所し、 私と妹は看護婦になりたいという夢を持っていたため、岡山県下にある下野内科、外科の院長の里子となりました。 たった3ヶ月間のセンターでの教育では日本語もまだまだ自信がありません。 中学2年に編入しましたが自分の将来を考えるとますます不安を感じていきました。 そして学校に行くのが重くこわくなってきました。
 そんな私に力を与え励ましてくれたのは、私たちの里親である下野両親でした。 勉強についていけない私たちに特別に日本語を教えてくれました。 また時々日本社会での生き方、将来の考えなどを教えてくれました。 休みの日には家族全員で畑に出て、無農薬の野菜を作りました。 両親は私たちに自然の恵みに感謝することと共に、働く喜びを教えてくれました。 下野家にはテレビがありましたが、そのテレビにはアンテナがついていません。 ですから勿論テレビ番組を見ることはできません。しかし、一週間に一度だけマンガのビデオを借りてきて、 そのテレビを見せてくれました。そのマンガを見ることは、何よりもうれしく今までも忘れられません。 そして毎月の小遣いは全くありませんでした。それは「子どもにお金を持たせるとお金にルーズな人間になる」という親心からでした。
  
 今の日本の国はお金や物が中心で、生活の基準も他人との比較にしかおかず、 見栄、虚栄中心の家庭がほとんどで、外見的に恵まれていても子どもたちの心は渇き、 満たされることはありません。そんな中にあって、両親は信仰の厚い人だったので、 私たちに「勉強していることの意味は」「本当の幸せは」といことについて、 共に考え、悩み、そして「今という日を感謝して生きる喜び」を教えてくれました。
 私は両親の教育によって、今日こんな幸せな人生を得ることができました。感 謝でいっぱいです。ですから私は両親の教育を尊敬し、教えられた貴重な体験を活かして、 これから自分の子どもたちに伝え、実現していこうと考えています。 また、私の子どもは帰化して日本の名前を名乗っても、ベトナム人としての誇りは忘れず祖国の名誉を傷つけないよう、 人の役に立つ人間に育てていきたいと思っています。 最後に日本のおとうさん、おかあさん、本当にありがとうございま した。
ブイ・ティ・ミィ・キム(35歳)
帰化名 下野 きみ
ベトナム出身 在日17年 姫路市御国野在住
子育てのために看護婦休業中 姫路教育委員会の通訳
第6回インドシナ難民定住者スピーチフォーラム入賞者スピーチより


青年の党離れ加速
豊かな生活を優先
 スポットライトを浴びながら、女子高校生、女子大学生らが民族衣装アオザイや水着、 ドレスに次々に着替えて舞台に登場する。歩き方はモデル顔負けだ。 地元民間企業などの主催で3月にハノイで開かれた「美しくエレガジトな首都の女性」コンテスト。 OLも加わって約200人が参加、賞金500方ドン(約5万円)を争った。
 栄冠を勝ち取ったのは高校2年生のブイ・トゥイ・リンさん(17)は、 「水着を着たり、スリーサイズを聞かれるのは最初恥ずかしかったけど、すぐ慣れた。 将来外交官になりたいから、これからは勉強に集中よ」と話す。 合弁企業、民間企業、マスコミなどが主催する美人コンテストは大はやりだ。
 「コン・アン(警察官)には、しょつちゅう殴られている。でも、賞金が魅力だからね」。 チヤン・クオック・アイン君(23)はハノイで“暴走族”「コン・オー(鷲)」のリーザ格だ。 アイン君ら15人のメンバーは、週末の夜、オートバイで市内を走り回り、 他の暴走族を探す。見つけて話がついたらレース開始。 ガールフレンドを乗せて交通の途絶えた深夜の通りを時速100キロ以上でふっとばす。 レースが終わると、一人80万(約3,000円)ずつ出し合い、勝者が全額を賞金として手にする。
美しくエレガントな首都の女性の
栄冠に輝いたリンさん(17)
 こんな暴走族が、対外開放で外国製のオートバイが大量に入ってきた89年ごろから出現し始めた。 暴走行為は違法で罰金などの対象になり、警察は取締りを強化している。 だが、20歳前後の若者の間にじわりじわりと増え続け、今では「ハノイだけで数百人」(アイン君)。 多くは裕福な家庭の出身で、大学生や失業中の若者だ。
 ハノイにある学生向けカフェ。アメリカン・ロックやポップスが途切れなく流れ、 大学生や高校生のグループが、コーラを飲みながら談笑したり、英語の歌詞を口ずさむ。  「音楽が好きだから、過に4,5回は来る」とハノイ建築大学1年生のグエン・ゴック・クイン君(19)。 「共産党になるなんて考えたこともない。卒業後は建築デザインの民間企業ほ勤めて、 いい収入を得るのが目標」と言う。ドイモイで、国民の最大の関心事は、イデオロギーではなく、豊かな生活の追求になった。 そんな時代の流れに若者は特に敏感だ。ベトナム版“新人類”が続々と誕生している。
 マルクス・レーニン主義は、各大学で必修科目の−部として教えられているが、 ハノイ国家大1年生のグエン・ドゥック・クアン君(22)によると、大学生の間にこんなジョークがある。
 学生A「マルクス・レーニン主義を勉強しているんだ」
 学生B「よく眠れていいね」
 マルクス・レーニン主義の影が薄れつつあるのを意識してか、党がドイモイ導入1年後に新設したホー・チ・ミン研究所は、 各大学や党学校で使用する「ホー思想」に関する初の公式な教科書を編纂、年内にも出版する。
 党指導部は今、次世紀に向けた「党力の継続と継承」(ド・ムオイ書記長)のために、 青年党員の育成の必要性を強調している。しかし、昨年の党員数は91年から約2万人増えて212万人強になったが、 うち30歳以下の青年党員数はこの間、32万人強から24万人強に激減した。 党は今後、“新人類”の党離れにブレーキをかけることができるのだろうか。 悲観的にならざるをえないようだ。 
(ハノイ・千葉文人、写真提供)
(読売新聞)


「冷遇」超え急成長
 1日開幕したベトナム共産党大会は、対外開放・市場経済化を柱とするドイモイイ(刷新)路線の更なる推進を決め、 社会主義体制と一党支配の堅持も確認した。 1986年に導入したドイモイはベトナムを経済危機から救ったが様々なひずみも生んだ。 ドイモイがもたらした変化と、今後の課題を報告する。
(ハノイ・千葉 文人、写真提供)
 「LiOA」を知らないベトナム人はほとんどいない。 国内70%を占める電圧安定器のブランド名だ。この国ではよく電圧が急に変化するので、電圧安定器を使う家庭が多い。 このヒット商品の生みの親、ハノイに住むグエン・チ・リンさん(33)は、 電化製品の修理業をしているうちにアイデアが浮かんだ。 対外開放で大量に入ってきた外国電化製品が次々に故障して持ち込まれてきた。 その原因が、電圧の不一致や電圧の変化であるとに気づいた。
 6年前、電圧が違う外国製品にも対応できる「LiOA」を開発し、 家内工業で生産開始。「Li」は自分の名前の一部で、「OA」は安定器を意味するベトナム語だ。 当時は、小容量の旧ソ連製の安定器しか出回っていなかったため、リンさんの製品は爆発的に売れ、 4年目に「ニャット・リン」社を設立した。社名の「ニャット」は「日本の」というベトナム語。 「日本製の電圧安定器を参考にしたし、日本のような発展への願いを込めた」とリンさん。 長男(3歳)の名前もニャット君だ。
 そんな願掛けも奏功したのか、売上などの数字は「一切秘密」と教えてもらえなかったが、 社員約500人、2つの工場、国内全市・省に500以上の直営販売店。 販売代理店を擁する有力企業に成長した。自宅のほかに、4軒の家を持ち、 7万2千ドル(8百万円弱)もするトヨタ・クラウンを乗り回す。 ドイモイでニャット・リン社をはじめ民間企業が続々と誕生し、今では5千社を突破。 これら民間企業などの非国有部門は、国内生産の56%(昨年の)に貫献している。
 だが社会主義に固執する共産党政権は、 国営企業を中心とする国有部門が経済の主導的役割を担うとの位置付けを今党大会でも再確認した。 国営企業は、91年からの解体・統廃合で約6千社に半減。工業を中心に、急成長する企業も出ているものの、 約3割は赤字と言われる。92年からは経営合理化と資金調達を狙って株式会社が進められているが、まだ5社だけだ。
 92年憲法は、「すべての経済部門の法の下の平等を」をうたう。 だがリンさんらによると、銀行融資を受ける際に国営企業が要求されない担保が求められるなど、 国内民間企業は、国営企業や外国企業に比べて冷遇されたままという。
 さる4月にハノイの国内民間企業約300社で設立された「ハノイ工商連合会」は、 党大会に要望書を提出し、国内民間企業のビジネス環境の改善と、 共産党員の民間ビジネス禁止規則の見直しを求めた。
 「大胆な提案だろう。古い偏見の打破を狙ったんだ」。 同連合会副会長のブ・ズイ・タイさん(64)は一瞬にんまりして、すぐ真顔に戻った。 「この規則は、民間ビジネスは搾取行為との認識による。 政府は、今後5年間に約70億ドルの国内投資を期待しているようだが、こんな偏見がなくならない限り、 われわれ民間企業は安心して投資できない」党大会は規則の見直しは行わず、 民間企業ビジネス環境の具体的改善策を打ち出さなかった。 経済専門家は、「民間企業をどこまで育てる気があるのか、党指導者が具体的に語るのを聞いたことがない」と話す。 もっとも「本来、私有経営を認めない社会主義にかかわることだから無理もないないか」と党の悩みも代弁した。
(読売新聞)


異国のTV
番組より面白い?「審査あり」はお国がら
 ベトナムのテレビ・コマーシャルが、急成長しつつある。量的にも急増、質的にも視聴者受けするものが目立ってきた。 少なくとも国産の退屈な番組自体よりは面白い、との風評もあるほどで、市民の消費意欲をかきたてている。
 ベトナムのテレビは午前、午後、夜の3部に分かれて放送される。 CMも、それぞれの時間帯に一定時間を区切ってまとめて放送される。 現在、朝は5分、午後は15分、夜は25分の粋がある。これは昨年同時期のほぼ2倍の量に匹敵する。 夜などは、15秒または30秒のCMが度々と続く。よくもベトナムの人は飽きないものだと感心させられるくらいだ。
 国営ベトナム・テレビがCMを導入したのは、対外開放や市場経済化政策を打ち出して間もない88年。 同テレビのグエン・フイ・フン広告副部長は「初めのうちは、字を並べただけのものだった。 次に商品の生産現場の映像を流すものになり、 外国企業の進出が活発化した最近は、映画俳優などを使つた短い物語に演出効果を狙ったものが増えている」と話す。
 有名な男優が、英国製の香水をつけた女性にいっぺんで参ってしまう国産CMは、 この香水の売上を飛躍的に伸ばしたという。
 広告料金の高い夜の枠は、7割は外資系CMが占める。ビール、清涼飲料、フィルム、 テレビ、エアコンなどで、これらはすべてベトナムの公序良俗に反しないか、 審査された上で放送される。下着姿のタイ女性が登場するフランス企業のミネラル・ウォーターのCMはその部分を削られた。
 フン副部長は、「指導部の意見と、視聴者の要求を勘案して、 より良い物を提供するのが我々の仕事だ」と話している。
(ハノイ・林田 裕章)
(読売新聞)


祭りとベトナム社会
復活した大祭、様変わり 女性も参加、博打や爆竹は禁止
 ベトナム北部のテト(旧正月)にはあちこちの村で祭りがある。 なかでも一番多いのは、祖国英雄の伝説をもとにした村の守り神の祭りである。 そこには中国に侵されつづけてきたこの国の長い歴史がにじんでいる。
 ハタイ省のラー大祭も、豊作のあとの「遊びの月=旧正月」におこなわれてきた伝統祝祭のひとつである。 第二次世界大戦以前と比較すると期間が縮まって3日間になったが、それでも、祭りの仕組みは今も昔も基本的にかわっていない。
 第一日日には、虎の皮の敷物を敷いた神輿に神を奉じ、 神が日常の住まいとしている「管」から村の廟である「亭」へと行列を組む。 第二日日には「亭」の礼儀がある。そして村に屋台が出、劇団が小屋をつくり、民謡がうたわれ、 いろいろな遊びごとがある。そして第三日日には伝説英雄物語をもとにした虎退治の歴史劇があって、 神を「管」へ送り返す行列を組む。
 古老の記憶するもっとも古い大祭は1942年のもので、1946年独立宣言後も、 1952年に大きな祭りがあったという。対仏戦争勝利ののち、 北ベトナムがハノイを首都とした1954年にも大祭があったが、 これが社会主義時代でははじめての祭りだった。
 しかし、その後の長い戦争によって、祭りはずっと中断されてしまった。 ようやく大祭が後活したのは、1990年のことであった。人々は忘れかけていた伝統儀礼を後活させ、 とぼしい生活のなかから、25万円にも相当する金をだしあって祭具や衣装をあらたに調達した。 (ハノイの肉うどんが一杯50円という世界の話である)。 高齢者たちが先立ちになって、歴史劇を思い出し、復元した。 このようにして、ラーの大祭は息を吹き返した。しかし、よくみると、仕組みこそ変わらないものの、 この祭りには昔と変わった点がいくつかないわけではない。 まず、それまで豊作の年におこなってきた大祭が定間隔の開催に関わっている。 これで祭りと農業とのつながりが少し薄れたかわりに大祭が広く村外にも知られ、待たれるようになった。
ハノイ郊外のラー大祭(筆者撮影)
 かつての祭りでは権力をふるう家が10軒あり、その手先である里長が権威を振り回す威圧的なものだったという。 どさ回りの劇団、あひる追い、相撲、博打、 獅子舞などがあちこちで行われ、屋台が村の道をうずめていたという。 現在では爆竹が禁止され、博打など不健全な遊びはすべてご法度になっているから、 その分祭りは静かで穏やかである。そして、若い男たちにはこの点がちょつと物足りないらしい。
 夜の祭りだったラー大祭が昼に移行したため、夜通しの大騒ぎもなくなった。 支配層中心の祭礼組織を軸にする村人のつながりも薄れている。それにかわって、 老人会と祖国戦線に支えられた祭礼委員会が活躍している。男性だけだった祭りに女性が参加し、 行列に加わるようになったのは1990年代からである。 以来祭りの行列は色とりどりの衣装を着こんだ若い女性の集団を中心に華やいだものになつた。 その反面、かつては主役の座にあった青年男子たちの役割は小さくなっているようだ。
 ラー大祭をはじめ、北部ベトナムのテトで行われる村祭りには実は困ったことが一つだけある。 一期作が行われていた昔には農閑期で遊びの時期だったテトの季節が、逆に農繁期とぶつかるようになってしまったからである。 ベトナム北部の米づくりは、いまやどこも二期作である。2月が第一回の田頼えどきになり、 5月が収穫どきとなった。テトの時期はちょうど第一回の田植え時期にぶつかってしまったのである。 かくて、祭りの行列のすぐわきで、若者たちが苗を束ね、 田をつくるという奇妙な光景が見られることになったが、これもこの国の新しいエネルギーの現れなのだろう。              
松平 誠(女子栄養大学教授・生活文化論)
(読売新聞)


あとがき

 新しい風、それは涼しげなそよ風でしょうか、嵐のような激しい風でしょうか。 今回、新しく小さなグループ、「ベトナム人友好会」が何かと連絡をとったり、 ニュースを通して交わりを深めるために簡単な小冊子を作って、皆様にお届けすることになりました。 新しい風によって集められたボランティアが目指すところは、 できるだけ不安を取り除きベトナムの方々が自分の「場」を得て生活されるようにとの願いを実現させることにあります。
 言葉の問題から始まって、生きていくために様々な困難があることは言うまでもありませんが、 日本という社会にあって満足に近い生活ができれば、 ベトナム人、日本人双方にとって安心できる環境作りの成果が少しずつ見えてくると思います。 役割は異なっても一緒に歩こうとする姿勢には共通点があります。 私たちのグループとしては、支えながら元気づけ、心を奮い立たせて脇役の仕事に徹することが、重要な役割になるでしょう。
 情報処理や経済的支援も現実の問題として欠かせませんが、それらが正しく 人々の心を結ぶ力になっていなければ、安心感も平和ももたらすことは出来ないと思います。 今、多少なりとも土台ができて支柱を立て始めたところですが、 精神的なものと物質的なものが調和を保って神様を中心に働き助け合う「場」ができれば、 皆の支えになることでしょう。私たちが小さな存在として与えられた力をお互いの向上のために用いることができたら、 暖かい人間関係が発展していくと信じています。
 サン・テクジュベリは「いかにささやかであれ、自分の役割を自覚することができたとき、 我々は、はじめて幸福になる」(「人生」より)といっています。 もとより、これにはいろいろな意味がありますが、 ティームで何かをしようとするときに大切な姿勢はこの辺りに潜んでいるようです。 人間誰しも人を喜ばせたいと思っていても、果たしてそれが自分中心ではなく実現できるかどうかは難しいのです。 これからもベトナムの方々との交わりを深めていくために「ベトナム人友好会」を宜しくご支援、 ご指導くださいますようお願いいたします。
(中里 昭子)

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